目次
燕
砂の花
夢からさめて
蜻蛉
夕の海
いかなれば
決心
朝顔
八月の石にすがりて
水中花
自然に、充分自然に
夜の葦
燈台の光を見つつ
野分に寄す
若死
沫雪
笑む稚児よ……
早春
孔雀の悲しみ
夏の嘆き
疾駆
おほかたの親しき友は、「時」と「さだめ」の
酒つくり搾り出だしし一の酒。見よその彼等
酌み交す円居の杯のひとめぐり、将たふためぐり、
さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。
友ら去りにしこの部屋に、今夏花の
新よそほひや、楽しみてさざめく我等、
われらとて地の臥所の下びにしづみ
おのが身を臥所とすらめ、誰がために。
酒つくり搾り出だしし一の酒。見よその彼等
酌み交す円居の杯のひとめぐり、将たふためぐり、
さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。
友ら去りにしこの部屋に、今夏花の
新よそほひや、楽しみてさざめく我等、
われらとて地の臥所の下びにしづみ
おのが身を臥所とすらめ、誰がために。
森亮氏訳「ルバイヤツト」より
燕
門の外の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽
燕ぞ鳴く
単調にして するどく 翳なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く
汝 遠くモルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる
彼方の空より 来りしもの
翼さだまらず 小足ふるひ
汝がしき鳴くを 仰ぎきけば
あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と
羽うちたたきし 繁き海波を 物語らず
わが門の ひかりまぶしき 高きところに 在りて
そはただ 単調に するどく 翳なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く
砂の花 富士正晴に
松脂は つよくにほつて
砂のご門 砂のお家
いちんち 坊やは砂場にゐる
黄色い つはの花 挿して
それが お砂の花ばたけ
… … … … … … … … … … … … …
地から二尺と よう飛ばぬ
季節おくれの もんもん蝶
よろめき縋る 砂の花
坊やはねらふ もんもん蝶
… … … … … … … … … … … … …
その一撃に
花にうつ俯す 蝶のいろ
あゝ おもしろ
花にしづまる 造りもの
「死んでる? 生きてる?」
… … … … … … … … … … … … …
松脂は つよくにほつて
いちんち 坊やは砂場にゐる
夢からさめて
この夜更に、わたしの眠をさましたものは何の気配か。
硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原御陵の丘の斜面で
火が燃えてゐる。そして それを見てゐるわたしの胸が
何故とも知らずひどく動悸うつのを感ずる。何故とも知らず?
さうだ、わたしは今夢をみてゐたのだ、故里の吾古家のことを。
ひと住まぬ大き家の戸をあけ放ち、前栽に面した座敷に坐り
独りでわたしは酒をのんでゐたのだ。夕陽は深く廂に射込んで、
それは現の日でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情もないその冷たさ、透明さ。
そして庭には白い木の花が、夕陽の中に咲いてゐた
わが幼時の思ひ出の取縋る術もないほどに端然と……。
あゝこのわたしの夢を覚したのは、さうだ、あの怪しく獣めく
御陵の夜鳥の叫びではなかつたのだ。それは夢の中でさへ
わたしがうたつてゐた一つの歌の悲しみだ。
かしこに母は坐したまふ
紺碧の空の下
春のキラめく雪渓に
枯枝を張りし一本の
木高き梢
あゝその上にぞ
わが母の坐し給ふ見ゆ
蜻蛉
無邪気なる道づれなりし犬の姿
何処に消えしと気付ける時
われは荒野の尻に立てり。
其の野のうへに
時明してさ迷ひあるき
日の光の求むるは何の花ぞ。
この問ひに誰か答へむ。弓弦断たれし空よ見よ。
陽差のなかに立ち来つつ
振舞ひ著し蜻蛉のむれ。
今ははや悲しきほどに典雅なる
荒野をわれは横ぎりぬ。
夕の海
徐かで確実な夕闇と、絶え間なく揺れ動く
白い波頭とが、灰色の海面から迫つて来る。
燈台の頂には、気付かれず緑の光が点される。
それは長い時間がかゝる。目あてのない、
無益な予感に似たその光が
闇によつて次第に輝かされてゆくまでには――。
が、やがて、あまりに規則正しく回転し、倦むことなく
明滅する燈台の緑の光に、どんなに退屈して
海は一晩中横はらねばならないだらう。
いかなれば
いかなれば今歳の盛夏のかがやきのうちにありて、
なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。
夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。
いかなれば葉広き夏の蔓草のはなを愛して曾てそをきみの蒔かざる。
曾て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。
決心 「白の侵入」の著者、中村武三郎氏に
重々しい鉄輪の車を解放されて、
ゆふぐれの中庭に、疲れた一匹の馬が彳む。
そして、轅は凝とその先端を地に著けてゐる。
けれど真の休息は、その要のないものの上にだけ降りる。
そしてあの哀れな馬の
見るがよい、ふかく何かに囚はれてゐる姿を。
空腹で敏感になつたあいつの鼻面が
むなしく秣槽の上で、いつまでも左右に揺れる。
あゝ慥に、何かがかれに拒ませてゐるのだ。
それは、疲れといふものだらうか?
わたしの魂よ、躊躇はずに答へるがよい、お前の決心。
朝顔 辻野久憲氏に
去年の夏、その頃住んでゐた、市中の一日中陽差の落ちて来ないわが家の庭に、一茎の朝顔が生ひ出でたが、その花は、夕の来るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。その時の歌、
そこと知られぬ吹上の
終夜せはしき声ありて
この明け方に見出でしは
つひに覚めゐしわが夢の
朝顔の花咲けるさま
さあれみ空に真昼過ぎ
人の耳には消えにしを
かのふきあげの魅惑に
己が時逝きて朝顔の
なほ頼みゐる花のゆめ
八月の石にすがりて
八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。
運命? さなり、
あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!
白き外部世界なり。
見よや、太陽はかしこに
わづかにおのれがためにこそ
深く、美しき木蔭をつくれ。
われも亦、
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。
水中花
水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい/\削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。
今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
自然に、充分自然に
草むらに子供はく小鳥を見つけた。
子供はのがしはしなかつた。
けれども何か瀕死に傷いた小鳥の方でも
はげしくその手の指に噛みついた。
子供はハツトその愛撫を裏切られて
小鳥を力まかせに投げつけた。
小鳥は奇妙につよく空を蹴り
翻り 自然にかたへの枝をえらんだ。
自然に? 左様 充分自然に!
――やがて子供は見たのであつた、
礫のやうにそれが地上に落ちるのを。
そこに小鳥はらく/\と仰けにね転んだ。
夜の葦
いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう
それを 誰れが どこで 見てゐたのだらう
とほい湿地のはうから 闇のなかをとほつて 葦の葉ずれの音がきこえてくる
そして いまわたしが仰見るのは揺れさだまつた星の宿りだ
最初の星がかがやき出す刹那を 見守つてゐたひとは
いつのまにか地を覆うた 六月の夜の闇の余りの深さに 驚いて
あたりを透かし 見まはしたことだらう
そして あの真暗な湿地の葦は その時 きつとその人の耳へと
とほく鳴りはじめたのだ
燈台の光を見つつ
くらい海の上に 燈台の緑のひかりの
何といふやさしさ
明滅しつつ 廻転しつつ
おれの夜を
ひと夜 彷徨ふ
さうしておまへは
おれの夜に
いろんな いろんな 意味をあたへる
嘆きや ねがひや の
いひ知れぬ――
あゝ 嘆きや ねがひや 何といふやさしさ
なにもないのに
おれの夜を
ひと夜
燈台の緑のひかりが 彷徨ふ
野分に寄す
野分の夜半こそ愉しけれ。そは懐しく寂しきゆふぐれの
つかれごころに早く寝入りしひとの眠を、
空しく明くるみづ色の朝につづかせぬため
木々の歓声とすべての窓の性急なる叩もてよび覚ます。
真に独りなるひとは自然の大いなる聯関のうちに
恒に覚めゐむ事を希ふ。窓を透し眸は大海の彼方を待望まねど、
わが屋を揺するこの疾風ぞ雲ふき散りし星空の下、
まつ暗き海の面に怒れる浪を上げて来し。
柳は狂ひし女のごとく逆まにわが毛髪を振りみだし、
摘まざるままに腐りたる葡萄の実はわが眠目覚むるまへに
ことごとく地に叩きつけられけむ。
篠懸の葉は翼撃たれし鳥に似て次々に黒く縺れて浚はれゆく。
いま如何ならんかの暗き庭隅の菊や薔薇や。されどわれ
汝らを憐まんとはせじ。
物皆の凋落の季節をえらびて咲き出でし
あはれ汝らが矜高かる心には暴風もなどか今さらに悲しからむ。
こころ賑はしきかな。ふとうち見たる室内の
燈にひかる鏡の面にいきいきとわが双の眼燃ゆ。
野分よさらば駆けゆけ。目とむれば草紅葉すとひとは言へど、
野はいま一色に物悲しくも蒼褪めし彼方ぞ。
若死 N君に
大川の面にするどい皺がよつてゐる。
昨夜の氷は解けはじめた。
アロイヂオといふ名と終油とを授かつて、
かれは天国へ行つたのださうだ。
かれは天国へ行つたのださうだ。
大川は張つてゐた氷が解けはじめた。
鉄橋のうへを汽車が通る。
さつきの郵便でかれの形見がとゞいた、
寝転んでおれは舞踏といふことを考へてゐた時。
寝転んでおれは舞踏といふことを考へてゐた時。
しん底冷え切つた朱色の小匣の、
真珠の花の螺鈿。
若死をするほどの者は、
自分のことだけしか考へないのだ。
自分のことだけしか考へないのだ。
おれはこの小匣を何処に蔵つたものか。
気疎いアロイヂオになつてしまつて……。
鉄橋の方を見てゐると、
のろのろとまた汽車がやつて来た。
のろのろとまた汽車がやつて来た。
沫雪 立原道造氏に
冬は過ぎぬ 冬は過ぎぬ。匂ひやかなる沫雪の
今朝わが庭にふりつみぬ。籬枯生はた菜園のうへに
そは早き春の花よりもあたたかし。
さなり やがてまた野いばらは野に咲き満たむ。
さまざまなる木草の花は咲きつがむ ああ その
まつたきひかりの日にわが往きてうたはむは何処の野べ。
…… いな いな …… 耳傾けよ。
はや庭をめぐりて競ひおつる樹々のしづくの
雪解けのせはしき歌はいま汝をぞうたふ。
笑む稚児よ……
笑む稚児よわが膝に縋れ
水脈をつたつて潮は奔り去れ
わたしがねがふのは日の出ではない
自若として鶏鳴をきく心だ
わたしは岩の間を逍遙ひ
彼らが千の日の白昼を招くのを見た
また夕べ獣は水の畔に忍ぶだらう
道は遙に村から村へ通じ
平然とわたしはその上を往く
早春
野は褐色と淡い紫、
田圃の上の空気はかすかに微温い。
何処から春の鳥は戻る?
つよい目と
単純な魂と いつわたしに来る?
未だ小川は唄ひ出さぬ、
が 流れはときどきチカチカ光る。
それは魚鱗?
なんだかわたしは浮ぶ気がする、
けれど、さて何を享ける?
孔雀の悲しみ 動物園にて
蝶はわが睡眠の周囲を舞ふ
くるはしく旋回の輪はちぢまり音もなく
はや清涼剤をわれはねがはず
深く約せしこと有れば
かくて衣光りわれは睡りつつ歩む
散らばれる反射をくぐり……
玻璃なる空はみづから堪へずして
聴け! われを呼ぶ
夏の嘆き
われは叢に投げぬ、熱き身とたゆき手足を。
されど草いきれは
わが体温よりも自足し、
わが脈搏は小川の歌を乱しぬ。
夕暮よさあれ中つ空に
はや風のすずしき流れをなしてありしかば、
鵲の飛翔の道は
ゆるやかにその方角をさだめられたり。
あゝ今朝わが師は
かの山上に葡萄を食しつつのたまひしか、
われ縦令王者にえらばるるとも
格別不思議に思はざるべし、と。
疾駆
われ見てありぬ
四月の晨
とある農家の
厩口より
曳出さるる
三歳駒を
馬のにほひは
咽喉をくすぐり
愛撫求むる
繁き足蹈
くうを打つ尾の
みだれ美し
若者は早
鞍置かぬ背に
それよ玉揺
わが目の前を
脾腹光りて
つと駆去りぬ
遠嘶の
ふた声みこゑ
まだ伸びきらぬ
穂麦の末に
われ見送りぬ
四月の晨