春鳥集

蒲原有明

櫻をばなど寢處にはせぬぞ、
花にねぬ春の鳥の心よ。

花にねぬこれもたぐひか鼠の巣。
ばせを



自序


 この集には前集『獨絃哀歌』に續ぎて、三十六年の夏より今年に至るまでの諸作を載せたり。
『夏まつり』は最も舊くして、『五月靄』は最近の作なり。
『※(「金+肅」、第3水準1-93-39)斧』にはこたび引説數行を添へて表面の筋を略敍したり。われはこれを公にしたる當時、世人の看て以て頗る解し難しと爲したるを意外に感じき。引説の如きは蛇足のみ。またこの引説は文字以外の義に及ぼさず、自讃に陷らむとするを憂ふればなり。

   *    *    *

 詩形の研究は或は世の非議を免かれざらむ。既に自然及人生に對する感觸結想に於て曩日と異るものあらば、そが表現に新なる方式を要するは必然の勢なるべし。夏漸く近づきて春衣を棄てむとするなり。然るに舊慣ははやくわが胸中にありて、この新に就かむとするを厭へり。革新の一面に急激の流れあるは、この染心を絶たむとする努力の遽に外に逸れて出でたるなり。かの音節、格調、措辭、造語の新意に適はむことを求むると共に、邦語の制約を寛うして近代の幽致を寓せ易からしめむとするは、詢に已み難きに出づ。これあるが爲に晦澁の譏を受くるは素よりわが甘んずるところなり。
 視聽等の諸官能は常に鮮かならざるべからず、生意を保たざるべからず。然らずば胸臆沈滯して、補綴の外、踏襲の外、あるは激勵呼號の外、遂に文學なからむとす。
「自然」を識るは「我」を識るなり。譬へば「自然」は豹の斑にして、「我」は豹の瞳子の如きか。「自然」は死豹の皮にあらざれば徒らに讌席に敷き難く、「我」はまた冷然たる他が眼にあらざれば決して空漠の見を容れず。「われ」に生き「自然」に輝きて、一箇の靈豹は詩天の苑に入らむとするなり。
 視聽等はまた相交錯して、近代人の情念に雜り、ここに銀光の音あり、ここに嚠喨の色あり。
 心眼といひ心耳といふと雖も、われ等は靈の香味をも嗅味の諸官に感ずることあり。嗅味を稱して卑官といふは官能の痛切を知らざるものの言ならむか。
 時としては諸官能倦じ眠りて、ひとり千歳を廢墟に埋もれし古銅の花瓶の青緑紺碧に匂ふが如きを覺ゆることあり。或は「朱を看て碧と成し」て美を識ることあり。
 一花を辨ぜずして詩を作るは謬れり。情熱に執して愛の靜光を愛せざるも亦謬れり。
 これをわが文學に見るに、平安朝の女流に清少あり、新たに享けたる感觸を寫すに精しくして幽趣を極む。かの五月の山里をありくに澤水のいと青く見えわたるを敍したる筆のすゑに、『蓬の車におしひしがれたるが輪のまひたちたるに近うかかへたる香もいとをかし。』といへる如きは、清新のにほひ長しへに朽ちざるものなり。元祿期には芭蕉出でて、隻句に玄致を寓せ、凡を錬りて靈を得たり。わが文學中最も象徴的なるもの。白罌粟は時雨の花にして、鴨の聲ほのかに白く、亡母の白髮を拜しては涙ぞ熱き秋の霜を悲しみ、或は椎の花の心をたづねよといひ、或は花のあたりのあすならふを指す。「古池」に禪意ありといひ、「木槿」に教戒ありと解するは、珠玉を以て魚目と混ずるなり。
 このごろ文壇に散文詩の目あり、その作るところのもの、多くは散漫なる美文に過ぎず。ボドレエル、マラルメ等の手に成りたるは果してかくの如きものか。思ふに俳文の上乘なるもののうちには、却てこの散文詩に値するものありて、かの素堂の『簔蟲の説』の類、蓋しこれなるべし。
 わが文學は溌溂の氣を失はずして、此等古文古句の殘れるあり。われ等の無爲にして陳腐のうちに※(「口+僉」、第4水準2-4-39)※(「口+禺」、第3水準1-15-9)するをゆるさず。
 物徂徠曰く、『萬古神奇悉在陳腐中、天不能舍鶯花而別爲春』と言は奇警なれども、こは自然の富を以て匱しとするに似たり。
 また曰く、『其爲人拗、不師古、專而自用、喜快心、惡※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)釀、喜放心、惡拘束……天生此一種人物、以轉盛※[#「走にょう+多」、U+8D8D、218-上-30]衰、破醇就漓』と、莊重の辭、晩季の風詢に此の如きもありしならむ。然れども今日の評家、或は識者にして、この言を爲して、新に境地を拓かむとするものに擬するあらば奈何。そはたまたま隆運の萌芽を解せざるに因る。隆運は將に雲蒸飛騰せむとす。われ等は幸にこの日に會ひて、却て舊見を持する舊人の多きをあやしむものなり。

明治三十八年五月
著者識


日のおちぼ


日の落穗(おちぼ)、月のしたたり、
殘りたる、誰(たれ)か味ひ、
こぼれたる、誰かひろひし、
かくて世は過ぎてもゆくか。
あなあはれ、日の階段(きざはし)を、
月の宮――にほひの奧を、
かくて將(は)た蹈めりといふか、
たはやすく誰か答へむ。

過ぎ去りて、われ人知らぬ
束の間や、そのひまびまは、
光をば闇に刻みて
音(おと)もなく滅えてはゆけど、
やしなひのこれやその露、
美稻(うましね)のたねにこそあれ、――
そを棄てて運命(さだめ)の啓示(さとし)、
星領(し)らす鑰(かぎ)を得むとか。

えしれざる刹那(せつな)のゆくへ
いづこぞと誰か定めむ、
犧牲(にへ)の身を淵にしづめて
いかばかりたづねわぶとも、
底ふかく黒暗(くらやみ)とざし、
ひとつ火(び)の影にも遇(あ)はじ。
痛(いた)きかな、これをおもへば
古夢(ふるゆめ)の痍(きず)こそ消えね、
永劫(とことは)よ、脊に負ふつばさ、
彩羽(あやは)もてしばしは掩(おほ)へ、
新しきいのちのほとり、
あふれちる雫むすばむ。


靜かにさめしたましひの


靜かにさめしたましひの
一日(ひとひ)は花とにほひ咲く、
ゆふべにねむる花なれば
贈らむすべはなけれども、
わが戀ふる人、君をこそ、
君が眼をこそ慕ひ咲け。

いかにひらきてたましひの
花となりけむ知らねども、
この曉の水を出で、
一日(ひとひ)のすがたゆるされて、
一夜(ひとよ)に消ゆるこの花の
さだめもすでにつたなしや。

高き臺(うてな)のあらばあれ、
光みがける欄干(おばしま)に
垂れてかからむすべもなく、
底ひもわかぬ青淵(あをぶち)の
浪に流るるひもすがら、
君にむかひて咲けるのみ。

靜かにひらく花なれど
花の頸(うなじ)は傾きぬ、
夕ばえ小島巖(いはほ)かげ
彩帆(あやほ)あげゆく鳥船(とりふね)の
すがたはあらで、さびしくも
ゆらぎてたてる花の性(さが)。

いにしへ一代(ひとよ)、后土(おほつち)の
いまだ焔と燃えし時、
火の海原(うなばら)の母の貝、
殼(から)の双葉(もろは)に晶玉(しやうぎよく)を
いつか産(う)みしと人知らぬ
それにも似たるたましひの花。


朝なり


朝なり、やがて濁川(にごりかは)
ぬるくにほひて、夜(よる)の胞(え)を
ながすに似たり。しら壁に――
いちばの河岸(かし)の並(な)み藏(ぐら)の――
朝なり、濕める川の靄。

川の面(も)すでに融(と)けて、しろく、
たゆたにゆらぐ壁のかげ、
あかりぬ、暗きみなぞこも。――
大川(おほかは)がよひさす潮(しほ)の
ちからさかおすにごりみづ。

流るゝよ、ああ、瓜(うり)の皮、
核子(さなご)、塵わら。――さかみづき
いきふきむすか、靄はまた
をりをりふかき香(か)をとざし、
消えては青く朽ちゆけり。

こは泥(ひぢ)ばめる橋ばしら
水ぎはほそり、こはふたり、――
花か、草びら、――歌女(うたひめ)の
あせしすがたや、きしきしと
わたれば嘆く橋の板。

いまはのいぶきいとせめて、
饐(す)えてなよめく泥(どろ)がはの
靄はあしたのおくつきに
冷(ひ)えつつゆきぬ。――鴎鳥(かもめどり)
あげしほ趁(お)ひて、はや食(あさ)る。

濁(にご)れど水はくちばみの
あやにうごめき、緑(みどり)練(ね)り、
瑠璃の端(は)ひかり、碧(あを)よどみ、
かくてくれなゐ、――はしためは
たてり、揚場(あげば)に――女(め)の帶や。

青ものぐるま、いくつ、――はた、
かせぎの人ら、――ものごひの
空手(むなで)、――荷足(にたり)のたぶたぶや、
艫(とも)に竿(さを)おし、舵(かぢ)とりて、
舳(へ)に歌を曳(ひ)く船(ふな)をとこ。

朝なり、影は色めきて、
かくて日もさせにごり川、――
朝なり、すでにかがやきぬ、
市ばの河岸(かし)の並(な)みぐらの
白壁(しらかべ)――これやわが胸か。


遺曲


小引――
こは昔春のさかりの
廢(すた)れゆくあはれをこめて、
百合姫の夏のみかどに
傳へたる遺曲のひとつ。

嚴(いつ)くしや、若草野邊を
稚國(わかぐに)としろしめす君、
御冠(みかむり)に黄金(こがね)を鐫(ゑ)りて、
御座(みくら)をばみどりに裝(よそ)ふ。
そを見れば壽(いのち)も虧(か)けず、
日も朽ちぬ驕樂(けうらく)の宮。
后(きさい)ひめ、――名は須美禮姫(すみれひめ)、
花姫の中にもわけて、
うるはしく、すぐれて清き
そのすがた。嗚呼そのかみや、
いかなれば折ふしごとの
移りゆく夢の青淵(あをぶち)、
その底にさかりのかげを
あともなく渦(うづ)まきいるる。

倒れにき、春野(はるの)若ぐに、
大王(おほきみ)の重き冠も
しらみゆく星とあらけぬ、
姫が身もいつ荒土(あらつち)と
いづくにか埋もれはてし。
殘りたる瑠璃(るり)の礎(いしずゑ)、
瑯※(「王+干」、第3水準1-87-83)(らうかん)の柱も、日々に、
碎け墜ち、墜ちて聲なき
荊棘路(おどろみち)、今は夏なる
日のひかりさしそひぬれど、
『あな、暗し、ものう』といひて、
焔なき燭(しよく)を手に執(と)り、
うらぶれて迷ふ大羽子(おほばこ)、
かなたには唇あせて
にほひなき姿はづるや、
衰へてたどる袁杼理(をどり)子、
そのかみはともに樂部(がくぶ)の
よろこびにあくがれし友、――
歌うたひ、琴彈(ひ)き、舞ひて、
大宮の春を頌(たた)へき。

『柳かげくづをれはてて、
おもひでも、今か、荒(すさ)まむ。
ほのかには聞けど、南に
百合姫の朝廷(みかど)はありと、――
ああ、されど、つかれたる身に
行く路のなどしも遠き。
箜篌(くご)とりて、夏のしらべを
古(ふ)りにたる指のちからの
さはやかにいかで、奏(かな)でむ。』――
悲しみに堪(た)へぬものから、
伏しまろび、胸乳(むなぢ)おさへて、
すすり泣く、あはれ、袁杼理子。

大羽子よ、いかにと見れば
愁ひある眼(まな)ざししめり、
『天津日(あまつひ)も盲(めし)ひたるらし、
往(い)にし世の姿を、花の
欄干(おばしま)を、などやさながら、
まのあたり映(うつ)し出さぬ。
濃紫(こむらさき)ゆかりの譜(ふ)をば
いとせめて闇路(やみぢ)ながらに
歌はまし、いざと思へど、
あやなくに玉の緒みだる。
今にして眞夏(まなつ)の臺(うてな)
夢にいり、こころに染(し)む』と、
羽翼(つばさ)なき大羽子の身は
たそがるる狹霧(さぎり)路岐(ちまた)を
頸(うなじ)垂れ、まどひかなしみ、
また更に小夜(さよ)をおどろき、
『曉(あかつき)をいづこの野べに
むかへむ』と大羽子いへば、
袁杼理子は『この世の空(そら)に
東雲(しののめ)をふたたび見じ』と
聲あはせ、手を執(と)りゆきぬ。

たちまちに夜(よ)みちおちいり、
窈冥門(かぐろど)のとざしに遇(あ)へり。
をののけるこころしづめて
聳(そび)えたつ扉(とびら)たさぐり、
『百合姫の音(おと)に聞きつる
夏城(なつしろ)はここか』と問ひて
もろ聲にあやしみあへど、
こだまさへ傳へぬ眞やみ。

寂寞(じやくまく)や、これをたとへば
影青き月のむくろを
かき載せし柩車(ひつぎぐるま)の
水のごとめぐりたゆたひ、
浮ぶとも、沈むともなく
消えてゆくそれにも似たり。

ややあれば黒鐵(くろがね)の戸の
隙(ひま)すきて物こそ見ゆれ、
立ちつくす女人(をみなご)二人(ふたり)
細腕(ほそかひな)あげて、此時
そぞろかに、誘(さそ)はれよれば、
こは昔、宴樂(うたげ)のゆふべ、
霞焚(た)きし瑪瑙の香爐(かうろ)。

ややあれば影はかがやき、
あふぎ見るそのまじろぎの
束のまを、にほひ浮べる
腓(こむら)つき清げの姫や、
華乳(はなち)ぶさ胸にやすらひ、
弱肩(よわがた)の膚(はだへ)眞白く
日の光ここにあつまり、
香(か)をふくむ唇ふるへ、
まなざしはをぐらき森に
豹(へう)の斑(ふ)の射るにも似たる――
神々(かうがう)し、その立姿(たちすがた)。

『百合姫か、夏のみかどの
君か』とぞ二人よりそひ、
姫が踏む土にくちづけ、
つかれたる身をもわすれぬ。

海ちかき山あひの風
吹きおこるおとなひおぼえ、
歌のこゑ、それかと聞ゆ、――
『ますらをよ、とく漕ぎかへれ、
海の外(そと)、小島(をじま)の眞洞(まほら)、
君をひく白波の手の
なきにしもあらぬこの世や。』
潮(うしほ)うつ櫂(かい)のひまびま
益荒夫(ますらを)はこゑうちあげて、
『少女子よ、しのびて待て』と
答ふらむ遠音(とほね)を聞きて、
大羽子は魂もあくがれ、
袁杼理子は夢かとまどひ、
眼(め)も眩(く)れて僵(たふ)れ寄る身の
闇の戸にふるる時しも、
嗚呼、ここに幻影(まぼろし)たえて、
寂寞(じやくまく)の關のとざしは
雷(いかづち)の音(おと)にひらきぬ。
『黄泉國(よもつぐに)、奈落(ならく)の大城(おほき)、――
黄泉王(よもつぎみ)いまし等召す』と
門守(かどもり)は責めとどろかし、
かくてこそ二つの影は
とこしへに沈みゆきけれ、
歌もなく、なげきもあらず、
春もなく、夏もなき世に。


五月靄


ひとつびとつに君も見よ
菖蒲(さうぶ)の葉ごと、葉のさきに
露ありて、すがりゆらめきぬ。
(ああ、くるる戸(ど)を觸(ふ)るる音(おと)。)

その露のたまひとつびとつ
燦(きら)めきぬ、はたつぶたちて
浮藻(うきも)には添ふ水の泡。
(くるるの音はきしめきぬ。)

水はよどみて、五月靄(さつきもや)
かをれる朝を、魂と身と、――
身やわれ、魂や君か、そも。
(くるるはひびく、なめらかに。)

水を忘れし水草の
花かも君は、――げにしばし
戀をはなれし戀の花。
(見よ、くるる戸(ど)のしろがねを。)

われからならぬ手(た)にぎりや、――
豹(へう)の斑(ふ)をこそめでにしか、
誰(た)がかきのせし豹の肩。
(くるるをめぐる火のしらべ。)

あやしの森の濃く青き
常蔭(とかげ)か、あらず、五月靄(さつきもや)
褪(あ)せゆく水際(みぎは)を君とわれ。
(聞きね、くるるのくろがねを。)

菖蒲(さうぶ)の葉ごと露ありき、――
わが名をも、いざ、君も問へ、
君が眼(め)、あはれ、君が名よ。
(ああ、くるる戸(ど)の消ゆる音(おと)。)


『今宵のあるじ』

銘器『今宵のあるじ』は友の家に珍藏する古銅の花瓶なり

古代(こだい)なる花がめ、
花のつゆしづきて、
みどりなる古銅(こどう)の
さびや、いとうるはし。

たとふれば寂寞(しじま)の
谿(たに)のおく、垂れてぞ
さきぬべき夕月(ゆふづき)、
その青き一瓣(ひとよ)か。

こだいなる花がめ、
花にこそ四季(しき)あれ、
人にこそさかりの
榮(はえ)、くらきおとろへ。

人の世は、ああ、これ
『宿命(すくめい)』の花がめ、
ここにしてしをるる
にほひ、日にまた夜(よ)に。

よろこびの、愁ひの
雫(しづく)したたり添ひ、
そのおもに殘せる
痕(あと)をだに、見よ、いざ。

いと古き花がめ、
花の魂(たま)やどりて
誰(たれ)を招(を)ぐ『今宵の
あるじ』、――ああ、まらうど。


わがおもひ


わがおもひ――垢膩(くに)か、かたゐか、
土(つち)の灰(はひ)、十日(とをか)ひでりの
ほこり路(みち)、いやしき民の
蒸(む)しぐるし衢(ちまた)日中(ひなか)を、
喉(のぞ)渇(かわ)き、くろぶしやけて
よろめけるさまにも似たり。
たまたまはかたへに避(よ)きて、
『信(しん)』の井(ゐ)の龍頭(りうづ)より、なほ、
噴(ふ)く水にうるほひ享(う)けて
跣足(すあし)、踵(くびす)、洗ひ淨(きよ)むれ。――
かかる時、あはれ、ふたたび、
おぼゆるは小(ち)さきわが身の
ちからづき、生(せい)の火のまた
よみがへり、直路(ただぢ)にたちて、
やや支(ささ)へ、ささふるきほひ。
おぼゆるは、さもあれ、更に
偉(おほい)なる呵責(かしやく)の力、――
わが脊(せ)※(「てへん+府」、第4水準2-13-22)(う)つ翅(つばさ)かくやく、
その羽(はね)は石絨(いしわた)なして、
その骨に刻(きざ)む燧石(すゐせき)、
しづやかに瞳(ひとみ)をかへす
高天(たかあめ)の一(いち)の日の鳥。
かくてわが命(いのち)は増しぬ、
地(ち)のけがれ、蠍(さそり)もなにぞ。――
たとふれば、こはこれひくき
燈明(とうみやう)の油はつはつ、
ひとしづく焔と照れば
その影を、永劫(とは)に、智惠(ちゑ)慈悲(じひ)
無量光(むりやうくわう)護(まも)る不思議(ふしぎ)の
莊嚴(さうごん)や。――そのみすくひに
あふぎ見れば、さすがに天(あめ)は
強(つよ)し、烈(はげ)し、あまりに眩(は)ゆし、
眼(め)をとぢて光を吸(す)へば
醉(ゑ)ひごこち、よろしき靈(たま)の
みたみらが讃頌(さんしよう)のこゑ
つらなりて起(おこ)るを聞くよ。
ここにてはなよびの花の
しぼむらむ憂ひなり、はた
つかれなり、うまし盞(さかづき)
もつ手よりすべらむ日なり、
ただ賜(たま)へ、眞夏(まなつ)麻耶姫(まやひめ)、
無憂樹(むいうじゆ)の枝の一葉(ひとは)を、
光明(くわうみやう)の途(みち)にかざして
さらば、今、慣れぬさかひに。


銀杏樹


なべての樹にまさる
銀杏樹(いてふ)よ、くるほしき
北風(きたかぜ)葉をふるへ、
汝(な)が枝(えだ)さすや、唯これ北にのみ。

銀杏樹(いてふ)は北を壓(お)す
南の砦(とりで)。――ああ、
なべての樹(き)のなかに
今の日いやしめる往(い)にし代(よ)のさま。

なよびは花むろに、
弱きは盡きて、ここ
小(ちさ)きはひしめける
さやぎを知るや、いさ、汝(な)が天(あま)そそり。

銀杏樹(いてふ)よ、(ときめきぬ
わが胸。)あぶら火(び)の
くゆれる、そを嘲(あざ)み、
ひとりか蝋(らふ)の香(か)の焔かかぐる。

劫初(ごふしよ)の浪に、いと
けだかき大洋(わたづみ)の
枝より、貝の葉の
碎けしそれか、汝(な)が落葉(おちば)のゆくへ。

思へばしづかなり
散(ち)るとき、立てるとき、
思へば汝(な)が幹(みき)は
かの跡(あと)世にたちし巨象(きよざう)のねぶり。

汝(な)が身は汝(な)が設(ま)けし
おくつき、復(ま)た活(い)きて、
汝(な)が日に甦(よみがへ)る
眞夏(まなつ)を白鵠(びやくこふ)の歌かなしまむ。


みなといり


浪喘(あへ)ぐ灣(いりうみ)なかば
萎(な)ゆる帆のふかきはためき、
ものうかるさまや、大船(おほふね)、
ちからなく翅(つばさ)垂れぬる。

常夏(とこなつ)の小島(をじま)を離(か)れて、
いく波折(なをり)、いく日、わたづみ、――
水手(かこ)はいま眼(まなこ)をあげぬ、
さがあしきこの港(みなと)いり。

うるはしき積(つみ)じろ――眞だま、
奇鳥(くしどり)の羽(はね)、あるはまた
香(か)にたかき果實(このみ)、びやくだん――
いやさらに、かくてものうげ。

天人(てんにん)の食(じき)、つらき世に、――
はたくらきこの日よそほひ
かざらむの命(いのち)のふねや、――
眞帆ぞ、ああ、喘ぎはためく。

底にごる江(え)の波暮れて
澪(みを)びきのこゑあをじろし、
黒曜(こくえう)の石をみがける
あだ矢こそ飛ばめ、この時。

もたらしし光けおされ、
わきがたし眞帆と水手(かこ)とを、
いづこにか泊(は)てつる船ぞ、
まばゆかるま闇のおくが。


繋縛


繋縛(いましめ)人を責むとか、黒鐵(くろがね)をも
黄金(こがね)と耀(かが)やかしなば、その鎖(くさり)に、
かの天(あめ)走る宮路(みやぢ)の星のごとく、
つながれ行きてぞ妙音(よきね)世をばふるふ。
身肉(しんにく)愛をさへぎる白埴(しらはに)とか、
ああ、また罪の芽やどす汚穢(けがれ)か、そは、――
清きを、わかき熱きを盛(も)りなす時、
靈(れい)の手これ將た讃(ほ)むる日の高杯(たかつき)。

かかる世、かかる身をこそ、われ等二人(ふたり)、
再び保(たも)ちがたしと樂しむなれ。
大華(おほはな)生羽(いくは)たまたま肩よりぬき、
まことや、君がかへたる口づけには
岩根(いはね)に凝(こ)りて埋みしわれ玉髓(ぎよくずゐ)
光明(ひかり)にいつしか融(と)けて流れ出でぬ。


これに充てむ


素燒(すやき)の、ああわが命(いのち)、輕き小甕(をがめ)、
誰(た)が手か轉(まろ)がしおける、想ひ見れば
古(ふ)りし代(よ)埴安姫(はにやすひめ)が手(た)すさびより、
夏の日、一日(ひとひ)、南の山そばにて
製(つく)れる埴瓮(はにべ)の遺物(かたみ)――それかあらぬ。
また見る、姫が小指(をゆび)の痕(あと)、花うづ、
新たにきのふ享(う)けたる戀のごとく
かがやき面(おもて)に浮び透(す)きただよふ。

歡樂(よろこび)今なほあらばこれに充(み)てむ、――
八千歳(やちとせ)すでに往(ゆ)きしか、星月夜の
宵(よひ)の間(ま)短かき宴(うたげ)すぎ去りしか、
姫神かつては嘗(な)めしかの釀酒(かみざけ)、
その香(か)の高きに、あはれ、この命(いのち)の、
(空(あだ)なり。)かくて渇(かわ)きて缺(か)けもやする。


秋


夕暮『秋』はしばしがひま、やさしき
眼(め)をあげ、微笑(ゑみ)さへ浮べ、やすらふとき、
鴿(はと)あり、めぐし、かたへの水盤(すゐばん)より
玉水(たまみづ)をりをり羽(は)うつ、いとかすかに。
あな、姫、――階段(きざはし)、石の夢驚き
にほふや――裾ふみたがへ支(ささ)ふるとて
手(て)を解(と)くひまを、緒琴(をごと)の面(おも)より、見よ、
異形(いぎやう)の象(かた)こそ照らせ、花のななつ。

おぼゆるこの思ひをば、人には、今、
いかにか説きもつくさむ。雲やうやう
黄金(こがね)にあかりぬ、花柏(さはら)こだちのうへ
ただよふ姫が歌ごゑ。風あふぎて
繁葉(しげは)のしづく墜(お)つれば、青淵(あをぶち)なす
大地(おほつち)虹の環(わ)染めてゆらぎ出でぬ。


樂しや、さあれ


今日(けふ)こそいと樂しけれ、君を得ては
わが眼(め)も、げにみなづきの黄(き)なる石と
やけにしものを、うるほひ充(み)ちたらへり、
げによろこびなり、君が胸のにほひ。
夢さへ翅(つばさ)たたみてつつましくも
青浪(あをなみ)花さく岸にたたずむとき、
かがやく希望(のぞみ)の海や、ほたて貝の
帆あげて沖にそひゆく二人(ふたり)ならむ。

樂しや、さあれうれたし、葬(はふり)のをり
火ともす蝋(らふ)の香(か)くゆり、あわただしく
鐃※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)(ねうはち)さそふ。――今こそ告ぐれ君に、
きのふの『ねたみ』は亡(う)せぬ、遺骸(なきがら)をば
送りし『愛』は涙の友なり、ああ、
黒衣(こくえ)を、見よ、まとひては僧(そう)のつとめ。


沙門『不淨』


『おもひ』は經(へ)つや荊棘(いばら)の路(みち)を、今し
乾(かわ)ける土に埋れてめしひぬれど、
ただ聞く、凶(まが)の沼水(ぬまみづ)缺(か)けかたぶき、
をぐらきまむしの谿間(たにま)たぎちゆきて
ひしめき溢るるさやぎ、――將(はた)また聞く、
あだ人きほへる夜(よる)の森かげより
篝(かがり)の火枝(ほえだ)啄(ついば)み滅(しめ)し去ると
舞ひ來(こ)し天(あめ)の眞鳥(まとり)の悲しきこゑ。――

かくしも聞くと、わが身にあやし『おもひ』
やどりて眠り、埋れて耳たつれば、
惱みてわれは扉(と)を守(も)る沙門『不淨(ふじやう)』、
いつける愛の金堂(こんどう)ここに壞(つひ)え、
ねたみや、悔(くい)や、丹(に)の雨、瑠璃(るり)のあらし、
忽ち燃えそふ戀のこれや阿蘭若(あらんにや)。


君にささぐ


消えゆく影あり、しばし日の高琴(たかごと)、
まだきに靈(たま)をしおくる音(ね)をなたてそ、
木(こ)のもと微草(をぐさ)に、渚(なぎさ)なみのはなに、
わが世に、ふたたび、姿さそはまほし。
さはあれ皐月(さつき)さかりの裝(よそほ)ひ棄(す)て
天(あめ)ゆく影の手弱女(たをやめ)、これをかぎり、
まことの戀の宮居(みやゐ)の新園守(にひそのもり)、
君のやひと目、光にしづく眞珠(またま)。

豹(へう)の斑(ふ)おせしにも似る追憶(おもひで)もて
『こころ』を、いで、こは香爐(かうろ)、君に捧ぐ、――
そは幾(いく)しほの涙に青みゆかむ、
人見て、なほ歡樂(よろこび)の器(うつは)とせば、
ましろき『命(いのち)』を据(す)ゑて、君が瞳(ひとみ)
照らせしわが身みながら※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)(た)きてあらむ。


末世に


末世(まつせ)に佛(ぶつ)えん離(か)れしかの晶(しやう)ぎよく、
熱沙(ねつしや)の膏(あぶら)に凝(こ)れるこの寶石(はうせき)、
こがねの塵(ちり)になべては舞ひいでつつ、
照りては、また音(おと)もなく消(け)ぬるけはひ。
色なる小篋(こばこ)に巣(すく)ひ、じやかうの香(か)に
したしみねぶる比翼(ひよく)の燕(つばくらめ)よ、
南の夢にや倦(う)みし、北のみやこ
あだめく世のくろがみに添ひなむとて。

たをやめ、をみな、ここには榮(はえ)短かし、
輝く汝(な)が羽(はね)かすめ飛び交(か)ふまに
おとろへおとなふ初夜(そや)の恨みあらむ。
ああ、媚(なま)めく戀の日は夏のうてな
なかばにねびて傾き沈むを見む、――
はかなし、汝(な)が巣(す)も墜(お)ちて人とともに。


人は人とて


わが身をはじめ遠(とほ)のきて
わが手の外(そと)をめぐれども、
星は星なる空(そら)の道、
鴿(はと)は鴿なる環(わ)をあゆむ。

鴿は頸(うなじ)をかたぶけて、
頸をさらにあぐるとき、
誘(さそ)ひひく手をうち拂ふ
白きつばさの撫(な)づるごと。

かくても媚(こ)びて、家鴿(いへはと)の
やうやうなづむそのさまや、
片羽(かたは)あげても移れかし、
いざ、掌底(たなぞこ)の宮のうへ。

燃ゆるこころの火のつばさ、
それにはあらね、眞白羽(ましらば)の――
ああ、今、姫よ、――飛びうつる
その眞白羽の君が鴿。

ささげておもふ、水盤(すゐばん)に
これや溢れむ神の水――
鳥は鳥とて羽(は)づくろひ、
人は人とてものおもふ。


姫が曲


 この曲は材をギル氏(W. W. Gill)が編せる「南太平洋諸島の神話及歌謠」(Miths and Song from South Pucific.[#「Miths and Song from South Pucific.」はママ])中、「泉の精」(The Fairy of the Fountain.)と題せる一章に採れり。ラロトンガ(Rarotonga)の傳説なり。泉の名をヴァイティピ(Vaitipi)といふ。滿月の後、この泉より出でて、椰樹芭蕉の葉かげに遊ぶ水精の女あり、酋長アティ(Ati)、一夜人に命じて禽を捕ふるが如くして、この女を拉し來らしむ。女はこれより懷孕せり。嘆きて曰く、「腹部を剖きて子を出し、おのが亡骸をば土に埋めよ」と。既にして子を産みぬ。また曰く、「人界にて一子を設くる時、水國の母は悉く死なむ」と。アティはこの後、女の手を執りて、共に泉底に下らむとしてえせず。とこしなへに水精の女とわかれぬ。
 わがこの曲は南國の王の水精の女と共に泉に下らむとするを、未だその女の子を産まぬ前、臨月の苦悶時におきぬ。

『何處(いづこ)へ汝(いまし)しのびて』と、
南の宮の大足日(おほたるひ)
まよひ、なげきに堪へかねて、
多麻姫(たまひめ)の手を手に執(と)らす。
  (嗚呼うたかたや、
    惜しむとき、消ゆるとき。)

『何處へいまし出でゆく』と、
大椰樹(おほやし)しげる國の王、
南の國の王なれど
今はまどひの園のくさ。
  (嗚呼うたかたや、
    浮ぶとて、痛むとて。)

姫はこのとき黒檀(こくたん)の
きざはしひとつ降(お)りなづみ、
大君あふぎためらへば
日は香木(かうぼく)の戸を刻(きざ)む。
  (嗚呼うたかたや、
    ためらへど、とどむれど。)

姫が棄てたる沓(くつ)にこそ
晶玉(しやうぎよく)あそべ黄羽胡蝶(きばこてふ)、
姫が素足(すあし)のすずしさは
瑠璃座(るりざ)に匂ふ白蓮華(びやくれんげ)。
  (嗚呼うたかたや、
    匂ふとも、棄つるとも。)

『應答(いらへ)せずや』と、大足日
姫をひかへて問ひよれば、
かがやきいでし生華(いくはな)の
垂れなす姫が柔頸(やさうなじ)。
  (嗚呼うたかたや、
    問ひよれば、垂れなせば。)

『ことに身ごもる姫が身の
いづこへひとり出でゆく』と、
責むれば暗き眼眸(まなざし)や、
ふかき瞳子(ひとみ)に火ぞ燃ゆる。
  (嗚呼うたかたや、
    燃ゆるとや、責むるとや。)

『濃(こま)やかなりし一歳(ひととせ)の
ちぎりをいかにおもへりや、
姫よ』と、王のかく言へば、
姫は『今こそ語らめ』と。
  (嗚呼うたかたや、
    今はこそ、さらばこそ。)

黄金(こがね)の鈎(かぎ)に龍王(りうわう)の
懸鈴(かけすず)たかくかかりたる、――
王は鈴索(すずなは)手にとらす、
姫は『今こそ語らめ』と。
  (嗚呼うたかたや、
    語らめと、また更に。)

おもひに姫の沈むとき、
鈴は音(おと)なき海の色、
燈火(ともしび)あぐる龍宮(りうぐう)の
少女(をとめ)を彫(ゑ)りてうかび出づ。
  (嗚呼うたかたや、
    浮びいで、沈み去り。)

あるひは鈴の音(ね)にたたば
階段(きざはし)のまへ※(ほこ)[#「卓+戈」、U+39B8、226-中-4]の華(はな)、――
多麻姫、王のすそに伏し、
三度(みたび)『今こそ語らめ』と。
  (嗚呼うたかたや、
    咽(むせ)ぶなり、三たびなり。)

香爐(かうろ)の猊(しし)やうながせる、――
姫はうちいづ、『君が手に
わが手をそへて※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)(た)きもしつ、
白檀(びやくだん)の香(かう)、沈(ぢん)の香(かう)。』
  (嗚呼うたかたや、
    手に手とか、香と香。)

姫はまたいふ、『大宮(おほみや)の
榮華(はえ)をば誰(たれ)かいとはむ』と、――
姫が聲(こわ)ねは睡蓮(すゐれん)の
水にゆらるる夜(よる)のこゑ。
  (嗚呼うたかたや、
    夜の聲、花の聲。)

またいふ、『悔(く)いて、うちわびて、
さびしくひとり歸らむ』と、
その言ふふしをあやしみて、
王は『いづこへ歸るとか。』
  (嗚呼うたかたや、
    うちわびて、あやしみて。)

『水より湧(わ)きし水の泡、
泉の底に生(お)ひたちぬ、
君は南の國の王、
わが身もとより水の精(せい)。』
  (嗚呼うたかたや、
    水の精、水の泡。)

姫はまたいふ、『一歳(ひととせ)や、
さきの夜(よ)と、このけふの日や、
かの夜(よ)に君はわかくして
王座(わうざ)に即(つ)きし夜(よ)の宴樂(うたげ)。
  (嗚呼うたかたや、
    さきの夜と、けふの日と。)

王はかこちぬ、『げにさなり、
かの日に榮(は)えし日の王座。』
姫はまたいふ、『膏油(かうゆ)燃え、
黄蝋(わうらふ)照りし夜(よ)の宴樂(うたげ)。』
  (嗚呼うたかたや、
    夜の宴樂、日の王座。)

さてしも、王が前にして、
『嗚呼愛慾(あいよく)と、驕樂(けうらく)と、
かの夜(よ)この身をさそひき』と、
ひざまづきてぞ姫のいふ。
  (嗚呼うたかたや、
    愛慾と、驕樂と。)

姫はまたいふ、『大宮の
ひかりこめたるかの夜半(よは)に
泉をいでし少女(をとめ)われ、
歡喜女天(くわんぎによてん)を祈りき』と。
  (嗚呼うたかたや、
    祈より、泉より。)

見よ、今、姫がひざまづく
衣(ころも)のあやに影を添へ、
檳榔樹(びらうじゆ)下(お)りぬ、紫金羽(しこんば)の
碧(みどり)胸毛(むなげ)の垂尾鳥(たれをどり)。
  (嗚呼うたかたや、
    影の瑞(さが)、鳥の文(あや)。)

姫はまたいふ、『かの夜(よ)すぎ、
七日(なぬか)すぎにしその朝(あした)、
御狩(みかり)にたたす國王(こくわう)の
われを泉に見たまへり。』
  (嗚呼うたかたや、
    かの夜(よ)すぎ、七日すぎ。)

『そのとき汝(いまし)白銀(しろがね)の
わが弓とりて隨(したが)へり。』
『嗚呼、その日より宮のうち、――
この身もとより水の精。』
  (嗚呼うたかたや、
    誘(いざな)へり、隨(したが)へり。)

姫はまたいふ、『夜(よ)の空(そら)に
かかりて月の滿つるごと、
階段(きざはし)高き一歳(ひととせ)や、
みごもりみちぬ胎(たい)の月。』
  (嗚呼うたかたや、
    盈(み)つるにか、虧(か)くるにか。)

遽(には)かに姫はをののきて、
滿ちてもゆくか胎(たい)の月、――
泉の底の咒咀(じゆそ)のこゑ
日として聽かぬ日ぞなき』と。
  (嗚呼うたかたや、
    かの咒(のろ)ひ、この愁ひ。)

『水の國なる法章(のりおきて)――
人の世に來て、人の子を
一人(ひとり)産(う)むとき、生兒(うまれご)の
千人(ちたり)は死(し)なむ水底(みなぞこ)に。』
  (嗚呼うたかたや、
    千人(ちたり)とや、一人(ひとり)とや。)

姫はささやく、『千人子(ちたりご)の
泉のくにの血に叫(な)けば、
夜(よ)は夜(よ)の輪(わ)がね輾(きし)りおち、
晝(ひる)は日の軸(ぢく)折れ朽つ』と。
  (嗚呼うたかたや、
    たふれ朽ち、輾りおち。)

またいふ、『かくて水底(みなぞこ)に
かへりて罪を重ねじ』と、
その言の葉のあと趁(お)ひて、
王は『われこそともなはめ。』
  (嗚呼うたかたや、
    重ねじと、離れじと。)

南の國の大足日
多麻姫の手を手にとらし、
二人(ふたり)しのびて黒檀(こくたん)の
きざはし終(つひ)に降(お)りたたす。
  (嗚呼うたかたや、
    手をとらし、降(お)りたたし。)

紫斑(むらさきふ)あるにほひ百合、
花は泉の戸のしるし、
二人(ふたり)しのびてたどりつき、
二人うかがふ水の國。
  (嗚呼うたかたや、
    水の國、戀の園。)

王は湧(わ)きわく水を嘗(な)め、
『いざ、この水をとことはに
かつぎてゆかむ水の底、――
今こそ棄つれ日の王座』
  (嗚呼うたかたや、
    束の間を、とことはを。)

弱肩(よわがた)白き戀の魚(うを)、
姫は衣(ころも)をかい遣(や)りぬ、――
衣の文(あや)のきらめきは
瑪瑙(めなう)海(うみ)ゆく孔雀船(くじやくぶね)。
  (嗚呼うたかたや、
    孔雀ぶね、戀の魚。)

たちまち青き水の空(そら)
王が身もまた沈みゆく、
王はとぢたる眼(め)をひらき、
ひとたび姫がすがた見つ。
  (嗚呼うたかたや、
    姫かそも、泡かそも。)

その手を王はとりたれど、
泉ゆらゆら湧き上(のぼ)り、
姫が胸乳(むなぢ)もさながらに
くだけちり敷(し)く雲母雲(きららぐも)。
  (嗚呼うたかたや、
    湧きのぼり、碎けちり。)

王はこのとき眼(め)も眩(く)れつ、
まろび去るとぞおぼえたる、
今また深き水を出で
耳には姫の聲を判(わ)く。
  (嗚呼うたかたや、
    姫のこゑ、ふかき水。)

泉のくちにうかびいで、
めざめし王が髮をわけ、
姫はうちいづ、『かなしくも
水には慣(な)れぬ君がさま。』
  (嗚呼うたかたや、
    慣れぬさま、王が髮。)

姫はまたいふ、『水(みな)ぞこは
水の少女(をとめ)の星月夜(ほしづきよ)、
日の驕樂(けうらく)は君にあれ、
いざ』と、いひさし微笑(ほほゑ)みぬ。
  (嗚呼うたかたや、
    そのゑまひ、このねがひ。)

姫はほほゑみ下(くだ)りゆく、
ひとりうかがふ王が眼(め)に
象牙(ざうげ)かたどる絃月(げんげつ)の、
たとへば、沈む水の空(そら)。
  (嗚呼うたかたや、
    惜しむとき、消ゆるとき。)


緑のかげ


女のうたへる

緑のかげとおもひしは
みづからなせる惱みのかげ。

青野(あをの)の旅に憩(いこ)ふとは
つかれのやみに墜(お)つるその日。

泉は鳴りて、しろがねの
盞(さかづき)たとへさそひひくも、

あだなる野ぢのすずしさは
天津みそらも黄泉(よみ)の荊棘(いばら)。

つかれなやみの纒(まつ)はれる
みどりのかげを遠く去りて、

ただ君が手の掌(たなぞこ)の
そのかげに入り、あくがれゆかむ。


夢の花


女のうたへる

緒琴(をごと)とはこれ名のみにて
彈(ひ)くは培(つちか)ふ小指(をゆび)なり、
つちかひ彈(ひ)けば、あやしくも
琴柱(ことぢ)にかかる夢の花。

彈(ひ)けども、音(ね)なく、調(しらべ)なき、
ああ、それさへもことわりや、
百年(ももとせ)の桐(きり)琴となり、
琴は今宵(こよひ)の土と朽つ。

百年(ももとせ)の土、二十(はた)とせの
憂をこめていたはれば、
ここにわが眼(め)のうるほひを
うつしてさくか夢の花。

歡樂(よろこび)――それは曩(さき)の日の
みどりの浪と流れ去り、
緒琴に生(お)ひし花草の
こよひ短かき香(か)に堪へず。

夢のみだれか、まぼろしの
まよひか、うつつ、つちかふと
見しはをゆびのすががきか、
ああ百年(ももとせ)か、二十(はた)とせか。

『君がこよひの物のねの
なにゆゑかくはせまりぬ』と、
問ふ人ありて肩おさへ、
問ふ人ありて手をとるも、

『こよひわが彈(ひ)く物のねは
朽ちゆく琴のにほひにて、
あやしき花の面影を
見き』と、さながらいかで答へむ。


沈丁花


艶なる夜(よる)の黒髮は
月にきえぎえうつろひぬ、
香(にほひ)に洩れて沈丁花(ぢんちやうげ)、
なほ、祕(ひ)めつつむ花のふえ。

朧のかげはゆらめきぬ、
膚(はだへ)に物の音(ね)ぞしづく、――
たとへば浪のうねうねを
春は櫂(かい)うつ夢小舟(ゆめをぶね)。

照らしぬ、融(と)けぬ、あめつちは
宴(うたげ)まどかにうるほひて、
月にはうかぶ月の暈(かさ)――
ああ、新妻(にひつま)の新室(にひむろ)や。

風は紋羅(もんら)の浮織(うきおり)に
人と草との舞のあや――
ほのに映(うつ)れる花姿(はなすがた)、
弱肩(よわがた)、それとさだめなく。

燭(しよく)の火(ひ)くゆる聖殿(せいでん)に
いつく女天(によてん)をさながらの
春に、こよひは、をみなごの
よき名をささげまつらむよ。

戀のみぞ知る深き夜の
祈祷(いのり)は永劫(とは)に金泥(こんでい)の
紺紙(こんし)にきえぬ世のまこと、――
あだしごころのえこそわかたね。


束の間なりき


貴(あで)なるかげや、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(らふ)たき
白衣(びやくえ)ほのぼの――
ああ、今なえし眼(め)よぎり
にほふは姫か、びやくえの
花の香(か)いぶき。

白玻※(「王+黎」、第3水準1-88-35)(はくはり)ふかくおほひて、
燭(しよく)はその手に、
盡きざる膏油(あぶら)玉髓(ぎよくずゐ)、
消えせぬ焔(ほのほ)紅玉(こうぎよく)、
あるひはこれか。

夢こそひかり、ひまなく
まぼろしうごく、
こは何(なに)、ここに緑の
星かと孔雀(くじやく)舞ひいで、
わが身をさそふ。

貴(あで)なる姫よ、しばしは
その手の燭を、
しばしは掩へ。――ああ世に
わが身ぞ命(いのち)すべなき
ちりひぢ水※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)(みなわ)。

ほほゑみ、光、まぼろし、
『時』のたはふれ、
束のまなりき、これさへ、
やがては眞闇(まやみ)おくつき、――
白衣(びやくえ)きえゆく。


宿命


花の門(かど)ならね、胸の戸を
黄なる羽(はね)うち、碧(あを)き露
したたるひまを、眞夜(まよ)、眞晝(まひる)、
夢か、花ぞの、――とく知りぬ
 その園ぬちに石人(せきじん)の
     すがたを、われは。

あこやの貝の日はしんじゆ、
それかとまがふかがやきの
かぎろひわたり、花草は
浪としぶきぬ、いかなれば
 かくもむなしき、石人の
     瞳子(ひとみ)、まなざし。

臺座(だいざ)をたたむ石を鐫(ゑ)り、
見れば眞白き石ごとに
姫神、龍(たつ)のみ車を
馳(は)せてこそゆけとことはに、
 嗚呼誰(た)がたくみ、石人の
     御座(みくら)を、かくは。

今、龍(たつ)の羽(は)はうち撓み、
みくるま前を、今、なびき、
しりへに墮(お)つる姫神や、
右に、ひだりに、眼(め)もまよひ、
 狂(くる)ほし、こころ、石人の
     かげにこの時。

このときいとど花草は
浪とみだれぬ、眼(ま)のあたり
ほのほのあらしまろがりて
ゆくにか、あはれうらがなし、
 わが魂(たま)なやむ、石人の
     あやしさかひに。

こころはここにつながれて、
身は沈みゆく埴(はに)の星。
幻師(げんし)やすゑし妖(えう)の座(ざ)の
あたりさりあへずわれは聽く、
 光に朽つる石人の
     『刹那(せつな)』の蠧魚(しみ)を。

くぐもる殼(から)は生(お)ひかはり、
翅(つばさ)掩へる當來(たうらい)の
鳥座(とぐら)ぞとほき。――眞夜(まよ)、まひる、
まぼろし、夢の憂(う)かる世を、
 嗚呼破(や)りがたし、石人の
     領(し)らす囚獄(ひとや)は。


あまりりす


水盤(すゐばん)に
あまき露うけむ、
君がゑみ
花とさくその日。

胸に蒸す
にほひ眼(め)にうつり、
君がゑみ
眞晝かがやける。

あやしうも
あでに、睡蓮(すゐれん)の
夜(よ)をかをす
ほこりには似じな。

わが戀の
たとへ、また、(榮(はえ)の
古跡(ふるあと)や)
荒(すさ)む野となるも、

わがこころ
ここに、なほ、清き
水盤の
花のつゆうけむ。

夏に添ふ
花やあまりりす、
君がゑみ
花とさくその日。


夏がは


みづぐさ青み、夏川の
   (妖(まよはし)のこれ影か夢)
水のとばりの奧ふかく
ゆららに洩るる姫が髮。

眞晝(まひる)青岸(あをぎし)、ひたぶるに
   (妖のこれ眞鏡(まかがみ)か)
いのりて更にまじろがず、
伏してながむる水の面(おも)。

いかなる姫か、ひもすがら、
   (妖のこれ妖か)
いかなる姫が細髮(くはしがみ)、――
顏(かほばせ)のはた見まほしき。

河浪のこゑ、水のこゑ、
   (妖のこれはかなさか)
こゑごゑ溢れあざわらふ、
『花のおもては見がたし』と。

水草(みづくさ)なびき、夏川の
   (妖のこれその望み)
水のとばりのさはりなく
いつかは、清き面影を。

姫がくろ髮、ひもすがら
   (妖のこれそのちから)
夢とも消えで、はてのはて
にほひにこもる姫が眼(め)よ。

さあれ、瑠璃宮(るりみや)歡樂(よろこび)の
   (妖のこれそのをはり)
姫にひかれて、常夏(とこなつ)を
百合(ゆり)のいづみのひとしづく。


夢のむすめ


夢のむすめ、とこをとめの
眞白手(ましらで)もてともなひゆけ、
永劫(とは)に問はじ汝(いまし)が名は、
いづくはあれ、ともなひゆけ。

夢のむすめ、永劫(とは)に遠く、
いましが手の、われ左に、
右には花。――ひかる瑠璃の
花のかげにつつみて往(い)ね。

十歳(ととせ)は虹霓(にじ)、千とせはこれ
月日の瀬にめぐる※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)、
夢のむすめ、古りにし代(よ)の、
ああ、何ゆゑ舞ひかがやく。

命(いのち)の芽(め)はかのほのほに、
生葉(いくは)の戀虹霓(にじ)にまとふ
たのしきこの一時(ひととき)をば
いましに、今日(けふ)、また見むとは。

夢のむすめ、にほひの姫、
風にも似つその黒髮、
その眼(め)はまたいとしづかに
かの色鳥(いろどり)あそぶけはひ。……

夢のむすめ、嗚呼さはあれ、
われをかへせ再び世に、
いましが胸むなしきまを
うつつの世にわれや生(い)きむ。

古墟(ふるつか)にも闇の小草(をぐさ)、
知るや、その根いだきそへば
瑪瑙の膸(ずゐ)とけもやせむ、――
ここにひとり命(いのち)ぞある。

夢のむすめ、うつつにいざ、
いましもまたうつつの姫、
いでやかしこ、夏にあふれ、
秋にしづくまことの日に。


海のさち


(青木繁氏作品)

あらぶる巨獸(きよじう)の牙(き)の、角(つぬ)のひびき、――
(色あや今音(ね)にたちぬ。)否、潮(うしほ)の
あふるるちからの羽(は)ぶり、――はた、さながら
自然の不壞(ふゑ)にうまれしもののきほひ。
すなどり人(びと)らが勁(つよ)き肩たゆまず、
胸肉(むなじし)張りて足(た)らへる聲ぞ、ほこり、
よろこびなるや、たまたまその姿は
天なる爐(ろ)を出でそめし星に似たり。

かれらが海はとこしへ瑠璃(るり)聖殿(せいでん)、
わたづみ境(さかひ)を領(し)らす。さればこの日
手に手にくはし銛(もり)とる神の眷屬(うから)、
丈(たけ)にもあまる大鮫(おほざめ)ひるがへるや
魚(な)の腹碧(あを)き光を背(せ)に負ひつつ、
上(のぼ)るはいづこ、劫初(ごふしよ)の砂子(いさご)濱べ?


琴天會に寄す


美酒(うまざけ)、ほほゑみ、ともに匂ひかはし、
甕(かめ)より、はた面(おもて)よりあふれいでぬ。
擧(あ)ぐるは玻※(「王+黎」、第3水準1-88-35)(はり)の盞(さかづき)、それのみかは、
藝(げい)の日照らす宮居(みやゐ)を彫(ゑ)りちりばめ、
ましろき膚(はだへ)かがやくみ姿をば
浮べて世にも奇(くす)しき高坏(たかつき)こそ、
想(おも)ふに、一夜(ひとよ)まとゐの中にはあれ、
さてしも歡樂(よろこび)、人を醉はしむるや。

たをやめしのべば花の巴里(パリ)の園生(そのふ)、――
朽ちせぬ光のべたるみ空(そら)趁(お)へば、
なつかし、伊太利(イタリ)の旅路(たびぢ)、精舍(しやうじや)の壁。
言の葉小舟(をぶね)いつしかわれを載せて、
曉、夕と移る物がたりの
舵(かぢ)とり、帆あげてくだるせいぬ、あるの。
三十六年十月


それゆゑに


日は照りぬ、
そしらぬけはひ、――
日は今雲に舞ひうかぶ、
よしさもあれや
そしらぬけはひ、――
それゆゑに君を戀ふ。

著莪(しやが)さきぬ、
そしらぬけはひ、――
また花さきぬ花あやめ、
わりなくも君、
そしらぬけはひ、――
君やかく、君やなぞ。

著莪すでに、
また花あやめ
すでにしをれき、六月(みなづき)の
百合こそさかめ、
そしらぬけはひ、――
君はただひとり行く。

百合さきぬ、
そしらぬけはひ、――
百合はにほひて弱肩(よわがた)の
君が丈(たけ)なる、
おもかげ似たり
わがゑし園の百合。

君はなぞ
そしらぬけはひ、――
百合はくづれぬ、みなづきの
戀やみながら
あだなるねがひ、
あだなる日われひとり。


魂の夜


午後四時まへ――黄(き)なる
冬の日、影うすく
垂れたり、銀行の
戸は今とざしごろ、
あふれし人すでに
去り、この近代(ちかつよ)の
榮(さかえ)の宮は今、
さだめや、戸ざしころ――
いつかは生(せい)の戸も。

かくてぞいやはてに
あき人(びと)、負債(おひめ)ある
身の、足たづたづと
出でゆくそびらより、
黄金(こがね)の音(おと)走(はし)り
傳へぬ、こは虚(むな)し、
きらめく富(とみ)のうた、
惱みの岸嘲(あざ)み
輝く波のこゑ。

見よ、籍册(ほさつ)の金字(きんじ)――
星なり、運命(うんめい)の
卷々(まき/\)音(おと)もなし。
一ぢやう、おひめある
ともがら(われもまた)
償(つぐな)ふたよりなさ、
囚獄(ひとや)の暗(やみ)ふかき
死(し)の墟(つか)、――いかならむ、
嗚呼、その魂(たま)の夜(よる)。


誰かは心伏せざる


煙は鈍(にば)む日に、
映(うつ)りて、くらきむらさき、
ながれぬ、霜の壓(お)す
弓かとひくく撓(たわ)みぬ。

悶(もだ)ゆるけぶり、世の
底なるいぶきか壞(く)ゑくゑ
うづまき去るかなた、
ねびてぞ墜(お)つる日黄(き)なる。

夕ぞらよどむとき、
靜かに、重(おも)し、すさまじ、
巷(ちまた)を空(むな)ぐるま
まろびてゆくに似たらず。

見よ、今煤(すす)ばめる
「工廠(こうしやう)」いくむねどよみ、
その脊(せ)をめぐらすや
いさ、かの天(あめ)の耀光(えうくわう)。

聖(せい)なるちからには
后土(おほつち)とどろき、蒸して
騰(あが)れるゆげには
うるはし花こそこもれ。――

かからむ花はまた
世になし、ひらめくひかり
遽(には)かに※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)(まど)を洩れ、
強き香(か)照らす束のま。

鳥啼(な)く――ああ鐵槌(つち)の
ひびきよ、かぎろひけぶる
ただなか、戰(たたかひ)の
胸肉(むなじし)刻(きざ)む聲なり。

誰(たれ)かはこのほとり
ゆく時こころ伏せざる、――
痍(きず)にか、身に逼(せま)る
道にか、高き御名(みな)にか。
三十八年三月


家根のくさ


家根(やね)のくさひでりにかわく、
かわくとて垂るる頸(うなじ)や、
露もなき葉ずゑの眼もて
燒(や)くる見よ、甍(いらか)の波の。

家根の草かくて乾くか、
夏はこれさかりのみやこ、
棟と軒、甍と瓦、
蒸されつつ人はひそめり。

かの瓦照りてたはむれ、
この甍やけてほほゑむ、
人の世はそのかげに、――今、
轍(わだち)鳴(な)り、人はそよめく。

ただ悶(もだ)え、ものの朽ちゆく
にほひのみ、(さればぞ天(あめ)の
光あれ)人はいつより
ちりづかのかげの弱(なよ)ぐさ

家根の草つひにかわきか
かわくとも、これや黄金(こがね)の
髮おほひ漲(みなぎ)るなかに
きえてゆく紅玉(こうぎよく)のはえ。


譯詩三章


    ○

甘睡(うまい)よ、をぐらき、ふかき、
掩ひねわが身のうへを、
願望(ねがひ)はあだのみ、うまい、
うまいよ、あくがれそれも。

いま、われ盲目(めしひ)となりぬ、
今、また惡(あ)しけく、善(よ)けく、
そのかげこころに滅えぬ……
ああうらがなしきしらべ。

懸床(つりどこ)ゆららと、われは
墳塋(おくつき)ごもりて搖(ゆ)する、
こわねもひそめて、去(い)ねよ、
寂寞(じやくまく)ただこひもとむ。
(ヱルレエヌ)

    ○

丘(をか)、かきね、疾(と)く飛(と)びすがへば
薔薇(さうび)だつ緑ひとつら、
はた黄(き)なる車の燈火(ともし)
うつら眼(め)になべてを混(まじ)ふ。

たそがるる谷村(たにむら)のをち
ややに黄金(こがね)あからみゆきぬ、
ちさき木々(きぎ)たひらにわたり、
よわき音に啼く鳥もあり。

いつくしき、やはらこの秋、
かなしともなくて、うるはし、
なしのまま倦(うん)ぜるわが身
軟風(なよかぜ)にゆられて夢む。
(おなじく)

    ○

樹立(こだち)の額(ぬか)のうへ
ながむる月青く、
枝ごとに
たゆたふ曲(ふし)や
幽(かす)けき吐息(といき)……

ああ、あくがれごこち。
柳の木のふたつ
なみだち、かつ嘆く、
ひとつは微風(そよかぜ)に
ひとつは河みづの
鏡の深き底……

夢みて夢をわれら。

むりやうの
圓寂(ゑんじやく)
しととに降るや、白き
夜霧(よぎり)の、月そそぐ
影に彩(あや)なすあたり……

移らざれ、『時』のまどけさや。
(おなじく)


夏まつり


一


金(きん)の屏風(びやうぶ)をめぐらして
祭物見(まつりものみ)のしつらひや。

金の屏風の繪模樣(ゑもやう)は
光琳もやう、花もやう。

花は紫、かきつばた
水もあやなる雙鴛鴦(つがひをし)。

祭物見(まつりものみ)の大店(おほだな)の
塵だにすゑぬしめやかさ。

縁(えん)じやのさきの美(うつく)しき
顏もそろひし女客(をんなきやく)、――

見ればとりどり水草の
祭の浪に誘(さそ)はれし

それとはかはる身だしなみ、
清らやここの中(なか)むすめ、

ことし十五の初夏と
うちそやさるる娘まゆ、

かひな、肩つき、たをやかに
をどりのふりの裾さばき。

をりもをりとて町内(ちやうない)の
屋臺(やたい)ちかよる絃(いと)のねや、

足(あし)なみ浮(う)かれ行く人の
表(おもて)どほりの賑ひに、

眉ねすこしくうちひそめ、
そむけがほなるそのけはひ。

十五初夏、くろがみの
艶(つや)に厭ふか町の塵。

さなそむけそよ花の顏、
慕ひよる眼(め)のなからずや、

しばしの興(きよう)にことよせて
手をとるひまもなからずや。

君を慕ふがわかさにて
七人(ななたり)きそふ夏まつり、

君を慕ひて隣町(となりまち)、
われや數(かず)にも入らざらむ。

派手(はで)なるそろひ肩ぬぎて
聲張りあぐるこころ意氣(いき)、

そのすがた見てくらぶれば
戀にふさはぬわが思。

君を慕ひて、よろこびの
花笠(はながさ)いつかかざさむと

夏の日ざかり人ごみの
なかにまぎれて立てるとき、

生憎(あやにく)さわぐ胸のさき
警固(けいご)の杖のとどろとどろ。


二


たとへば、君が優姿(やさすがた)
夏は水際(みぎは)の花あやめ、

むかしおぼゆる大江戸(おほえど)の
水の香(か)ながく君に添ふ。

われも氏子(うぢこ)の、君もまた
おなじゆかりの氏神(うぢがみ)や、

神の祭の日に遇(あ)ひて
ふたり手をとるこのえにし。

戀はわが眼(め)の瞳(ひとみ)かげ、
情(なさけ)は君が花とさく。

眞ひるは人め避(さ)けたれど
夜街(よまち)を君は厭はじな。

かけつらねたる挑燈(てうちん)の
巴繪(ともゑ)づくしの華(はな)やかさ。

灯(ほ)かげあふるる夜の道、
いざいざ戀の神の道。

二人伴(ともな)ふ一歩(ひとあし)に
みやこの土もよろこばむ。

ふたり歌はむ一節(ひとふし)は
なかばを君にゆづらまし。

いざいざ戀の神の道、
夜の灯(ほ)かげに君とたどらむ。
三十六年六月


※(「金+肅」、第3水準1-93-39)斧


(夫の伊佐奈、妻の止利)

 夫の伊佐奈、妻の止利といふは海山に親しき名を擇びたるに過ぎず。伊佐奈は海の人なり、壯時橘の樹蔭に蜑の少女を慕ひて、戀の敵なるその友を殺せり。されど少女の意は彼に嚮はずして、亡き人の後を逐ひて海に沈みき。伊佐奈はこれより山中にさまよひ、迅雷の一夜、端しなくも宿りし家の女と相結ぶに至る。妻の止利といふはこの女なり。海の紀念なる珊瑚と眞珠とは止利が念珠を飾れり。唯橘の實を祕して、私かに門邊に埋めおきぬ。橘は芽ざしてより既に四十年を經たれども、未だ曾て花さかず實らず。こはまた宛ら伊佐奈の胸中なり。海知らぬ止利が嫉妬はこの祕密に萌して、婚後一年、伊佐奈が携へ來し妖鏡を偸見して、始めて鏡裏に海波橘樹を窺ひ、白影漸く凝りては少女が姿を知り、少女が手を執る夫を嫉みぬ。たまたま尼僧來りて鏡をとれば、妖影消えて、ただ剃髮したる少女を見たり。尼僧は懺悔の功徳を言へり。伊佐奈はなほ祕密を持して老齡に達しぬ。橘を咀はむといひて手に斧を取り、止利と相對し、夫の斧を下さむとするを妻とどめ、「來む歳ぞ實らむ、やよ待て」と言はしむ。伊佐奈はこの時はじめて胸中を洩らしぬ。白き少女の影は遽かに止利の眼を遮りて、夫が咀ひの言葉に答へず。斧は下りて、橘は根より僵れ、伊佐奈も亦呼息絶えたり。この中鏡のことはわが邦の傳説に據りたり。もと夫が鏡裏に見るは亡き父の面影なり。果樹を咀ふは今もなほ所々に行はるる古來の習俗なり。

『夫(せ)の伊佐奈(イサナ)、翁(おきな)よ。』『それや
しわみたる曲嘴(まがはし)の妻(め)の
止利(トリ)よ、など、さやは囀づる――
夫の伊佐奈、翁と――措(お)きね。』

『さもあらば汝(なれ)古(ふる)伊佐奈、
潮(うしほ)鳴る海坂(うなさか)のぼり、
喘(あへ)ぎつつ、白泡(しらあわ)ふける
老(おい)くぢら、翁よ、それか。』

『今日(けふ)もまた宵(よひ)やみならで、
祥(さが)なくも怪鳥(けてう)叫びぬ、
あきはてぬ、この深山(みやま)はや、
嘴太(はしぶと)の、妻(め)よ、死烏(しにがらす)。』

『死鯨(しにくぢら)。』『やよ、老(おい)がらす。』
『嗚呼、わが夫(せ)、口ぎたなくも
罵(ののし)れり、おもへばわかき
日のつやも失(う)せにし言葉。』

『わかき日を汝(なれ)も戀ふるや、
ただ戀し、われは古里(ふるさと)、
親(おや)の國、母の渚べ、――』
『戀の舟――それのみならじ。』

『なほ嫉(ねた)め、――舵(かぢ)の枕か
は、は。』と夫(せ)の伊佐奈の言へば、
妻(め)の止利は『年月(としつき)汝(なれ)が
海がたり、また磯がたり。』

『黒水(くろみづ)の晝はよどみて、
朽沼(くちぬま)の夜(よる)の怪火(あやしび)、
山小菅(やまこすげ)なびかす風は
磯の香(か)のひろきを知らず。』

『夫(せ)の伊佐奈、汝(なれ)とあひ見て
はや四十(よそ)の年月かさね、
海がたり、また磯がたり、
海を見ぬおのれも飽きぬ。』

『倦(う)みにしか、はや、わが胸の
底をしもとめざるひまに。』
『汝(な)はいへり、彼處(かしこ)には舟
眞帆あげて笑(ゑ)みつつすすむ。』

『げにさなり。』『汝(な)はまた言へり、
かしこには潮(うしほ)と潮、
干(ひ)てはまた滿つよ朝ゆふ、
雄(を)の浪は雌(め)の浪趁(お)ふと。』

『げにさなり、されどまた、』『ああ、
けふこそはわが海がたり
はや聞きて、はや飽きてあれ、
その海を。彼處(かしこ)にはまた――』

夫(せ)の伊佐奈今は默(もだ)しぬ、
『かしこには鴎てふ鳥、――
青浪(あをなみ)に白鳥(しらとり)映(うつ)り、
千重(ちへ)の浪、百千(ももち)の鴎。』

夫(せ)の伊佐奈うちほほゑめば、
妻(め)の止利はいと誇らしげ、
『金色(こんじき)の如來(によらい)阿彌陀(あみだ)の
御經(みきやう)をも誦(ず)んずるわが身、

『さればまた弛(たゆ)くはあれど、
夫(せ)が淨土(じやうど)、海としいへば
夜(よ)がたりの片帆(かたほ)、片羽(かたは)の
ふしぶしもつばらに知りぬ。』

『それこそは、止利、曲嘴(まがはし)の
えうもなき空囀(からさへづり)よ、
ごくらくの妙音鳥(めうおんてう)も
汝(な)が聲にひるみやすらむ。』

『さな言ひそ、わが夫(せ)の伊佐奈、
海の人、伊佐奈は海の
美魚(うましうを)、鮪(しび)つく銛(もり)を
若(わか)うしていしくもうちき。』

『その銛(もり)を、星のごとくに
射(い)てもゆくその銛を、止利、』――
夫(せ)の伊佐奈妻(め)の止利見すゑ、
『その銛を何とか知れる。』

『鮪(しび)つくと汝(な)はいふ、さあれ
わすれたり二人(ふたり)は今日(けふ)を、
みのらざる門(かど)の橘
咀(のろ)はむと言ひにしものを。』

夫(せ)の伊佐奈手には※(「金+肅」、第3水準1-93-39)斧(さびをの)、
乾(から)びたる腕(かひな)に重く、
たゆたひて、『ああただ一樹(ひとき)、
橘もかの日のかたみ。』

『實(みの)らざる、何の紀念(かたみ)ぞ、
むなしかる夢や。』『さな、さな、
妻(め)の止利よ、さな啄(ついば)みそ、
汝(な)が口は老(おい)て鋭(するど)し。』

『實(みの)らざる、否(いな)咀はむと、
橘を、――むかしのかたみ――
汝(なれ)こそは言ひも出でつれ。』
『げに紀念(かたみ)、古里の種子(たね)。』

『汝(なれ)こそはいくばくもなき
この命(いのち)つきぬその間に
橘の花さく見むと、
花にほひ、實(みの)るを見むと――』

『橘はにほはざりきな、
海の郷(さと)離(か)れて山國(やまぐに)、
谷あひの日影をわびて、
わがごとく年をへしのみ。』

夫(せ)の伊佐奈また言ひつぎぬ、
『汝(なれ)を見しその日のはじめ、
迷ひ來(こ)し谷村(たにむら)の夜(よる)、
この山にいかづち裂(さ)けぬ。』

『亡(な)き母はつねに語らく、――
雷電(らいでん)の社(やしろ)の神は
えうなくば人を痛(いた)めず、
神怒(かむいかり)、蹇者(あしなへ)も起つ。』

『火(ひ)は走(はし)り、焔は飛びき、
かの夜(よ)に』と伊佐奈のいへば
妻(め)の止利は『神の結びし
えにしこそ四十(よそ)の年月。』

『そのをりにわが祕(ひ)めし玉
三つぞ、ああ、白きは眞珠(しんじゆ)――
海の月、赤きは珊瑚(さんご)――
これや日か、海の月と日。』

妻の止利は『げにその二つ
汝(な)が手よりわが手に傳へ、
今もかくる念珠(ねんじゆ)の※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡(よくい)、
山の實(み)を照らす日と月。』

『そのひとつ汝(なれ)には祕(ひ)めて
この門(かど)べ埋めおきたる、
橘のこれぞ生珠(いくたま)、
芽ざしし日、はじめて告げぬ。』

『などや、夫(せ)の伊佐奈よ、惜しみ
祕(ひ)めにけむ。』『あはれ妻(め)の止利、
埋めしは胸のひめごと、
生(お)ひたちし木にも花なし。』

『花もなく、また實(み)もなきや、
夫(せ)の伊佐奈。』『いざ咀はなむ、
來む年ぞ繁葉(しげは)の海の
浪の華(はな)枝にかかりて、

『くだけちるにほひを知らむ、――
海ちかき籬(まがき)のけはひ、
浪洗ふ沙(いさご)の光。』
妻(め)の止利はただ聽きに聽く。

『妻(め)の止利よ、いざ咀はなむ、
※(「金+肅」、第3水準1-93-39)斧(さびをの)をわが手にあげて
橘の根をうたむとき、
しばし待て、やよと汝(な)は言へ。

『何ゆゑとわが問(と)はむとき、
來(こ)む年ぞ花はさきなむ、
あやまたず實(みの)りはせむに、
橘となだめて言ひね。』

妻(め)の止利は老(おい)の眼(め)ほそめ、
老(おい)の口ゆがめてあれど、
夫(せ)の伊佐奈※(「金+肅」、第3水準1-93-39)斧(さびをの)とりて
ほほゑまず、はたまじろがず。

橘をうたむとあげし
さび斧は、やよ待(ま)て――と妻(め)の
止利のまだ言ひもあへぬに
力(ちから)なく夫(せ)の手すべりぬ。

夫(せ)のまへに白き影ゆき
手をおくと妻(め)の止利は見て、
妻(め)のまへにゆたにまひろき
海を夫(せ)の伊佐奈は戀へり。

夫(せ)の聲は潮(うしほ)のしぶき、――
『汝(なれ)と見し一年(ひととせ)の後(のち)、
呪女(のろひめ)の咀(のろ)ひをこめし
古鏡(ふるかがみ)われぞもて來し。』

夫(せ)の聲はうづしほのこゑ、――
『呪女(のろひめ)は麓(ふもと)の村に、
古かがみ映(うつ)りしは何、――
海戀ひし、母の渚べ。』

夫(せ)の聲は雄(を)の血、雌(め)の血の
ささやきか、――『ああ、父のかげ、
母のさま、――映りしは何、
浪の夢、磯のまぼろし。』

夫(せ)の聲は荒浪を裂(さ)く
銛(もり)の音(おと)、――『愛(は)しきわが妻(め)よ、
まぼろしのその古鏡
偸(ぬす)み見て、さてこそ汝(なれ)は――』

『われはげに、われは嫉みぬ、
尊(たふと)かる淨土の寺の
尼君(あまぎみ)の來(き)まさざりせば
身(み)亡(う)せけむ、おのれその時。』

『妻(め)の止利よ、見きとは何の
影なりし。』『涯(はて)なきは海、
浪ぞゆく、空(そら)はにほへり、
ふくよかに海は處女(をとめ)の――』

『海はげに處女(をとめ)の胸か。』
『やがてまた青き樹蔭(こかげ)の
籬(まがき)みち。』『ああ、妻(め)の止利よ、
青葉こそもとの橘。』

『その樹(こ)かげ、夢は花さく、
黒髮(くろがみ)のわかき手弱女、
あらはなる踵(くびす)もねたし。』
『妻(め)の止利よ、そはわがもとの――』

『そは知らじ、その手弱女の
手をとりて、いましは涙、
そのをりよ、(ああ嫉きかな。)
尼君はここに來(き)ましき。』

妻(め)の止利はさらに口疾(と)く、
『尼の君鏡見すかし、――
たをやめは頭髮(かしら)おろしぬ、
あな尊(たふ)と、懺悔(ざんげ)と言へり。』

『ああ、懺悔。』『その古かがみ
尼君の寺にをさめし
その日より映(うつ)す白鵠(びやくこふ)、
孔雀、鸚鵡(あうむ)、淨土のすがた。』

『古鏡さもあらばあれ、
この老(おい)の胸をばいかに、――
わが銛(もり)は友を斃しき、
戀がたき――眞鮪(ましび)や、あはれ。

『その銛を、星のごとくに
射てもゆくその銛を、止利、』――
夫(せ)の伊佐奈妻(め)の止利見すゑ、
『その銛を何とか知れる。』

妻(め)の止利を夫(せ)は見すゑつつ、
『たをやめは彼が後(あと)逐ひ、
深海(ふかうみ)の底(そこ)に沈みき、
われは、ああ、いかに、汝(な)が言ふ

『老鯨(おいくぢら)山に乾(から)びぬ、
さあれ戀し、戀の古里、
たちばなの青き樹(こ)かげの
籬みち、母の渚べ。』

妻(め)の止利はひとりおどろき
あやしみぬ、更に嫉みぬ、
その海を、手弱女を。――夫(せ)の
伊佐奈いふ、『過(す)ぎしは空(むな)し。』

夫(せ)の伊佐奈※(「金+肅」、第3水準1-93-39)斧(さびをの)とりて、
『橘をいざ咀はなむ、
さきにわが契りおきつる
言の葉を、妻の止利、いひね。』

夫(せ)のまへに白き影ゆき
ささやくと妻(め)の止利は見て
默(もだ)すとき、斧は下(くだ)りぬ。
橘は根より僵(たふ)れぬ。

あなや斧、あなや橘、
花もなく、つひに實(み)もなし。――
『あなや妻(め)の止利』と言ひて、
夫(せ)の伊佐奈呼息(いき)たえ果(は)てぬ。
(明治三十八年七月刊)






底本:「日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」講談社
   1968(昭和43)年5月19日初版第1刷発行
   1969(昭和44)年10月1日第2刷
底本の親本:「春鳥集」本郷書院
   1905(明治38)年7月
入力:広橋はやみ
校正:荒木恵一
2014年11月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。