「いっしょに暮らしている人」

お彼岸の朝、TVで9.11のドキュメントと、それに続くイラク戦争の映像を見ていて、心がささくれ立ち、血が流れはじめる。もう、辛くて途中で消した。
その後、羽生槙子さんの「いっしょに暮らしている人」という詩集をまた読む。少し心が落ち着いて、頭上に晴れ間が見え、日差しがほのかにみえてくる。こんな風にして人びとは毎日暮らしている。ここに当たり前の生活があるのに、と。
                       平野
           庭では すすきの垂れた穂に
           のらねこの子ねこがあきずにとびついて
           あの人が娘家族のところに行くので
           わたしは
           ゆで栗とゆでぎんなんと梅干しと
           ぶどうを持っていってもらいます
           栗は人からいただいたもの
           ぎんなんはあの人が
           勤め先のいちょう並木から拾ってきたもの
           梅干しはわたしが漬けて干したもの
           ぶどうも人からいただいたもの
           木の実ばっかり
           秋ですから
           あの人はりすのおみやげみたいのを
           持っていってくれるでしょう
           大きい川が流れる土地を
           銀色の帯のような川を
           あの人は四つもわたっていくでしょう
           関東平野を横切るのでしょう
           あの人はあした
           孫娘の保育園の運動会を見に行くでしょう
           関東平野の秋の日ざしを見にいくのです
           子どもをそりにのせて走る
           競技にまじって走ったりするのかもしれません
           あの人は
           秋の木蔭のチラチラする光を
           頭からかぶりに行くのです
           遠い山々からの
           木枯らしの前ぶれみたいな
           風の中に立ちにも行くのでしょう
           あの人は 木の実のおみやげをいっぱい持って
           銀色の川を四つもわたり
           平野を横切り
           空の青に顔をひたしに
           秋の運動会に行くのでしょう
                      ※
 この語り口と、歩行するリズムの心地よさに、自分の呼吸をつけながら、想像力が共に旅をしていく。
長く暮らして老いを迎えつつある日々の夫婦の暮らしの中で、このようなナイーブなまなざしを持って、パートナーへの想い(生きることへのなつかしさそのものみたい)に、ある角度から光をあて、詩作品に取り入れることは、とても難しいことではないか。ナイーブに、気取りのない表現で。
 これは多分羽生槙子さんの「言葉」へのながい修練と、また生きることへの持続的な意識のあり方からのみ生まれたよき収穫なのだと思う。
 そして、これはまた女性であるからこそ書けた詩かもしれない。現代詩のなかで、家族や夫婦の関係についての、(人と人との関係についての)あるあたらしい表現意識ではないか。それは、当然詩人の生きてきた、ぬきさしならないありように負っているのだけれど。
次回、もう一篇魅力的な詩を引用させていただきたい。
   
               

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