昨日今日と、つづけて横浜美術館に「余白の芸術」展を見に行った。といっても、今日はうっかりものの私のことゆえ、昨日なんと館の正面におかれた特大の作品を見落として、それをまた見に行ったわけなのだが。リーウファンの作品世界のなかを歩いていると、なぜか心が非常に静かになって、日ごろの喧騒世界の表皮をくぐって宇宙の芯の部分に独りでこしかけているような気になる。
おおきな白いキャンヴァスにわずか3箇所、控えめな墨色でおかれた三つの点、あるいは木や石や鉄だけがぽつんと置かれている寡黙な空間。作品はあくまでも静謐であり、互いに宇宙的な関係性のなかで、交感し合い、響きあう…。
自己表現としての芸術という言葉に違和感を感じている私は、ここでは表現者もまた外からの声に見返され、相互的なこだまのような存在になりつづけていく場を感じて安堵する。(近代美術での作者という名の「主体」中心主義を批判)してきた彼の、このような「余白」の作品には、東洋的な感性をも感じつつ共感してしまう。21世紀芸術への指標のように、それらの作品たちは置かれているように感じる。
饒舌と過剰とスピードの喧騒世界の一角で、LEEUFANの静けさに浸った私は、帰りに彼の詩集を買って読みながら帰った。
《余白とは
空白のことではなく
行為と物と
空間が鮮やかに響き渡る
開かれた力の場だ。
それは作ることと
作らざるものが
せめぎ合い、
変化と暗示に富む
一種の矛盾の世界といえる。
だから余白は
対象物や言葉を越えて、
人を沈黙に導き
無限に呼吸させる。》
LEEUFAN展のカタログより
李禹煥の言葉
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