富永太郎詩集

富永太郎








病みさらぼへたこの肉身を
湿りたるわくら葉に横たへよう

わがまはりにはすくすくと
節の長き竹が生え
冬の夜の黒い疾い風ゆゑに
茎は戛々の音を立てる

節の間長き竹の茎は
我が頭上に黒々と天蓋を捧げ
網目なすそのひと葉ひと葉は
夜半の白い霜を帯び
いとも鋭い葉先をさし延べ
わが力ない心臓のかたをゆびさす





雪解けの午後は淋し
砂利を噛む荷車の
轍の遠くきこえ
疲れ心地にふくみたる
パイプの煙をのゝく
室ぬちは冬の日うすれ
描きさしのセント・セバスチアンは
低くためいきす。
電燈のとぼるを待ちつ
われは今 わが心のうつろを眺む。





半缺けの日本につぽんの月の下を、
一寸法師の夫婦が急ぐ。

二人ながらに 思ひつめたる前かゞみ、
さても毒々しい二つの鼻のシルヱツト。

なま白い河岸をまだらに染め抜いた、
柳並木の影を踏んで、
せかせかと――何に追はれる、
揃はぬがちのその足どりは?

手をひきあつた影の道化は
あれもうそこな遠見の橋の
黒い擬宝珠の下を通る。
冷飯草履の地を掃く音は
もはや聞えぬ。

半缺の月は、今宵、柳との
逢引の時刻ときを忘れてゐる。









を知らぬ原始林の
幾日幾夜の旅の間
わたくし 熟練な未知境の探険者は
たゞふかぶかと頭上に生ひ伏した闊葉の
思ひつめた吐息を聴いたのみだ。
たゞあなうらに踏む湿潤な苔類の
ひたむきな情慾を感じたのみだ。



まことに原始林は
光なき黄金の水蒸気に氾濫し
夏の日の大いなる堆肥の内部さながらに
エネルギーの無言の大饗宴であつた。
あゝ嘗て私の狂愚と慚羞とを照した太陽は
この探険の最初の日
さりげなく だが 赤々とその身を萎み
私をこの植物の大穹窿の中へと解き放つた。
その日から私に与へられたのは
獣類の眠りのやうな漆黒の忘却であつた……
それを思へば
今もなほ あゝ 喜びに身が慄ふ!



毛並さはやかな仔豹のやうに しづしづと
また軽捷に
私は怪奇な木賊族の夢を貪婪に掻き分けた――
何ものの悪意も知らず 怖れもなくて
強靱な植物らの絶え間なく発汗する
強酒のやうな露を身に浴び
誇りかに たゞ誇りかに
鼻孔をひらき かぐろいエーテルを分けて進み行くわが身は
心楽しく闇と海とに裂傷をつくる
春の夜の無心の帆船であつた。

だが ときをりは
嘗て見た何かの外套マントオのやうな
巨大な闊葉の披針形が
月光のやうに私の心臓に射し入つてゐたこともあつたが……




恥らひを知らぬにち々の燥宴のさなかに
ある日(呪はれた日)
私の暴戻な肉体は
大森林の暗黒の赤道を航過した!
盲ひたる 酔ひしれたる一塊の肉 私の存在は
何ごともなかつたものゝやうに
やはり得々と 弾力に満ちて
さまざまの樹幹の膚の畏怖の中を
軽々と摺り抜けて進んでは行つたが、
しかし
喩へば肉身を喰む白浪の咆吼を
砂丘のかなたに予感する旅人のやうに
心はひそやかな傷感に衝き入られ
何のためとも知らぬ身支度に
おのが外殻の硬度を験めす日もあつたのだ!



(未完)





はがねの波に
  アベラール沈み
鉛のとも
  エロイーズ浮む

骸炭はみをに乗り
直立する彼岸花を捧げて走り
『死』は半ばくちを開いて 水を恋ひ
また おき霊床たまどことする
すべては 緑礬のみづ底に息をつく
象牙だまの腹部のうちら側に





母親は煎薬を煎じに行つた
枯れた葦の葉が短かいので。
ひかりが掛布の皺を打つたとき
寝台はあまりに金の唸きであつた
寝台は
いきれたつ犬の巣箱の罪をのり超え
大空の堅い眼の下に
幅びろの青葉をあつめ
棄てられた藁の熱を吸ひ
たちのぼる巷の中に
青ぐろい額の上に
むらがる蠅のうなりの中に
寝台はのど渇き
求めたのに求めたのに
枯れた葦の葉が短かいので
母親は煎薬を煎じに行つた。





人語なく、月なき今宵
色ねびし窓ぎぬの吐息する
此の古城なる図書室の中央の
遠き異国の材もて組める
残忍の相ある堅き牀机に
ありし日よりの凝固せる大気の重圧に
生得しやうとくひづみ悉皆消散せる
一片の此の肉体を枯坐せしめ
勇猛ゆうみやうなくかひなき修道なれど
なほそが為に日頃捨離せる真夜中の休息を
貪りて、また貪らうとはする。

青笠に銀の台ある古いらんぷが
この陰惨の大図書室の
四周に、はた床上に高々と積みなせる
ありし世の虚しき錬金の道士、呪文の行者らの
これら怪奇の古書冊を照し出だせば
一切は錯落の影を湛へ
影は層々の影を生む。

何者の驕慢ぞ――この深夜一切倦怠の時
薄明のわだつみの泡のやうに
数夥しい侏儒のやから
おのがじゝ濃藍色の影に拠り
乱舞して湧き出でゝ
竜眼肉のたねめいたつぶらまなこをむき出だし、今
侮慢を、嘲笑を踏歌すれば
宿命の氷れる嵐
狂ほしく胸のとぼそに吹き入つて
今や、はや、肉枯れしかひなさし延べ
はかなき指頭に現象の秘奥まさぐり
まことの君に帰命せん心も失せて
難行の坐に、放心し、仮睡する……。





古池の上に
ぬつと突き出たマドロスパイプ。
下ではあめんぼが
番つたまゝすつと走る。
しやがんだ散策者の吐き出すけむ
池の中で夕焼雲に追ひすがる。





眼球は日光を厭ふ故に
まぶたの鎧戸をひたとおろし
頭蓋の中へ引き退く。

大脳の小区画を填めるものは
困憊したさまざまの食品である。
青かびに被はれたパンの缺け、
切り口の饐えたソオセエジ……
オリーヴ油はまださらさらと透明らしいが
瓶一面の埃のために
よくは見えない。

眼球は醜い料理女である。
厨房の中はうす暗い。
彼女は床のまん中で
少しばかりの獣脂を焚く。
背の低い焔が立つて
油煙がそつと 頭蓋の天井に附く。

彼女は大脳の棚の下をそゝくさとゆきゝして
幾品かの食品をとりおろす。
さて 片隅の大鍋をとつて
もの倦げに黄いろな焔の上にかける……

彼女はこの退屈な文火とろびの上で
誰のためにあやしげな煮込みをつくらうといふのか。
彼女は知らない。
けれども、それが彼女の退屈な
しかし唯一の仕事である。

大脳はうす暗い。
頭蓋はくすぶつてゐる。
彼女は――眼球は愚かなのである。





阪を上りつめてみたら、
盆のやうな月と並んで、
黒い松の木の影一本……
私は、子供らが手をつないで歌ふ
「籠の鳥」の歌を歌はうと思つた。
が、忘れてゐたので、
煙草の煙を月のおもてに吐きかけた。
煙草は
私の
歌だ。





おまへの手はもの悲しい
酒びたしのテーブルの上に。
おまへの手は息づいてゐる、
たつた一つ、私の前に。
おまへの手を風がわたる、
枝の青蟲を吹くやうに。

私は疲れた、靴は破れた。





夕暮の癲狂院は寂寞ひつそりとして
苔ばんだ石塀を囲らしてゐます。
中には誰も生きてはゐないのかもしれません。

看護人の白服が一つ
暗い玄関に吸ひ込まれました。

むかふの丘の櫟林の上に
赤い月が義理でのぼりました
(ごくありきたりの仕掛です)。

青い肩掛のお嬢さんが一人
坂をあがつて来ます。
ほの白いあごを襟にうづめて
脣の片端が思ひ出し笑ひにぢれてゐます。

――お嬢さん、行きずりのかたではありますが、
石女うまずめらしいあなたのまなじり
崇めさせてはいたゞけませんか。
誇らしい石の台座からよほど以前にずり落ちた
わたしの魂が跪いてさう申します。

――さて、坂を下りてどこへ行かうか……
やつぱり酒場か。
これも、何不足ないわたしの魂の申したことです。





七月の日光の
多彩なるアラベスク。

七月の日光の
くつがへされた坩堝。

白昼の星より
女人によにんしゝむらは墜つ。

このロコヽ宮殿の
脚を断て。

あかしゝむら
宙宇にさかしまなり。

大理石なめいしの噴泉の
脣を噛め。

多彩なるアラベスク。
覆された坩堝

立ちならぶ電柱は
火を発す。





今宵私のパイプは橋の上で
狂暴に煙を上昇させる。

今宵あれらの水びたしの荷足にたり
すべて昇天しなければならぬ、
頬被りした船頭たちを載せて。

電車らは花車だしの亡霊のやうに
音もなくの中に拡散し遂げる。
(靴穿きで木橋もくけうを蹈む淋しさ!)

私は明滅する「仁丹」の広告塔を憎む。
またすべての詞華集アントロジーとカルピスソーダ水とを嫌ふ。

哀れな欲望過多症患者が
人類撲滅の大志を抱いて、
最後を遂げるに間近いよるだ。

蛾よ、蛾よ、
ガードの鉄柱にとまつて、震へて、
夥しく産卵して死ぬべし、死ぬべし。

咲き出でた交番の赤ランプは
おまへの看護みとりには過ぎたるものだ。





Honteオント ! honteオント !
眼玉の 蜻蛉とんぼ
わが身を さら
わが身を くら

Honteオント ! honteオント !
燃えたつ 焜爐こんろ
わが身を 焦がせ
わが身を 鎔かせ

Honteオント ! honteオント !
干割ひわれた 咽喉のんど
わが身を 涸らせ
わが身を 曝らせ

Honteオント ! honteオント !
 おまへは
    泥だ





五月のほのかなる葉桜の下を
遠き自動車は走り去る。
わが欲情を吸収する
堀ばたの赤き尖塔よ。
埃立つ道に沿ひて
兵営の白き塀は曲り行く。





うす暗い椽側の端で、
琥珀色した女の瞳が
光つた――夫に叛いた。

もうむかふへ向いた、
庭の樹立と遊んでゐる――
あの狡猾なまなざしは。

とり残された共犯者が
清潔な触手で追ひかける。
だがみんな滑つてしまつた、
女の冷たい角膜の上を。

夫の眼がやつと、鋭く、追ひかけた。
薄闇の中でカチカチとぶつかる、
樹と 夕焼と 瞳と、
瞳と……瞳と……。





ありがたい静かなこの夕べ、
何とて我が心は波うつ。

いざ今宵一夜ひとよ
われととり出でたこの心の臓を
窓ぎはの白き皿に載せ、
心静かに眺めあかさう。
月も間もなく出るだらう。





月青く人影なきこの深夜
家々の閨をかいま見つゝ
白き巷を疾くよぎる侏儒の影あり

愚かなるさまして黒々と立てる屋根の下に
臥所ふしどありて人はいぎたなく眠れり
家々はかく遠く連なりたれど
眠の罪たるを知るもの絶えてあらず

月も今宵その青き光を恥ぢず
快楽けらくを欲する人間の流す
いつはりの涙に媚ぶと見えたり

かゝる安逸の領ずるよるなれば
あらんかぎりの男女をとこをみなの肌を見んとて
魔性の侏儒は心たのしみ
おもはゆげもなく軒より軒へ
白き巷をよぎりゆくなり





たゞひとり黎明の森を行く。
風は心虚しく幹のあはひを翔り、
木々はみなその白き葉裏をかへす。

樹の間がくれに、足速あしばや
白き馬を牽きゆくは誰ぞ。

道のの 歯朶の群をのゝけり。
かゝるとき、湿りたる岩根を踏めば
あゝ、わが出しやうの記憶甦へる。





幾日いくひ幾夜いくよの 熱病ののちなる
濠端のあさあけを讃ふ。

琥珀の雲 溶けて蒼空あをぞらに流れ、
覚めやらで水を眺むる柳の一列ひとつらあり。

もやひたるボートの 赤き三角ばた
密閉せる閨房のをあけはなち、
暁の冷気をよろこび甜むる男の舌なり。

朝なれば風はちて 雲母きららめく濠のおもてをわたり、
通学する十三歳の女学生の
白き靴下とスカートのあはひなる
ひかがみの青き血管に接吻す。

朝なれば風は起ちて 湿りたる柳の葉末をなぶり、
花を捧げて足ばや木橋きばしをよぎる
反身そりみなる若き女のもすそかへす。
その白足袋の 快き哄笑を聴きしか。

ああ 夥しき欲情は空にあり。
わが肉身は 卵殻の如く まつたく且つもろくして、
陽光はほのあかく 身うちにし入るなり。





おまへの歯は よく切れるさうな

山々の皮膚が あんなに赤く
夕陽ゆふひで爛らされた鐃鉢ねうばち
焦々して 摺り合せてゐる
おまへはもう 暗い部屋へ帰つておくれ

おまへの顎が、薄明うすあかりを食べてゐる橋の下で
友禅染を晒すのだとかいふくろい水が
産卵を終へた蜉蝣かげろふの羽根を滲ませる
おまへはもう 暗い部屋へ帰つておくれ

色褪せた造りものの おまへの四肢てあしの花々で
貧血の柳らを飾つてやることはない
コンクリートの護岸堤は 思ひのままにしらけさせよう
おまへはもう 暗い部屋へ帰つておくれ

ああ おまへの歯はよく切れるさうな





地は定形かたちなく曠空むなしくして黒暗やみわだの面にあり
神の霊水の面を覆ひたりき
――創世記

黒暗やみの潮 今満ちて
晦冥のよるともなれば
仮構の万象そが※[#「門<亥」、U+95A1、19-上-9]性を失し
解体の喜びに酔ひ痴れて
心をのゝき
渾沌の母の胸へと帰入する。

窓外の膚白き一樹は
とぼそ漏る赤きとぼしに照らされて
いかつく張つた大枝も、金属性の葉末もろ共
母胎の汚物まだ拭はれぬ
孩児みどりごの四肢のすがたを示現する。

かゝる和毛にこげの如きよる
コスモスといふ白日の虚妄を破り、
日光の重圧に 化石の痛苦
味ひつゝある若者らにも
母親の乳房まさぐる幼年の
至純なる淫猥の皮膚感覚をとり戻し
劫初なるわだおもより汲み取れる
ほの黒き祈り心をしたゝらす……

おんみ 天鵞絨の黒衣せるよる
香油にほひあぶらにうるほへるおんみ聖なる夜、
涙するわが双のまなこ
おんみの胸に埋むるを許したまへ。





琺瑯の野外の空に 明けの鳥一つ
阿爾加里性水溶液にて この身を洗へ
蟷螂はまなこ光らせ 露しげき叢を出づ
わが手は 緑玉製 Isisイジス膝の上に





青鈍あをにびたおまへの声の森に
あかゞねを浴びたこの額を沈めたい
柔く柔く 毛細管よりも貞順に
オーボアよ胸を踏め睫毛に縋れ





キオスクにランボオ
手にはマニラ
空は美しい
えゝ 血はみなパンだ



詩人が御不在になると
千家族が一家で軋めく
またおいでになると
おきてに適つたことしかしない


神様があいつを光らして、横にして下さるやうに!
それからあれが青や薔薇色の
パラソルを見ないやうに!
波の中は殉教者でうようよですよ




底本:「富永太郎詩集」現代詩文庫、思潮社
   1975(昭和50)年7月10日初版第1刷
   1984(昭和59)年10月1日第6刷
底本の親本:「定本富永太郎詩集」中央公論社
   1971(昭和46)年1月
入力:村松洋一
校正:川山隆
2014年3月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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