この集には前集『獨絃哀歌』に續ぎて、三十六年の夏より今年に至るまでの諸作を載せたり。
『夏まつり』は最も舊くして、『五月靄』は最近の作なり。
『
斧』にはこたび引説數行を添へて表面の筋を略敍したり。われはこれを公にしたる當時、世人の看て以て頗る解し難しと爲したるを意外に感じき。引説の如きは蛇足のみ。またこの引説は文字以外の義に及ぼさず、自讃に陷らむとするを憂ふればなり。
* * *
詩形の研究は或は世の非議を免かれざらむ。既に自然及人生に對する感觸結想に於て曩日と異るものあらば、そが表現に新なる方式を要するは必然の勢なるべし。夏漸く近づきて春衣を棄てむとするなり。然るに舊慣ははやくわが胸中にありて、この新に就かむとするを厭へり。革新の一面に急激の流れあるは、この染心を絶たむとする努力の遽に外に逸れて出でたるなり。かの音節、格調、措辭、造語の新意に適はむことを求むると共に、邦語の制約を寛うして近代の幽致を寓せ易からしめむとするは、詢に已み難きに出づ。これあるが爲に晦澁の譏を受くるは素よりわが甘んずるところなり。
視聽等の諸官能は常に鮮かならざるべからず、生意を保たざるべからず。然らずば胸臆沈滯して、補綴の外、踏襲の外、あるは激勵呼號の外、遂に文學なからむとす。
「自然」を識るは「我」を識るなり。譬へば「自然」は豹の斑にして、「我」は豹の瞳子の如きか。「自然」は死豹の皮にあらざれば徒らに讌席に敷き難く、「我」はまた冷然たる他が眼にあらざれば決して空漠の見を容れず。「われ」に生き「自然」に輝きて、一箇の靈豹は詩天の苑に入らむとするなり。
視聽等はまた相交錯して、近代人の情念に雜り、ここに銀光の音あり、ここに嚠喨の色あり。
心眼といひ心耳といふと雖も、われ等は靈の香味をも嗅味の諸官に感ずることあり。嗅味を稱して卑官といふは官能の痛切を知らざるものの言ならむか。
時としては諸官能倦じ眠りて、ひとり千歳を廢墟に埋もれし古銅の花瓶の青緑紺碧に匂ふが如きを覺ゆることあり。或は「朱を看て碧と成し」て美を識ることあり。
一花を辨ぜずして詩を作るは謬れり。情熱に執して愛の靜光を愛せざるも亦謬れり。
これをわが文學に見るに、平安朝の女流に清少あり、新たに享けたる感觸を寫すに精しくして幽趣を極む。かの五月の山里をありくに澤水のいと青く見えわたるを敍したる筆のすゑに、『蓬の車におしひしがれたるが輪のまひたちたるに近うかかへたる香もいとをかし。』といへる如きは、清新のにほひ長しへに朽ちざるものなり。元祿期には芭蕉出でて、隻句に玄致を寓せ、凡を錬りて靈を得たり。わが文學中最も象徴的なるもの。白罌粟は時雨の花にして、鴨の聲ほのかに白く、亡母の白髮を拜しては涙ぞ熱き秋の霜を悲しみ、或は椎の花の心をたづねよといひ、或は花のあたりのあすならふを指す。「古池」に禪意ありといひ、「木槿」に教戒ありと解するは、珠玉を以て魚目と混ずるなり。
このごろ文壇に散文詩の目あり、その作るところのもの、多くは散漫なる美文に過ぎず。ボドレエル、マラルメ等の手に成りたるは果してかくの如きものか。思ふに俳文の上乘なるもののうちには、却てこの散文詩に値するものありて、かの素堂の『簔蟲の説』の類、蓋しこれなるべし。
わが文學は溌溂の氣を失はずして、此等古文古句の殘れるあり。われ等の無爲にして陳腐のうちに
するをゆるさず。
物徂徠曰く、『萬古神奇悉在陳腐中、天不能舍鶯花而別爲春』と言は奇警なれども、こは自然の富を以て匱しとするに似たり。
また曰く、『其爲人拗、不師古、專而自用、喜快心、惡
釀、喜放心、惡拘束……天生此一種人物、以轉盛※[#「走にょう+多」、U+8D8D、218-上-30]衰、破醇就漓』と、莊重の辭、晩季の風詢に此の如きもありしならむ。然れども今日の評家、或は識者にして、この言を爲して、新に境地を拓かむとするものに擬するあらば奈何。そはたまたま隆運の萌芽を解せざるに因る。隆運は將に雲蒸飛騰せむとす。われ等は幸にこの日に會ひて、却て舊見を持する舊人の多きをあやしむものなり。
『夏まつり』は最も舊くして、『五月靄』は最近の作なり。
『
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* * *
詩形の研究は或は世の非議を免かれざらむ。既に自然及人生に對する感觸結想に於て曩日と異るものあらば、そが表現に新なる方式を要するは必然の勢なるべし。夏漸く近づきて春衣を棄てむとするなり。然るに舊慣ははやくわが胸中にありて、この新に就かむとするを厭へり。革新の一面に急激の流れあるは、この染心を絶たむとする努力の遽に外に逸れて出でたるなり。かの音節、格調、措辭、造語の新意に適はむことを求むると共に、邦語の制約を寛うして近代の幽致を寓せ易からしめむとするは、詢に已み難きに出づ。これあるが爲に晦澁の譏を受くるは素よりわが甘んずるところなり。
視聽等の諸官能は常に鮮かならざるべからず、生意を保たざるべからず。然らずば胸臆沈滯して、補綴の外、踏襲の外、あるは激勵呼號の外、遂に文學なからむとす。
「自然」を識るは「我」を識るなり。譬へば「自然」は豹の斑にして、「我」は豹の瞳子の如きか。「自然」は死豹の皮にあらざれば徒らに讌席に敷き難く、「我」はまた冷然たる他が眼にあらざれば決して空漠の見を容れず。「われ」に生き「自然」に輝きて、一箇の靈豹は詩天の苑に入らむとするなり。
視聽等はまた相交錯して、近代人の情念に雜り、ここに銀光の音あり、ここに嚠喨の色あり。
心眼といひ心耳といふと雖も、われ等は靈の香味をも嗅味の諸官に感ずることあり。嗅味を稱して卑官といふは官能の痛切を知らざるものの言ならむか。
時としては諸官能倦じ眠りて、ひとり千歳を廢墟に埋もれし古銅の花瓶の青緑紺碧に匂ふが如きを覺ゆることあり。或は「朱を看て碧と成し」て美を識ることあり。
一花を辨ぜずして詩を作るは謬れり。情熱に執して愛の靜光を愛せざるも亦謬れり。
これをわが文學に見るに、平安朝の女流に清少あり、新たに享けたる感觸を寫すに精しくして幽趣を極む。かの五月の山里をありくに澤水のいと青く見えわたるを敍したる筆のすゑに、『蓬の車におしひしがれたるが輪のまひたちたるに近うかかへたる香もいとをかし。』といへる如きは、清新のにほひ長しへに朽ちざるものなり。元祿期には芭蕉出でて、隻句に玄致を寓せ、凡を錬りて靈を得たり。わが文學中最も象徴的なるもの。白罌粟は時雨の花にして、鴨の聲ほのかに白く、亡母の白髮を拜しては涙ぞ熱き秋の霜を悲しみ、或は椎の花の心をたづねよといひ、或は花のあたりのあすならふを指す。「古池」に禪意ありといひ、「木槿」に教戒ありと解するは、珠玉を以て魚目と混ずるなり。
このごろ文壇に散文詩の目あり、その作るところのもの、多くは散漫なる美文に過ぎず。ボドレエル、マラルメ等の手に成りたるは果してかくの如きものか。思ふに俳文の上乘なるもののうちには、却てこの散文詩に値するものありて、かの素堂の『簔蟲の説』の類、蓋しこれなるべし。
わが文學は溌溂の氣を失はずして、此等古文古句の殘れるあり。われ等の無爲にして陳腐のうちに
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物徂徠曰く、『萬古神奇悉在陳腐中、天不能舍鶯花而別爲春』と言は奇警なれども、こは自然の富を以て匱しとするに似たり。
また曰く、『其爲人拗、不師古、專而自用、喜快心、惡
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明治三十八年五月
著者識
日の落穗、月のしたたり、
殘りたる、誰か味ひ、
こぼれたる、誰かひろひし、
かくて世は過ぎてもゆくか。
あなあはれ、日の階段を、
月の宮――にほひの奧を、
かくて將た蹈めりといふか、
たはやすく誰か答へむ。
過ぎ去りて、われ人知らぬ
束の間や、そのひまびまは、
光をば闇に刻みて
音もなく滅えてはゆけど、
やしなひのこれやその露、
美稻のたねにこそあれ、――
そを棄てて運命の啓示、
星領らす鑰を得むとか。
えしれざる刹那のゆくへ
いづこぞと誰か定めむ、
犧牲の身を淵にしづめて
いかばかりたづねわぶとも、
底ふかく黒暗とざし、
ひとつ火の影にも遇はじ。
痛きかな、これをおもへば
古夢の痍こそ消えね、
永劫よ、脊に負ふつばさ、
彩羽もてしばしは掩へ、
新しきいのちのほとり、
あふれちる雫むすばむ。
靜かにさめしたましひの
一日は花とにほひ咲く、
ゆふべにねむる花なれば
贈らむすべはなけれども、
わが戀ふる人、君をこそ、
君が眼をこそ慕ひ咲け。
いかにひらきてたましひの
花となりけむ知らねども、
この曉の水を出で、
一日のすがたゆるされて、
一夜に消ゆるこの花の
さだめもすでにつたなしや。
高き臺のあらばあれ、
光みがける欄干に
垂れてかからむすべもなく、
底ひもわかぬ青淵の
浪に流るるひもすがら、
君にむかひて咲けるのみ。
靜かにひらく花なれど
花の頸は傾きぬ、
夕ばえ小島巖かげ
彩帆あげゆく鳥船の
すがたはあらで、さびしくも
ゆらぎてたてる花の性。
いにしへ一代、后土の
いまだ焔と燃えし時、
火の海原の母の貝、
殼の双葉に晶玉を
いつか産みしと人知らぬ
それにも似たるたましひの花。
朝なり、やがて濁川
ぬるくにほひて、夜の胞を
ながすに似たり。しら壁に――
いちばの河岸の並み藏の――
朝なり、濕める川の靄。
川の面すでに融けて、しろく、
たゆたにゆらぐ壁のかげ、
あかりぬ、暗きみなぞこも。――
大川がよひさす潮の
ちからさかおすにごりみづ。
流るゝよ、ああ、瓜の皮、
核子、塵わら。――さかみづき
いきふきむすか、靄はまた
をりをりふかき香をとざし、
消えては青く朽ちゆけり。
こは泥ばめる橋ばしら
水ぎはほそり、こはふたり、――
花か、草びら、――歌女の
あせしすがたや、きしきしと
わたれば嘆く橋の板。
いまはのいぶきいとせめて、
饐えてなよめく泥がはの
靄はあしたのおくつきに
冷えつつゆきぬ。――鴎鳥
あげしほ趁ひて、はや食る。
濁れど水はくちばみの
あやにうごめき、緑練り、
瑠璃の端ひかり、碧よどみ、
かくてくれなゐ、――はしためは
たてり、揚場に――女の帶や。
青ものぐるま、いくつ、――はた、
かせぎの人ら、――ものごひの
空手、――荷足のたぶたぶや、
艫に竿おし、舵とりて、
舳に歌を曳く船をとこ。
朝なり、影は色めきて、
かくて日もさせにごり川、――
朝なり、すでにかがやきぬ、
市ばの河岸の並みぐらの
白壁――これやわが胸か。
小引――
こは昔春のさかりの
廢れゆくあはれをこめて、
百合姫の夏のみかどに
傳へたる遺曲のひとつ。
嚴くしや、若草野邊を
稚國としろしめす君、
御冠に黄金を鐫りて、
御座をばみどりに裝ふ。
そを見れば壽も虧けず、
日も朽ちぬ驕樂の宮。
后ひめ、――名は須美禮姫、
花姫の中にもわけて、
うるはしく、すぐれて清き
そのすがた。嗚呼そのかみや、
いかなれば折ふしごとの
移りゆく夢の青淵、
その底にさかりのかげを
あともなく渦まきいるる。
倒れにき、春野若ぐに、
大王の重き冠も
しらみゆく星とあらけぬ、
姫が身もいつ荒土と
いづくにか埋もれはてし。
殘りたる瑠璃の礎、
瑯
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碎け墜ち、墜ちて聲なき
荊棘路、今は夏なる
日のひかりさしそひぬれど、
『あな、暗し、ものう』といひて、
焔なき燭を手に執り、
うらぶれて迷ふ大羽子、
かなたには唇あせて
にほひなき姿はづるや、
衰へてたどる袁杼理子、
そのかみはともに樂部の
よろこびにあくがれし友、――
歌うたひ、琴彈き、舞ひて、
大宮の春を頌へき。
『柳かげくづをれはてて、
おもひでも、今か、荒まむ。
ほのかには聞けど、南に
百合姫の朝廷はありと、――
ああ、されど、つかれたる身に
行く路のなどしも遠き。
箜篌とりて、夏のしらべを
古りにたる指のちからの
さはやかにいかで、奏でむ。』――
悲しみに堪へぬものから、
伏しまろび、胸乳おさへて、
すすり泣く、あはれ、袁杼理子。
大羽子よ、いかにと見れば
愁ひある眼ざししめり、
『天津日も盲ひたるらし、
往にし世の姿を、花の
欄干を、などやさながら、
まのあたり映し出さぬ。
濃紫ゆかりの譜をば
いとせめて闇路ながらに
歌はまし、いざと思へど、
あやなくに玉の緒みだる。
今にして眞夏の臺
夢にいり、こころに染む』と、
羽翼なき大羽子の身は
たそがるる狹霧路岐を
頸垂れ、まどひかなしみ、
また更に小夜をおどろき、
『曉をいづこの野べに
むかへむ』と大羽子いへば、
袁杼理子は『この世の空に
東雲をふたたび見じ』と
聲あはせ、手を執りゆきぬ。
たちまちに夜みちおちいり、
窈冥門のとざしに遇へり。
をののけるこころしづめて
聳えたつ扉たさぐり、
『百合姫の音に聞きつる
夏城はここか』と問ひて
もろ聲にあやしみあへど、
こだまさへ傳へぬ眞やみ。
寂寞や、これをたとへば
影青き月のむくろを
かき載せし柩車の
水のごとめぐりたゆたひ、
浮ぶとも、沈むともなく
消えてゆくそれにも似たり。
ややあれば黒鐵の戸の
隙すきて物こそ見ゆれ、
立ちつくす女人二人
細腕あげて、此時
そぞろかに、誘はれよれば、
こは昔、宴樂のゆふべ、
霞焚きし瑪瑙の香爐。
ややあれば影はかがやき、
あふぎ見るそのまじろぎの
束のまを、にほひ浮べる
腓つき清げの姫や、
華乳ぶさ胸にやすらひ、
弱肩の膚眞白く
日の光ここにあつまり、
香をふくむ唇ふるへ、
まなざしはをぐらき森に
豹の斑の射るにも似たる――
神々し、その立姿。
『百合姫か、夏のみかどの
君か』とぞ二人よりそひ、
姫が踏む土にくちづけ、
つかれたる身をもわすれぬ。
海ちかき山あひの風
吹きおこるおとなひおぼえ、
歌のこゑ、それかと聞ゆ、――
『ますらをよ、とく漕ぎかへれ、
海の外、小島の眞洞、
君をひく白波の手の
なきにしもあらぬこの世や。』
潮うつ櫂のひまびま
益荒夫はこゑうちあげて、
『少女子よ、しのびて待て』と
答ふらむ遠音を聞きて、
大羽子は魂もあくがれ、
袁杼理子は夢かとまどひ、
眼も眩れて僵れ寄る身の
闇の戸にふるる時しも、
嗚呼、ここに幻影たえて、
寂寞の關のとざしは
雷の音にひらきぬ。
『黄泉國、奈落の大城、――
黄泉王いまし等召す』と
門守は責めとどろかし、
かくてこそ二つの影は
とこしへに沈みゆきけれ、
歌もなく、なげきもあらず、
春もなく、夏もなき世に。
ひとつびとつに君も見よ
菖蒲の葉ごと、葉のさきに
露ありて、すがりゆらめきぬ。
(ああ、くるる戸を觸るる音。)
その露のたまひとつびとつ
燦めきぬ、はたつぶたちて
浮藻には添ふ水の泡。
(くるるの音はきしめきぬ。)
水はよどみて、五月靄
かをれる朝を、魂と身と、――
身やわれ、魂や君か、そも。
(くるるはひびく、なめらかに。)
水を忘れし水草の
花かも君は、――げにしばし
戀をはなれし戀の花。
(見よ、くるる戸のしろがねを。)
われからならぬ手にぎりや、――
豹の斑をこそめでにしか、
誰がかきのせし豹の肩。
(くるるをめぐる火のしらべ。)
あやしの森の濃く青き
常蔭か、あらず、五月靄
褪せゆく水際を君とわれ。
(聞きね、くるるのくろがねを。)
菖蒲の葉ごと露ありき、――
わが名をも、いざ、君も問へ、
君が眼、あはれ、君が名よ。
(ああ、くるる戸の消ゆる音。)
銘器『今宵のあるじ』は友の家に珍藏する古銅の花瓶なり
古代なる花がめ、
花のつゆしづきて、
みどりなる古銅の
さびや、いとうるはし。
たとふれば寂寞の
谿のおく、垂れてぞ
さきぬべき夕月、
その青き一瓣か。
こだいなる花がめ、
花にこそ四季あれ、
人にこそさかりの
榮、くらきおとろへ。
人の世は、ああ、これ
『宿命』の花がめ、
ここにしてしをるる
にほひ、日にまた夜に。
よろこびの、愁ひの
雫したたり添ひ、
そのおもに殘せる
痕をだに、見よ、いざ。
いと古き花がめ、
花の魂やどりて
誰を招ぐ『今宵の
あるじ』、――ああ、まらうど。
わがおもひ――垢膩か、かたゐか、
土の灰、十日ひでりの
ほこり路、いやしき民の
蒸しぐるし衢日中を、
喉渇き、くろぶしやけて
よろめけるさまにも似たり。
たまたまはかたへに避きて、
『信』の井の龍頭より、なほ、
噴く水にうるほひ享けて
跣足、踵、洗ひ淨むれ。――
かかる時、あはれ、ふたたび、
おぼゆるは小さきわが身の
ちからづき、生の火のまた
よみがへり、直路にたちて、
やや支へ、ささふるきほひ。
おぼゆるは、さもあれ、更に
偉なる呵責の力、――
わが脊
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その羽は石絨なして、
その骨に刻む燧石、
しづやかに瞳をかへす
高天の一の日の鳥。
かくてわが命は増しぬ、
地のけがれ、蠍もなにぞ。――
たとふれば、こはこれひくき
燈明の油はつはつ、
ひとしづく焔と照れば
その影を、永劫に、智惠慈悲
無量光護る不思議の
莊嚴や。――そのみすくひに
あふぎ見れば、さすがに天は
強し、烈し、あまりに眩ゆし、
眼をとぢて光を吸へば
醉ひごこち、よろしき靈の
みたみらが讃頌のこゑ
つらなりて起るを聞くよ。
ここにてはなよびの花の
しぼむらむ憂ひなり、はた
つかれなり、うまし盞
もつ手よりすべらむ日なり、
ただ賜へ、眞夏麻耶姫、
無憂樹の枝の一葉を、
光明の途にかざして
さらば、今、慣れぬさかひに。
なべての樹にまさる
銀杏樹よ、くるほしき
北風葉をふるへ、
汝が枝さすや、唯これ北にのみ。
銀杏樹は北を壓す
南の砦。――ああ、
なべての樹のなかに
今の日いやしめる往にし代のさま。
なよびは花むろに、
弱きは盡きて、ここ
小きはひしめける
さやぎを知るや、いさ、汝が天そそり。
銀杏樹よ、(ときめきぬ
わが胸。)あぶら火の
くゆれる、そを嘲み、
ひとりか蝋の香の焔かかぐる。
劫初の浪に、いと
けだかき大洋の
枝より、貝の葉の
碎けしそれか、汝が落葉のゆくへ。
思へばしづかなり
散るとき、立てるとき、
思へば汝が幹は
かの跡世にたちし巨象のねぶり。
汝が身は汝が設けし
おくつき、復た活きて、
汝が日に甦る
眞夏を白鵠の歌かなしまむ。
浪喘ぐ灣なかば
萎ゆる帆のふかきはためき、
ものうかるさまや、大船、
ちからなく翅垂れぬる。
常夏の小島を離れて、
いく波折、いく日、わたづみ、――
水手はいま眼をあげぬ、
さがあしきこの港いり。
うるはしき積じろ――眞だま、
奇鳥の羽、あるはまた
香にたかき果實、びやくだん――
いやさらに、かくてものうげ。
天人の食、つらき世に、――
はたくらきこの日よそほひ
かざらむの命のふねや、――
眞帆ぞ、ああ、喘ぎはためく。
底にごる江の波暮れて
澪びきのこゑあをじろし、
黒曜の石をみがける
あだ矢こそ飛ばめ、この時。
もたらしし光けおされ、
わきがたし眞帆と水手とを、
いづこにか泊てつる船ぞ、
まばゆかるま闇のおくが。
繋縛人を責むとか、黒鐵をも
黄金と耀やかしなば、その鎖に、
かの天走る宮路の星のごとく、
つながれ行きてぞ妙音世をばふるふ。
身肉愛をさへぎる白埴とか、
ああ、また罪の芽やどす汚穢か、そは、――
清きを、わかき熱きを盛りなす時、
靈の手これ將た讃むる日の高杯。
かかる世、かかる身をこそ、われ等二人、
再び保ちがたしと樂しむなれ。
大華生羽たまたま肩よりぬき、
まことや、君がかへたる口づけには
岩根に凝りて埋みしわれ玉髓
光明にいつしか融けて流れ出でぬ。
素燒の、ああわが命、輕き小甕、
誰が手か轉がしおける、想ひ見れば
古りし代埴安姫が手すさびより、
夏の日、一日、南の山そばにて
製れる埴瓮の遺物――それかあらぬ。
また見る、姫が小指の痕、花うづ、
新たにきのふ享けたる戀のごとく
かがやき面に浮び透きただよふ。
歡樂今なほあらばこれに充てむ、――
八千歳すでに往きしか、星月夜の
宵の間短かき宴すぎ去りしか、
姫神かつては嘗めしかの釀酒、
その香の高きに、あはれ、この命の、
(空なり。)かくて渇きて缺けもやする。
夕暮『秋』はしばしがひま、やさしき
眼をあげ、微笑さへ浮べ、やすらふとき、
鴿あり、めぐし、かたへの水盤より
玉水をりをり羽うつ、いとかすかに。
あな、姫、――階段、石の夢驚き
にほふや――裾ふみたがへ支ふるとて
手を解くひまを、緒琴の面より、見よ、
異形の象こそ照らせ、花のななつ。
おぼゆるこの思ひをば、人には、今、
いかにか説きもつくさむ。雲やうやう
黄金にあかりぬ、花柏こだちのうへ
ただよふ姫が歌ごゑ。風あふぎて
繁葉のしづく墜つれば、青淵なす
大地虹の環染めてゆらぎ出でぬ。
今日こそいと樂しけれ、君を得ては
わが眼も、げにみなづきの黄なる石と
やけにしものを、うるほひ充ちたらへり、
げによろこびなり、君が胸のにほひ。
夢さへ翅たたみてつつましくも
青浪花さく岸にたたずむとき、
かがやく希望の海や、ほたて貝の
帆あげて沖にそひゆく二人ならむ。
樂しや、さあれうれたし、葬のをり
火ともす蝋の香くゆり、あわただしく
鐃

きのふの『ねたみ』は亡せぬ、遺骸をば
送りし『愛』は涙の友なり、ああ、
黒衣を、見よ、まとひては僧のつとめ。
『おもひ』は經つや荊棘の路を、今し
乾ける土に埋れてめしひぬれど、
ただ聞く、凶の沼水缺けかたぶき、
をぐらきまむしの谿間たぎちゆきて
ひしめき溢るるさやぎ、――將また聞く、
あだ人きほへる夜の森かげより
篝の火枝啄み滅し去ると
舞ひ來し天の眞鳥の悲しきこゑ。――
かくしも聞くと、わが身にあやし『おもひ』
やどりて眠り、埋れて耳たつれば、
惱みてわれは扉を守る沙門『不淨』、
いつける愛の金堂ここに壞え、
ねたみや、悔や、丹の雨、瑠璃のあらし、
忽ち燃えそふ戀のこれや阿蘭若。
消えゆく影あり、しばし日の高琴、
まだきに靈をしおくる音をなたてそ、
木のもと微草に、渚なみのはなに、
わが世に、ふたたび、姿さそはまほし。
さはあれ皐月さかりの裝ひ棄て
天ゆく影の手弱女、これをかぎり、
まことの戀の宮居の新園守、
君のやひと目、光にしづく眞珠。
豹の斑おせしにも似る追憶もて
『こころ』を、いで、こは香爐、君に捧ぐ、――
そは幾しほの涙に青みゆかむ、
人見て、なほ歡樂の器とせば、
ましろき『命』を据ゑて、君が瞳
照らせしわが身みながら

末世に佛えん離れしかの晶ぎよく、
熱沙の膏に凝れるこの寶石、
こがねの塵になべては舞ひいでつつ、
照りては、また音もなく消ぬるけはひ。
色なる小篋に巣ひ、じやかうの香に
したしみねぶる比翼の燕よ、
南の夢にや倦みし、北のみやこ
あだめく世のくろがみに添ひなむとて。
たをやめ、をみな、ここには榮短かし、
輝く汝が羽かすめ飛び交ふまに
おとろへおとなふ初夜の恨みあらむ。
ああ、媚めく戀の日は夏のうてな
なかばにねびて傾き沈むを見む、――
はかなし、汝が巣も墜ちて人とともに。
わが身をはじめ遠のきて
わが手の外をめぐれども、
星は星なる空の道、
鴿は鴿なる環をあゆむ。
鴿は頸をかたぶけて、
頸をさらにあぐるとき、
誘ひひく手をうち拂ふ
白きつばさの撫づるごと。
かくても媚びて、家鴿の
やうやうなづむそのさまや、
片羽あげても移れかし、
いざ、掌底の宮のうへ。
燃ゆるこころの火のつばさ、
それにはあらね、眞白羽の――
ああ、今、姫よ、――飛びうつる
その眞白羽の君が鴿。
ささげておもふ、水盤に
これや溢れむ神の水――
鳥は鳥とて羽づくろひ、
人は人とてものおもふ。
この曲は材をギル氏(W. W. Gill)が編せる「南太平洋諸島の神話及歌謠」(Miths and Song from South Pucific.[#「Miths and Song from South Pucific.」はママ])中、「泉の精」(The Fairy of the Fountain.)と題せる一章に採れり。ラロトンガ(Rarotonga)の傳説なり。泉の名をヴァイティピ(Vaitipi)といふ。滿月の後、この泉より出でて、椰樹芭蕉の葉かげに遊ぶ水精の女あり、酋長アティ(Ati)、一夜人に命じて禽を捕ふるが如くして、この女を拉し來らしむ。女はこれより懷孕せり。嘆きて曰く、「腹部を剖きて子を出し、おのが亡骸をば土に埋めよ」と。既にして子を産みぬ。また曰く、「人界にて一子を設くる時、水國の母は悉く死なむ」と。アティはこの後、女の手を執りて、共に泉底に下らむとしてえせず。とこしなへに水精の女とわかれぬ。
わがこの曲は南國の王の水精の女と共に泉に下らむとするを、未だその女の子を産まぬ前、臨月の苦悶時におきぬ。
わがこの曲は南國の王の水精の女と共に泉に下らむとするを、未だその女の子を産まぬ前、臨月の苦悶時におきぬ。
『何處へ汝しのびて』と、
南の宮の大足日
まよひ、なげきに堪へかねて、
多麻姫の手を手に執らす。
(嗚呼うたかたや、
惜しむとき、消ゆるとき。)
『何處へいまし出でゆく』と、
大椰樹しげる國の王、
南の國の王なれど
今はまどひの園のくさ。
(嗚呼うたかたや、
浮ぶとて、痛むとて。)
姫はこのとき黒檀の
きざはしひとつ降りなづみ、
大君あふぎためらへば
日は香木の戸を刻む。
(嗚呼うたかたや、
ためらへど、とどむれど。)
姫が棄てたる沓にこそ
晶玉あそべ黄羽胡蝶、
姫が素足のすずしさは
瑠璃座に匂ふ白蓮華。
(嗚呼うたかたや、
匂ふとも、棄つるとも。)
『應答せずや』と、大足日
姫をひかへて問ひよれば、
かがやきいでし生華の
垂れなす姫が柔頸。
(嗚呼うたかたや、
問ひよれば、垂れなせば。)
『ことに身ごもる姫が身の
いづこへひとり出でゆく』と、
責むれば暗き眼眸や、
ふかき瞳子に火ぞ燃ゆる。
(嗚呼うたかたや、
燃ゆるとや、責むるとや。)
『濃やかなりし一歳の
ちぎりをいかにおもへりや、
姫よ』と、王のかく言へば、
姫は『今こそ語らめ』と。
(嗚呼うたかたや、
今はこそ、さらばこそ。)
黄金の鈎に龍王の
懸鈴たかくかかりたる、――
王は鈴索手にとらす、
姫は『今こそ語らめ』と。
(嗚呼うたかたや、
語らめと、また更に。)
おもひに姫の沈むとき、
鈴は音なき海の色、
燈火あぐる龍宮の
少女を彫りてうかび出づ。
(嗚呼うたかたや、
浮びいで、沈み去り。)
あるひは鈴の音にたたば
階段のまへ※[#「卓+戈」、U+39B8、226-中-4]の華、――
多麻姫、王のすそに伏し、
三度『今こそ語らめ』と。
(嗚呼うたかたや、
咽ぶなり、三たびなり。)
香爐の猊やうながせる、――
姫はうちいづ、『君が手に
わが手をそへて

白檀の香、沈の香。』
(嗚呼うたかたや、
手に手とか、香と香。)
姫はまたいふ、『大宮の
榮華をば誰かいとはむ』と、――
姫が聲ねは睡蓮の
水にゆらるる夜のこゑ。
(嗚呼うたかたや、
夜の聲、花の聲。)
またいふ、『悔いて、うちわびて、
さびしくひとり歸らむ』と、
その言ふふしをあやしみて、
王は『いづこへ歸るとか。』
(嗚呼うたかたや、
うちわびて、あやしみて。)
『水より湧きし水の泡、
泉の底に生ひたちぬ、
君は南の國の王、
わが身もとより水の精。』
(嗚呼うたかたや、
水の精、水の泡。)
姫はまたいふ、『一歳や、
さきの夜と、このけふの日や、
かの夜に君はわかくして
王座に即きし夜の宴樂。
(嗚呼うたかたや、
さきの夜と、けふの日と。)
王はかこちぬ、『げにさなり、
かの日に榮えし日の王座。』
姫はまたいふ、『膏油燃え、
黄蝋照りし夜の宴樂。』
(嗚呼うたかたや、
夜の宴樂、日の王座。)
さてしも、王が前にして、
『嗚呼愛慾と、驕樂と、
かの夜この身をさそひき』と、
ひざまづきてぞ姫のいふ。
(嗚呼うたかたや、
愛慾と、驕樂と。)
姫はまたいふ、『大宮の
ひかりこめたるかの夜半に
泉をいでし少女われ、
歡喜女天を祈りき』と。
(嗚呼うたかたや、
祈より、泉より。)
見よ、今、姫がひざまづく
衣のあやに影を添へ、
檳榔樹下りぬ、紫金羽の
碧胸毛の垂尾鳥。
(嗚呼うたかたや、
影の瑞、鳥の文。)
姫はまたいふ、『かの夜すぎ、
七日すぎにしその朝、
御狩にたたす國王の
われを泉に見たまへり。』
(嗚呼うたかたや、
かの夜すぎ、七日すぎ。)
『そのとき汝白銀の
わが弓とりて隨へり。』
『嗚呼、その日より宮のうち、――
この身もとより水の精。』
(嗚呼うたかたや、
誘へり、隨へり。)
姫はまたいふ、『夜の空に
かかりて月の滿つるごと、
階段高き一歳や、
みごもりみちぬ胎の月。』
(嗚呼うたかたや、
盈つるにか、虧くるにか。)
遽かに姫はをののきて、
滿ちてもゆくか胎の月、――
泉の底の咒咀のこゑ
日として聽かぬ日ぞなき』と。
(嗚呼うたかたや、
かの咒ひ、この愁ひ。)
『水の國なる法章――
人の世に來て、人の子を
一人産むとき、生兒の
千人は死なむ水底に。』
(嗚呼うたかたや、
千人とや、一人とや。)
姫はささやく、『千人子の
泉のくにの血に叫けば、
夜は夜の輪がね輾りおち、
晝は日の軸折れ朽つ』と。
(嗚呼うたかたや、
たふれ朽ち、輾りおち。)
またいふ、『かくて水底に
かへりて罪を重ねじ』と、
その言の葉のあと趁ひて、
王は『われこそともなはめ。』
(嗚呼うたかたや、
重ねじと、離れじと。)
南の國の大足日
多麻姫の手を手にとらし、
二人しのびて黒檀の
きざはし終に降りたたす。
(嗚呼うたかたや、
手をとらし、降りたたし。)
紫斑あるにほひ百合、
花は泉の戸のしるし、
二人しのびてたどりつき、
二人うかがふ水の國。
(嗚呼うたかたや、
水の國、戀の園。)
王は湧きわく水を嘗め、
『いざ、この水をとことはに
かつぎてゆかむ水の底、――
今こそ棄つれ日の王座』
(嗚呼うたかたや、
束の間を、とことはを。)
弱肩白き戀の魚、
姫は衣をかい遣りぬ、――
衣の文のきらめきは
瑪瑙海ゆく孔雀船。
(嗚呼うたかたや、
孔雀ぶね、戀の魚。)
たちまち青き水の空
王が身もまた沈みゆく、
王はとぢたる眼をひらき、
ひとたび姫がすがた見つ。
(嗚呼うたかたや、
姫かそも、泡かそも。)
その手を王はとりたれど、
泉ゆらゆら湧き上り、
姫が胸乳もさながらに
くだけちり敷く雲母雲。
(嗚呼うたかたや、
湧きのぼり、碎けちり。)
王はこのとき眼も眩れつ、
まろび去るとぞおぼえたる、
今また深き水を出で
耳には姫の聲を判く。
(嗚呼うたかたや、
姫のこゑ、ふかき水。)
泉のくちにうかびいで、
めざめし王が髮をわけ、
姫はうちいづ、『かなしくも
水には慣れぬ君がさま。』
(嗚呼うたかたや、
慣れぬさま、王が髮。)
姫はまたいふ、『水ぞこは
水の少女の星月夜、
日の驕樂は君にあれ、
いざ』と、いひさし微笑みぬ。
(嗚呼うたかたや、
そのゑまひ、このねがひ。)
姫はほほゑみ下りゆく、
ひとりうかがふ王が眼に
象牙かたどる絃月の、
たとへば、沈む水の空。
(嗚呼うたかたや、
惜しむとき、消ゆるとき。)
女のうたへる
緑のかげとおもひしは
みづからなせる惱みのかげ。
青野の旅に憩ふとは
つかれのやみに墜つるその日。
泉は鳴りて、しろがねの
盞たとへさそひひくも、
あだなる野ぢのすずしさは
天津みそらも黄泉の荊棘。
つかれなやみの纒はれる
みどりのかげを遠く去りて、
ただ君が手の掌の
そのかげに入り、あくがれゆかむ。
女のうたへる
緒琴とはこれ名のみにて
彈くは培ふ小指なり、
つちかひ彈けば、あやしくも
琴柱にかかる夢の花。
彈けども、音なく、調なき、
ああ、それさへもことわりや、
百年の桐琴となり、
琴は今宵の土と朽つ。
百年の土、二十とせの
憂をこめていたはれば、
ここにわが眼のうるほひを
うつしてさくか夢の花。
歡樂――それは曩の日の
みどりの浪と流れ去り、
緒琴に生ひし花草の
こよひ短かき香に堪へず。
夢のみだれか、まぼろしの
まよひか、うつつ、つちかふと
見しはをゆびのすががきか、
ああ百年か、二十とせか。
『君がこよひの物のねの
なにゆゑかくはせまりぬ』と、
問ふ人ありて肩おさへ、
問ふ人ありて手をとるも、
『こよひわが彈く物のねは
朽ちゆく琴のにほひにて、
あやしき花の面影を
見き』と、さながらいかで答へむ。
艶なる夜の黒髮は
月にきえぎえうつろひぬ、
香に洩れて沈丁花、
なほ、祕めつつむ花のふえ。
朧のかげはゆらめきぬ、
膚に物の音ぞしづく、――
たとへば浪のうねうねを
春は櫂うつ夢小舟。
照らしぬ、融けぬ、あめつちは
宴まどかにうるほひて、
月にはうかぶ月の暈――
ああ、新妻の新室や。
風は紋羅の浮織に
人と草との舞のあや――
ほのに映れる花姿、
弱肩、それとさだめなく。
燭の火くゆる聖殿に
いつく女天をさながらの
春に、こよひは、をみなごの
よき名をささげまつらむよ。
戀のみぞ知る深き夜の
祈祷は永劫に金泥の
紺紙にきえぬ世のまこと、――
あだしごころのえこそわかたね。
貴なるかげや、

白衣ほのぼの――
ああ、今なえし眼よぎり
にほふは姫か、びやくえの
花の香いぶき。
白玻

燭はその手に、
盡きざる膏油玉髓、
消えせぬ焔紅玉、
あるひはこれか。
夢こそひかり、ひまなく
まぼろしうごく、
こは何、ここに緑の
星かと孔雀舞ひいで、
わが身をさそふ。
貴なる姫よ、しばしは
その手の燭を、
しばしは掩へ。――ああ世に
わが身ぞ命すべなき
ちりひぢ水

ほほゑみ、光、まぼろし、
『時』のたはふれ、
束のまなりき、これさへ、
やがては眞闇おくつき、――
白衣きえゆく。
花の門ならね、胸の戸を
黄なる羽うち、碧き露
したたるひまを、眞夜、眞晝、
夢か、花ぞの、――とく知りぬ
その園ぬちに石人の
すがたを、われは。
あこやの貝の日はしんじゆ、
それかとまがふかがやきの
かぎろひわたり、花草は
浪としぶきぬ、いかなれば
かくもむなしき、石人の
瞳子、まなざし。
臺座をたたむ石を鐫り、
見れば眞白き石ごとに
姫神、龍のみ車を
馳せてこそゆけとことはに、
嗚呼誰がたくみ、石人の
御座を、かくは。
今、龍の羽はうち撓み、
みくるま前を、今、なびき、
しりへに墮つる姫神や、
右に、ひだりに、眼もまよひ、
狂ほし、こころ、石人の
かげにこの時。
このときいとど花草は
浪とみだれぬ、眼のあたり
ほのほのあらしまろがりて
ゆくにか、あはれうらがなし、
わが魂なやむ、石人の
あやしさかひに。
こころはここにつながれて、
身は沈みゆく埴の星。
幻師やすゑし妖の座の
あたりさりあへずわれは聽く、
光に朽つる石人の
『刹那』の蠧魚を。
くぐもる殼は生ひかはり、
翅掩へる當來の
鳥座ぞとほき。――眞夜、まひる、
まぼろし、夢の憂かる世を、
嗚呼破りがたし、石人の
領らす囚獄は。
水盤に
あまき露うけむ、
君がゑみ
花とさくその日。
胸に蒸す
にほひ眼にうつり、
君がゑみ
眞晝かがやける。
あやしうも
あでに、睡蓮の
夜をかをす
ほこりには似じな。
わが戀の
たとへ、また、(榮の
古跡や)
荒む野となるも、
わがこころ
ここに、なほ、清き
水盤の
花のつゆうけむ。
夏に添ふ
花やあまりりす、
君がゑみ
花とさくその日。
みづぐさ青み、夏川の
(妖のこれ影か夢)
水のとばりの奧ふかく
ゆららに洩るる姫が髮。
眞晝青岸、ひたぶるに
(妖のこれ眞鏡か)
いのりて更にまじろがず、
伏してながむる水の面。
いかなる姫か、ひもすがら、
(妖のこれ妖か)
いかなる姫が細髮、――
顏のはた見まほしき。
河浪のこゑ、水のこゑ、
(妖のこれはかなさか)
こゑごゑ溢れあざわらふ、
『花のおもては見がたし』と。
水草なびき、夏川の
(妖のこれその望み)
水のとばりのさはりなく
いつかは、清き面影を。
姫がくろ髮、ひもすがら
(妖のこれそのちから)
夢とも消えで、はてのはて
にほひにこもる姫が眼よ。
さあれ、瑠璃宮歡樂の
(妖のこれそのをはり)
姫にひかれて、常夏を
百合のいづみのひとしづく。
夢のむすめ、とこをとめの
眞白手もてともなひゆけ、
永劫に問はじ汝が名は、
いづくはあれ、ともなひゆけ。
夢のむすめ、永劫に遠く、
いましが手の、われ左に、
右には花。――ひかる瑠璃の
花のかげにつつみて往ね。
十歳は虹霓、千とせはこれ
月日の瀬にめぐる

夢のむすめ、古りにし代の、
ああ、何ゆゑ舞ひかがやく。
命の芽はかのほのほに、
生葉の戀虹霓にまとふ
たのしきこの一時をば
いましに、今日、また見むとは。
夢のむすめ、にほひの姫、
風にも似つその黒髮、
その眼はまたいとしづかに
かの色鳥あそぶけはひ。……
夢のむすめ、嗚呼さはあれ、
われをかへせ再び世に、
いましが胸むなしきまを
うつつの世にわれや生きむ。
古墟にも闇の小草、
知るや、その根いだきそへば
瑪瑙の膸とけもやせむ、――
ここにひとり命ぞある。
夢のむすめ、うつつにいざ、
いましもまたうつつの姫、
いでやかしこ、夏にあふれ、
秋にしづくまことの日に。
(青木繁氏作品)
あらぶる巨獸の牙の、角のひびき、――
(色あや今音にたちぬ。)否、潮の
あふるるちからの羽ぶり、――はた、さながら
自然の不壞にうまれしもののきほひ。
すなどり人らが勁き肩たゆまず、
胸肉張りて足らへる聲ぞ、ほこり、
よろこびなるや、たまたまその姿は
天なる爐を出でそめし星に似たり。
かれらが海はとこしへ瑠璃聖殿、
わたづみ境を領らす。さればこの日
手に手にくはし銛とる神の眷屬、
丈にもあまる大鮫ひるがへるや
魚の腹碧き光を背に負ひつつ、
上るはいづこ、劫初の砂子濱べ?
美酒、ほほゑみ、ともに匂ひかはし、
甕より、はた面よりあふれいでぬ。
擧ぐるは玻

藝の日照らす宮居を彫りちりばめ、
ましろき膚かがやくみ姿をば
浮べて世にも奇しき高坏こそ、
想ふに、一夜まとゐの中にはあれ、
さてしも歡樂、人を醉はしむるや。
たをやめしのべば花の巴里の園生、――
朽ちせぬ光のべたるみ空趁へば、
なつかし、伊太利の旅路、精舍の壁。
言の葉小舟いつしかわれを載せて、
曉、夕と移る物がたりの
舵とり、帆あげてくだるせいぬ、あるの。
三十六年十月
日は照りぬ、
そしらぬけはひ、――
日は今雲に舞ひうかぶ、
よしさもあれや
そしらぬけはひ、――
それゆゑに君を戀ふ。
著莪さきぬ、
そしらぬけはひ、――
また花さきぬ花あやめ、
わりなくも君、
そしらぬけはひ、――
君やかく、君やなぞ。
著莪すでに、
また花あやめ
すでにしをれき、六月の
百合こそさかめ、
そしらぬけはひ、――
君はただひとり行く。
百合さきぬ、
そしらぬけはひ、――
百合はにほひて弱肩の
君が丈なる、
おもかげ似たり
わがゑし園の百合。
君はなぞ
そしらぬけはひ、――
百合はくづれぬ、みなづきの
戀やみながら
あだなるねがひ、
あだなる日われひとり。
午後四時まへ――黄なる
冬の日、影うすく
垂れたり、銀行の
戸は今とざしごろ、
あふれし人すでに
去り、この近代の
榮の宮は今、
さだめや、戸ざしころ――
いつかは生の戸も。
かくてぞいやはてに
あき人、負債ある
身の、足たづたづと
出でゆくそびらより、
黄金の音走り
傳へぬ、こは虚し、
きらめく富のうた、
惱みの岸嘲み
輝く波のこゑ。
見よ、籍册の金字――
星なり、運命の
卷々音もなし。
一ぢやう、おひめある
ともがら(われもまた)
償ふたよりなさ、
囚獄の暗ふかき
死の墟、――いかならむ、
嗚呼、その魂の夜。
煙は鈍む日に、
映りて、くらきむらさき、
ながれぬ、霜の壓す
弓かとひくく撓みぬ。
悶ゆるけぶり、世の
底なるいぶきか壞ゑくゑ
うづまき去るかなた、
ねびてぞ墜つる日黄なる。
夕ぞらよどむとき、
靜かに、重し、すさまじ、
巷を空ぐるま
まろびてゆくに似たらず。
見よ、今煤ばめる
「工廠」いくむねどよみ、
その脊をめぐらすや
いさ、かの天の耀光。
聖なるちからには
后土とどろき、蒸して
騰れるゆげには
うるはし花こそこもれ。――
かからむ花はまた
世になし、ひらめくひかり
遽かに

強き香照らす束のま。
鳥啼く――ああ鐵槌の
ひびきよ、かぎろひけぶる
ただなか、戰の
胸肉刻む聲なり。
誰かはこのほとり
ゆく時こころ伏せざる、――
痍にか、身に逼る
道にか、高き御名にか。
三十八年三月
家根のくさひでりにかわく、
かわくとて垂るる頸や、
露もなき葉ずゑの眼もて
燒くる見よ、甍の波の。
家根の草かくて乾くか、
夏はこれさかりのみやこ、
棟と軒、甍と瓦、
蒸されつつ人はひそめり。
かの瓦照りてたはむれ、
この甍やけてほほゑむ、
人の世はそのかげに、――今、
轍鳴り、人はそよめく。
ただ悶え、ものの朽ちゆく
にほひのみ、(さればぞ天の
光あれ)人はいつより
ちりづかのかげの弱ぐさ
家根の草つひにかわきか
かわくとも、これや黄金の
髮おほひ漲るなかに
きえてゆく紅玉のはえ。
○
甘睡よ、をぐらき、ふかき、
掩ひねわが身のうへを、
願望はあだのみ、うまい、
うまいよ、あくがれそれも。
いま、われ盲目となりぬ、
今、また惡しけく、善けく、
そのかげこころに滅えぬ……
ああうらがなしきしらべ。
懸床ゆららと、われは
墳塋ごもりて搖する、
こわねもひそめて、去ねよ、
寂寞ただこひもとむ。
(ヱルレエヌ)
○
丘、かきね、疾く飛びすがへば
薔薇だつ緑ひとつら、
はた黄なる車の燈火
うつら眼になべてを混ふ。
たそがるる谷村のをち
ややに黄金あからみゆきぬ、
ちさき木々たひらにわたり、
よわき音に啼く鳥もあり。
いつくしき、やはらこの秋、
かなしともなくて、うるはし、
なしのまま倦ぜるわが身
軟風にゆられて夢む。
(おなじく)
○
樹立の額のうへ
ながむる月青く、
枝ごとに
たゆたふ曲や
幽けき吐息……
ああ、あくがれごこち。
柳の木のふたつ
なみだち、かつ嘆く、
ひとつは微風に
ひとつは河みづの
鏡の深き底……
夢みて夢をわれら。
むりやうの
圓寂
しととに降るや、白き
夜霧の、月そそぐ
影に彩なすあたり……
移らざれ、『時』のまどけさや。
(おなじく)
金の屏風をめぐらして
祭物見のしつらひや。
金の屏風の繪模樣は
光琳もやう、花もやう。
花は紫、かきつばた
水もあやなる雙鴛鴦。
祭物見の大店の
塵だにすゑぬしめやかさ。
縁じやのさきの美しき
顏もそろひし女客、――
見ればとりどり水草の
祭の浪に誘はれし
それとはかはる身だしなみ、
清らやここの中むすめ、
ことし十五の初夏と
うちそやさるる娘まゆ、
かひな、肩つき、たをやかに
をどりのふりの裾さばき。
をりもをりとて町内の
屋臺ちかよる絃のねや、
足なみ浮かれ行く人の
表どほりの賑ひに、
眉ねすこしくうちひそめ、
そむけがほなるそのけはひ。
十五初夏、くろがみの
艶に厭ふか町の塵。
さなそむけそよ花の顏、
慕ひよる眼のなからずや、
しばしの興にことよせて
手をとるひまもなからずや。
君を慕ふがわかさにて
七人きそふ夏まつり、
君を慕ひて隣町、
われや數にも入らざらむ。
派手なるそろひ肩ぬぎて
聲張りあぐるこころ意氣、
そのすがた見てくらぶれば
戀にふさはぬわが思。
君を慕ひて、よろこびの
花笠いつかかざさむと
夏の日ざかり人ごみの
なかにまぎれて立てるとき、
生憎さわぐ胸のさき
警固の杖のとどろとどろ。
たとへば、君が優姿
夏は水際の花あやめ、
むかしおぼゆる大江戸の
水の香ながく君に添ふ。
われも氏子の、君もまた
おなじゆかりの氏神や、
神の祭の日に遇ひて
ふたり手をとるこのえにし。
戀はわが眼の瞳かげ、
情は君が花とさく。
眞ひるは人め避けたれど
夜街を君は厭はじな。
かけつらねたる挑燈の
巴繪づくしの華やかさ。
灯かげあふるる夜の道、
いざいざ戀の神の道。
二人伴ふ一歩に
みやこの土もよろこばむ。
ふたり歌はむ一節は
なかばを君にゆづらまし。
いざいざ戀の神の道、
夜の灯かげに君とたどらむ。
三十六年六月
(夫の伊佐奈、妻の止利)
夫の伊佐奈、妻の止利といふは海山に親しき名を擇びたるに過ぎず。伊佐奈は海の人なり、壯時橘の樹蔭に蜑の少女を慕ひて、戀の敵なるその友を殺せり。されど少女の意は彼に嚮はずして、亡き人の後を逐ひて海に沈みき。伊佐奈はこれより山中にさまよひ、迅雷の一夜、端しなくも宿りし家の女と相結ぶに至る。妻の止利といふはこの女なり。海の紀念なる珊瑚と眞珠とは止利が念珠を飾れり。唯橘の實を祕して、私かに門邊に埋めおきぬ。橘は芽ざしてより既に四十年を經たれども、未だ曾て花さかず實らず。こはまた宛ら伊佐奈の胸中なり。海知らぬ止利が嫉妬はこの祕密に萌して、婚後一年、伊佐奈が携へ來し妖鏡を偸見して、始めて鏡裏に海波橘樹を窺ひ、白影漸く凝りては少女が姿を知り、少女が手を執る夫を嫉みぬ。たまたま尼僧來りて鏡をとれば、妖影消えて、ただ剃髮したる少女を見たり。尼僧は懺悔の功徳を言へり。伊佐奈はなほ祕密を持して老齡に達しぬ。橘を咀はむといひて手に斧を取り、止利と相對し、夫の斧を下さむとするを妻とどめ、「來む歳ぞ實らむ、やよ待て」と言はしむ。伊佐奈はこの時はじめて胸中を洩らしぬ。白き少女の影は遽かに止利の眼を遮りて、夫が咀ひの言葉に答へず。斧は下りて、橘は根より僵れ、伊佐奈も亦呼息絶えたり。この中鏡のことはわが邦の傳説に據りたり。もと夫が鏡裏に見るは亡き父の面影なり。果樹を咀ふは今もなほ所々に行はるる古來の習俗なり。
『夫の伊佐奈、翁よ。』『それや
しわみたる曲嘴の妻の
止利よ、など、さやは囀づる――
夫の伊佐奈、翁と――措きね。』
『さもあらば汝古伊佐奈、
潮鳴る海坂のぼり、
喘ぎつつ、白泡ふける
老くぢら、翁よ、それか。』
『今日もまた宵やみならで、
祥なくも怪鳥叫びぬ、
あきはてぬ、この深山はや、
嘴太の、妻よ、死烏。』
『死鯨。』『やよ、老がらす。』
『嗚呼、わが夫、口ぎたなくも
罵れり、おもへばわかき
日のつやも失せにし言葉。』
『わかき日を汝も戀ふるや、
ただ戀し、われは古里、
親の國、母の渚べ、――』
『戀の舟――それのみならじ。』
『なほ嫉め、――舵の枕か
は、は。』と夫の伊佐奈の言へば、
妻の止利は『年月汝が
海がたり、また磯がたり。』
『黒水の晝はよどみて、
朽沼の夜の怪火、
山小菅なびかす風は
磯の香のひろきを知らず。』
『夫の伊佐奈、汝とあひ見て
はや四十の年月かさね、
海がたり、また磯がたり、
海を見ぬおのれも飽きぬ。』
『倦みにしか、はや、わが胸の
底をしもとめざるひまに。』
『汝はいへり、彼處には舟
眞帆あげて笑みつつすすむ。』
『げにさなり。』『汝はまた言へり、
かしこには潮と潮、
干てはまた滿つよ朝ゆふ、
雄の浪は雌の浪趁ふと。』
『げにさなり、されどまた、』『ああ、
けふこそはわが海がたり
はや聞きて、はや飽きてあれ、
その海を。彼處にはまた――』
夫の伊佐奈今は默しぬ、
『かしこには鴎てふ鳥、――
青浪に白鳥映り、
千重の浪、百千の鴎。』
夫の伊佐奈うちほほゑめば、
妻の止利はいと誇らしげ、
『金色の如來阿彌陀の
御經をも誦んずるわが身、
『さればまた弛くはあれど、
夫が淨土、海としいへば
夜がたりの片帆、片羽の
ふしぶしもつばらに知りぬ。』
『それこそは、止利、曲嘴の
えうもなき空囀よ、
ごくらくの妙音鳥も
汝が聲にひるみやすらむ。』
『さな言ひそ、わが夫の伊佐奈、
海の人、伊佐奈は海の
美魚、鮪つく銛を
若うしていしくもうちき。』
『その銛を、星のごとくに
射てもゆくその銛を、止利、』――
夫の伊佐奈妻の止利見すゑ、
『その銛を何とか知れる。』
『鮪つくと汝はいふ、さあれ
わすれたり二人は今日を、
みのらざる門の橘
咀はむと言ひにしものを。』
夫の伊佐奈手には
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乾びたる腕に重く、
たゆたひて、『ああただ一樹、
橘もかの日のかたみ。』
『實らざる、何の紀念ぞ、
むなしかる夢や。』『さな、さな、
妻の止利よ、さな啄みそ、
汝が口は老て鋭し。』
『實らざる、否咀はむと、
橘を、――むかしのかたみ――
汝こそは言ひも出でつれ。』
『げに紀念、古里の種子。』
『汝こそはいくばくもなき
この命つきぬその間に
橘の花さく見むと、
花にほひ、實るを見むと――』
『橘はにほはざりきな、
海の郷離れて山國、
谷あひの日影をわびて、
わがごとく年をへしのみ。』
夫の伊佐奈また言ひつぎぬ、
『汝を見しその日のはじめ、
迷ひ來し谷村の夜、
この山にいかづち裂けぬ。』
『亡き母はつねに語らく、――
雷電の社の神は
えうなくば人を痛めず、
神怒、蹇者も起つ。』
『火は走り、焔は飛びき、
かの夜に』と伊佐奈のいへば
妻の止利は『神の結びし
えにしこそ四十の年月。』
『そのをりにわが祕めし玉
三つぞ、ああ、白きは眞珠――
海の月、赤きは珊瑚――
これや日か、海の月と日。』
妻の止利は『げにその二つ
汝が手よりわが手に傳へ、
今もかくる念珠の
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山の實を照らす日と月。』
『そのひとつ汝には祕めて
この門べ埋めおきたる、
橘のこれぞ生珠、
芽ざしし日、はじめて告げぬ。』
『などや、夫の伊佐奈よ、惜しみ
祕めにけむ。』『あはれ妻の止利、
埋めしは胸のひめごと、
生ひたちし木にも花なし。』
『花もなく、また實もなきや、
夫の伊佐奈。』『いざ咀はなむ、
來む年ぞ繁葉の海の
浪の華枝にかかりて、
『くだけちるにほひを知らむ、――
海ちかき籬のけはひ、
浪洗ふ沙の光。』
妻の止利はただ聽きに聽く。
『妻の止利よ、いざ咀はなむ、
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橘の根をうたむとき、
しばし待て、やよと汝は言へ。
『何ゆゑとわが問はむとき、
來む年ぞ花はさきなむ、
あやまたず實りはせむに、
橘となだめて言ひね。』
妻の止利は老の眼ほそめ、
老の口ゆがめてあれど、
夫の伊佐奈
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ほほゑまず、はたまじろがず。
橘をうたむとあげし
さび斧は、やよ待て――と妻の
止利のまだ言ひもあへぬに
力なく夫の手すべりぬ。
夫のまへに白き影ゆき
手をおくと妻の止利は見て、
妻のまへにゆたにまひろき
海を夫の伊佐奈は戀へり。
夫の聲は潮のしぶき、――
『汝と見し一年の後、
呪女の咀ひをこめし
古鏡われぞもて來し。』
夫の聲はうづしほのこゑ、――
『呪女は麓の村に、
古かがみ映りしは何、――
海戀ひし、母の渚べ。』
夫の聲は雄の血、雌の血の
ささやきか、――『ああ、父のかげ、
母のさま、――映りしは何、
浪の夢、磯のまぼろし。』
夫の聲は荒浪を裂く
銛の音、――『愛しきわが妻よ、
まぼろしのその古鏡
偸み見て、さてこそ汝は――』
『われはげに、われは嫉みぬ、
尊かる淨土の寺の
尼君の來まさざりせば
身亡せけむ、おのれその時。』
『妻の止利よ、見きとは何の
影なりし。』『涯なきは海、
浪ぞゆく、空はにほへり、
ふくよかに海は處女の――』
『海はげに處女の胸か。』
『やがてまた青き樹蔭の
籬みち。』『ああ、妻の止利よ、
青葉こそもとの橘。』
『その樹かげ、夢は花さく、
黒髮のわかき手弱女、
あらはなる踵もねたし。』
『妻の止利よ、そはわがもとの――』
『そは知らじ、その手弱女の
手をとりて、いましは涙、
そのをりよ、(ああ嫉きかな。)
尼君はここに來ましき。』
妻の止利はさらに口疾く、
『尼の君鏡見すかし、――
たをやめは頭髮おろしぬ、
あな尊と、懺悔と言へり。』
『ああ、懺悔。』『その古かがみ
尼君の寺にをさめし
その日より映す白鵠、
孔雀、鸚鵡、淨土のすがた。』
『古鏡さもあらばあれ、
この老の胸をばいかに、――
わが銛は友を斃しき、
戀がたき――眞鮪や、あはれ。
『その銛を、星のごとくに
射てもゆくその銛を、止利、』――
夫の伊佐奈妻の止利見すゑ、
『その銛を何とか知れる。』
妻の止利を夫は見すゑつつ、
『たをやめは彼が後逐ひ、
深海の底に沈みき、
われは、ああ、いかに、汝が言ふ
『老鯨山に乾びぬ、
さあれ戀し、戀の古里、
たちばなの青き樹かげの
籬みち、母の渚べ。』
妻の止利はひとりおどろき
あやしみぬ、更に嫉みぬ、
その海を、手弱女を。――夫の
伊佐奈いふ、『過ぎしは空し。』
夫の伊佐奈
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『橘をいざ咀はなむ、
さきにわが契りおきつる
言の葉を、妻の止利、いひね。』
夫のまへに白き影ゆき
ささやくと妻の止利は見て
默すとき、斧は下りぬ。
橘は根より僵れぬ。
あなや斧、あなや橘、
花もなく、つひに實もなし。――
『あなや妻の止利』と言ひて、
夫の伊佐奈呼息たえ果てぬ。
(明治三十八年七月刊)