「杖」 前田ちよ子

前田ちよ子さんが(多分)30代のころ書いたお話を載せます。未発表です。
            
若い貧乏絵描きのご主人から、犬がお使いに出されました。
絵描きの死んだ奥さんの所へです。
あわてて行った奥さんの忘れもの…歯ブラシとタオル。それに
化粧品とか。紫の風呂敷に小さく包んで犬の背中に結わえられ
ました。
 
生きた人と死んだ人と 言葉を交わすこと、手紙を交わすことは
できません。死者の国へは犬だけが出入りできるのです。
ただ絵描きの犬はまだしっかり大きくなっていないので、奥さんの
所までたどりつけるかどうか、犬は自信がありませんでした。
絵描きも犬になかなか行ってくれと言い出せませんでした。
けれども犬は絵描きの眼を見る度に何とも寂しくて、「行かせて下さい。
大丈夫です。」と眼で言ったのでした。
出かける時、犬は庭の木の枝を一本折ってもらって、紫の荷物と一緒
に背中につけてもらいました。それは杖のつもりでした。
しきたりに従って、夕暮に家を出て行く犬を見えなくなるまで見送った後、
絵描きはうす暗い家の中にぼんやり立っていました。
絵描きの眼の中に映っている部屋の隅のミシン。縫いかけのワンピース
は緑色です。指ぬきが鈍い銀色に光っていました。
絵描きは奥さんの好きだったピンクのフワフワしたセーターを思い出しま
した。タンスの前に行って、引き出しをひくと、二段目の右の方にそれが
ひしゃげてたたんでありました。 うす暗い部屋の中で、そのセーターは
白っぽくボーと毛羽立っています。
横に絵描きのGパンがたたんでありました。この前小鳥のスケッチに
出かけた時、森の木の枝で作ったひざの所のかぎざきが、細かい運針
で繕ってありました。
そういえば、ピンクのセーターを着た奥さんが針箱を広げて,廊下の日
だまりで手を動かしていたのを思い出しました。あれはこのGパンを繕っ
ていたのです。
うつむいた後姿の奥さんの丸い肩と背中。あの時のセーターはもっと
暖かなピンク色だったような気がしました。
絵描きは水を飲みに台所へ行きました。食器戸棚のガラス戸をあけて
コップを取ろうとすると、花柄の小さな奥さんのお茶碗が眼に入りました。
お揃いの白い湯飲が二つ並んでいます。
奥さんが忘れていったもの。 まだまだたくさん家の中にあるのです。
マフラーを首に巻くと、絵描きは街外れの一杯飲み屋へ行ったまま
明け方まで帰ってきませんでした。
犬が夕焼けの街を出て行ってから七日たちました。その日も暗い夕焼
けでした。絵描きがスケッチブックをかかえて風の中を帰ってくると、
玄関の所にうずくまっている黒いかたまりを見て、思わず立ち止まりました。
じっと眼をこらして見ると、間違いなく絵描きの犬です。絵描きは犬の所へ
走り寄りました。犬もその足音に気づいて首をもたげると、しっぽをかすか
にふるわせます。
スケッチブックをほうり投げると、絵描きは犬の頭をしっかり抱きかかえ
ました。犬の毛はつやを失い、濁った眼の回りは目やにでよごれています。
絵描きは犬の頭を幾度も幾度もつよくなでました。されるまま犬は目をつ
むっています。
背中に空の風呂敷がきちんと結わえてありました。やわらかすぎも固すぎ
もしない結び目でした。絵描きはその結び目を長いこと見つめてから 
そっとさわってみました。その時ふと犬のお腹の下から白っぽいものが
見えました。見ると犬の右の足に包帯がしてあります。泥とにじんだ血の
色で、足の先の方の包帯は真っ黒になっていました。手をふれてみると
犬はぴくりと足を引きました。その包帯は固すぎもやわらかすぎもしない
結び目をしていました。
奥さんは風呂敷を犬の背に結ぶ時、犬の足に包帯をする時、犬に何と
話しかけたのでしょうか。
犬は眼で何と奥さんに話したのでしょうか。
忘れものをどっさりして、奥さんはあまりにも絵描きから遠い所へ行き過
ぎているのです……
絵描きがひょろりと立ち上がると、目やにに囲まれた目を上げて犬は
ゆらゆらとしっぽを振りました。
左右に振られるしっぽの下に、出るとき持たせた木の枝がころがって
いました。その先端はささくれ立って、小石がいくつもいくつもつまって
いました。
                                        (完)

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