書肆岩波氏の需めにより、岩波文庫の一篇として、ここに私の作詩撰集を出すことになつた。
選をするにあたり、私はただ自分の好みにのみしたがつて取捨をきめた。紙數が限られてゐるので、暮笛集では尼が紅、二十五絃では雷神の夢、天馳使、十字街頭では葛城の神などの長篇を收容することができなかつたのを遺憾に思ふ。
昭和三年三月
薄田淳介
雪の降る日に柊の
あかい木の實がたべたさに、
柊の葉ではじかれて、
ひよんな顏する冬の鳥、
泣くにや泣かれず、笑ふにも、
ええなんとせう、冬の鳥。
紺の法被に白ぱつち、
いきな姿のつばくらさん、
お前が來ると雨が降り、
雨が降る日に見たらしい
むかしの夢を思ひ出す。
み山頬白鳴くことに、
一筆啓上つかまつる、
故郷を出てからまる二年、
まめで其方も居やるかと、
つひぞ忘れた事もない、
風のたよりにことづてて、
木の實草の實やりたいが、
お山の鳥の世わたりは、
春の彼岸が來てからは、
雛のそだてに忙しうて、
ひまな日とては御座らない。
お山の猿はおどけもの、
今日も今日とて店へ來て、
胡桃を五つ食べた上、
背廣の服の隱しから、
銀貨を一つ取り出して、
釣錢はいらぬと、上町の
旦那のまねをしてゐたが、
銀貨は贋の人だまし、
お釣錢のあらう筈がない、
おふざけでないと言つたれば、
帽子を脱いで、二度三度
お詫び申すといふうちに、
背廣の服のやぶれから
尻尾を出して逃げちやつた。
わたしの裏の梅の木に、
雀が三羽止まつて、
一羽の雀のいふことに、
「うちの子供のいたづらな、
わたしの留守をよいことに、
卵は盜む、巣はこはす、
なんぼ鳥でも生の子の
いとし可愛はあるものを。」
なかの一羽のいふことに、
「うちの子供のもの好きな、
わたしが山へ行つた間に、
つひこつそりと巣の中へ、
雲雀の卵をしのばせて、
知らぬ繼子を孵へさせた。」
あとの一羽のいふことに、
「うちの子供のしんせつな、
わたしの子らが巣立して、
つひ路邊へ落ちたとき、
まるいお手手にとりあげて、
枝にかへして呉れました。」
向う小山の雉の子は、
何になるとてほろろうつ、
鷲になるとてほろろうつ。
鷲になるまい、鷹になろ、
鷹になるまい、雉になろ。
雉は山鳥、山の木へ、
人に知られぬ巣をかけて、
やんがて雛をあやすとて、
ほろろほろろと唄ひます。
きのふは桃の花が咲き、
けふは燕が巣にかへる。
雛の節句が來てからは、
いそがしぶりの増すばかり、
せめて一日寢てゐたい。
今日も小雨が
降るさうな。
お寺の庭の
菩提樹に、
蛇の目の傘に、
つばくろに、
わたしが結うた
鉢の木の
てりてり法師に、
まださめぬ
晝寢の夢の
あの人に。
小春日和の牧の野で、
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噂に聞いた薄鈍の
驢馬と豚とを比べたら、
どちらが兄で偉かろと
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ところへ驢馬と豚が來て、
豚はそろそろ居睡るし、
驢馬は大きく欠伸する。
揃ひも揃つたお方だと、
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鵞は水へ、
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山の朽木に焦色の
菌が一つ生えたのを、
兎はゆふべここに來た
鬼が落した角といひ、
狸はお山の山姥が
魔法使ひの手だといふ。
そこで二人が連れだつて、
お山の猿を訪ねたら、
知つたかぶりの猿公は、
それは角でも手でもない、
お慈悲の深い神樣が、
お猿に呉れた床几だと、
言ひまぎらした口まめに、
狸も兎も合點して、
山の菌はその日から、
ずるいお猿の腰かけと、
いつの代までもなつたとさ。
白い羽がひの親鳥が
白い卵をぬくめたに、
出來た雛はまだら毛の
ふつくりとした羽だつた。
鳶と梟と蝙蝠が
山から里へ見に來れば、
雛は親のふところに
こそりこそりと潛りこむ。
棗の枝をゆすぶれば、
黄金の色の實が落ちる。
妹が一人あつたなら、
夏は二人でうれしかろ。
一人はあつた妹は、
いつぞや遠い國へ往つた。
知らぬ木蔭でこのやうに
夏は木の實を拾ふやら。
山家そだちの五郎助が、
町へ出てから二十日目に、
うまれの里が戀しうて、
峠の道へ來かかれば、
いたづら好きの梟が、
「五郎助もつと奉公」と、
寺の和尚の口眞似を、
「さうでござる」と五郎助は、
山をあちらへ、とぼとぼと
またも町へと後がへり。
山家そだちの五郎助が、
町へ出てから九年目に、
寶の數を背に負うて、
峠の道へ來かかれば、
いたづら好きの梟が、
「五郎助よくも奉公」と、
寺の和尚の口眞似を、
「さうでもない」と五郎助は、
山をこちらへ、いそいそと
うまれの里へ初見舞。
お山育ちのほほじろが
山がつらいと里へ來て、
里で捕られて、ほほじろが
山が戀しと鳴きまする。
お花はいつも早起で、
水桶さげて井戸にゆき、
與作はいつも晏起で、
草籠負うて野へ出ます。
通りすがりの榛の木の
榛の木かげで逢ふ時は、
二人はいつもお早うと、
會釋しあうて行きまする。
山家そだちの野苺が、
麥の穗も出る夏の朝、
熟れて、摘まれて、送られて、
都の市に來てみれば、
朝も葉末の露はなし、
晝も小鳥の音は聞かず、
なんぼむかしがよかろかと、
西日のさした店先で、
娘のやうな息をして、
身の仕合せを泣いたとさ。
梟が水を泳ぐなら、
海鼠が山へのぼるなら、
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お道化眼鏡を覗くより、
なんぼうそれが可笑しかろ。
梟は水に沈まうし、
海鼠は路で滑らうし、
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その可笑しさに神樣も
お腹抱へて笑はれう。
田の面の稻は刈られたし、
も往の往のとは思へども、
あとに名殘が惜まれて、
昨日も今日も往にかねた
麓の里のつばくらめ。
いつそ今年は泊ろかと、
古巣にまたも來たものの、
獨り住居のともすれば、
落葉の音に、南國の
夏を夢みるつばくらめ。
星が空から落ちて來て、
花が代りに撒かれたら、
空はやつぱり光らうし、
野路もきつと明るかろ。
天の使がおりて來て、
星は殘らず取り去ろが、
み空の花を拾ふには、
ああ羽はなし、しよんがいな。
お山育ちの鶯が
たまに都へのぼるとて、
ひと夜の宿をかりかねて、
梅の小枝で晝寢たら、
花が小聲でいふことに、
お前が宮に仕へたら、
黄金格子の鳥籠で、
玉の餌にも飽かれうが、
茱萸の實食べた故さとの
野山の唄は忘れませう。
お山の猿が袈裟を着て、
門へ來たなら何とせう。
山のお寺の法師さま、
いらせられいと迎へます。
もしもお袈裟が綻びて、
尻尾が出たら何とせう。
町のお針を呼んできて、
仕立おろしをあげませう。
二十日鼠は巣にこもる、
鮎は流れの瀬をくだる、
圓葉柳の葉は落ちる、
新嘗祭過ぎてから、
秋は寂しい日ばかりで、
今日も時雨がふるさうな。
向う小山の山の端に、
日は照りながら雨が降る。
野らの狐の嫁入が
楢の林を通るげな。
をさな馴染の小狐を
向う小山へ立たせたら、
明日より誰を伴にとて、
狸は古巣で泣いて居ろ。
大芥菜畑の垣の根に、
二十日鼠がすんでゐる。
小春日和のお午すぎ、
巣を出て來ては餌をさがす。
大芥菜畑の榛の樹の
枯れた一葉が散る音に、
二十日鼠の臆病な、
餌を食べさして巣へ逃げる。
山の南の山畑で、
玉蜀黍の葉が鳴るは、
いたづら好きな野鼠が、
餌をたづねに來たのやら。
山の南の山畑で、
玉蜀黍の葉が鳴るは、
鼠で無うて、としよりな
秋が來たのであつたげな。
鳥がなきます、
鳴くも、やれさて、
野べに、山べに、
夏が來たとて。
花のこぼれた
森の小路を、
春は往ぬやら、
なごり惜しやの。
北と南の海越えて
都へまゐる仲ながら、
噂にのみでつひぞまだ
見もせぬ雁とつばくらめ。
いつかは花のさくら木の
咲いた小枝で北海の
はなしを聞こと思へども、
さて折がないつばくらめ。
いつかは枯れた葦はらの
水のほとりで南國の
噂しようと思へども、
さて折がない雁の鳥。
いつかいつかと來るたびに
思はぬことはないけれど、
ことしもつひぞ逢はれずに
つばめは南、雁は北。
斧にたふれし白檀の
高き香森に散る如く、
薄衣とけば遠き世の
ふかき韻ぞ身に逼る。
向へば花の羽衣の
袖のかをりを鼻に嗅ぎ、
叩けば玉の白金の
冠冕を彈く響あり。
あな古鏡、往にし世に、
額白かりし上

戀のうらみに世をすてし
今はのきはのかたみとや、
横さにかかる薄雲の
曇れる影も故づきて、
頼もしき哉、祭壇の
清き姿をうち湛ふ。
手なれし人も見ず久に、
冷えたる面にさはりみよ、
花くだけちる短夜を、
瞳子凝らしし少女子が
柔き額をながれけむ
熱き血汐の湧きかへり、
春の潮と見る迄に、
昔の夢の騷ぐらし。
亂心地の堪へざるに、
泡咲く酒の雫だに、
渇ける舌にふくませよ、
袖に抱きて人知れず、
深野の末に踏み入りて、
妻覓とも見む物狂、
背叩きて面撫でて、
わが友得ぬと歌はまし。
宿る人靈のひびらかば、
怨みある世の夢がたり、
今もむかしも嫉みある
女神、女子につれなくて、
人の情の薄かるに、
細き命をつなぎわび、
泣きて逝きけむ上

祕めし思を悼ままし。
ああ幾度か、若き身の
狂氣をこそは望みしか。
今ぞ興あり、怨みある
その世の記念、古鏡、
わがふところに藏め得ば、
京童は嘲るも、
世の煩らひを打ち捨てて、
もの狂はしき身とならむ。
なう古鏡、このあした、
汝を抱きて歎く身の
述懷は夢か、蜃氣樓、
それにも似つる幻か、
いずれ覺むべきものならば、
儘よ、短かき晝の間を、
飽かぬ睦びにあくがれて、
悲しき闇を忘れまし。
春ゆく夕、白藤の
花ちる蔭に身をよせて、
泣くは行末、さだめなき
世のならはしを思ふもの。
知らじや、薄き花びらに
春の日を燒く香あり。
見じや、か細き鬢莖に
かなへをあぐる力あり。
路いそぎゆく旅の人、
しばし木暗に立ちよりて、
冷たき胸を叩く手に、
など若き身を抱かざる。
誰に語らん、和肌に
指をさはればうとましや、
潮に似たる胸の氣の
浪とゆらぐを今ぞ知る。
春經てさぶる酒甕には、
色濃き酒の湧くものを、
痩せし腕に血も冷えて、
苦き涙をぬぐふかな。
夏きてまたも新らしく
薄ら衣服を裁ちきれど、
もろき命をおもひみて、
たたむに惜しき染小袖。
神よ情ある人の子に、
盲目をゆるせ、ゆく春の
長きうれひを眺めては、
か弱き胸の堪へざるに。
冷たき土窟に釀されて、
若紫の色深く
泡さく酒の盃を、
わがくちびるに含ませよ、
暮れ行く春を顫きて、
細き腕の冷ゆる哉。
心周章つる佐保姫が、
旅の日急くか、この夕、
人は夕飯に耽る間を、
花そこここに散りこぼれ、
痛ましきかな、春の日の
快樂も土にかへりけり。
垂るる若葉の下がくれ、
亂れて細き燈火に、
瞳凝らして見入るれば、
蕚にぬれる蘂の粉が
花なき今も香を吹きて、
殘れる春を燒かんとす。
足にさはりて和らかき
名もなき草の花ふみて、
思ふは脆き人の春、
蹠粗き運命に、
戀の花びらしだかれて
しをれゆく日の無くてかは。
暗まだ薄き彼方より、
常若に笑む星の影、
智慧ある風にきらめきて、
夏來と知らす顏付よ。
今冷やかに見かへして、
しろき笑ひや浮べまし。
耳をすませば薄命の
長き恨か、暗の夜を
くだけて落つる芍藥や、
吾も沈めるこの夜半を、
花の小草のしたかげに
蟲とやならむ、香にゑひて。
かかる靜寂をことならば、
心ある子がものすさび、
顫なく絃にふれもせば、
弱き我身はくだけても、
琴ひく君が胸の上に、
涙のかぎりかけましを。
ああ、恨みある春の夜の
よはのあらしに熱情の
焔な消しそ、木がくれに
のがれて急ぐ佐保姫が
旅路を詛ふ蠱術の
息吹とはかん火ぞ、これは。
吹革祭の日は寒く、
鍛冶が妻ぞ唯ひとり、
ひねもす窓に居凭る時、
軒端づたひにこそつきて、
掛菜をそそる音きけば、
鷦鷯來と知られけり。
樵夫の娘爪先を
爐にあたたむる雪の朝、
いきふく聲を洩れ聞きて、
情郎こそ呼べと駈けいでて、
あはれや軒に立ちくらし、
凍えて泣きし談あり。
今朝しも山に分け入りて、
谷の小蔭に唯一羽、
鋭き嘴に萱さきて、
巣をあむ振を認めしが、
かへりて妹にささやくに、
なほわが聲をはばかりぬ。
なう鷦鷯木づたひに
ひとり興がる歌きけば、
夏の日なかの野の鳥の
誇る羽振も忘れはて、
簑蟲啄みて飛びてゆく
汝が姿をぞ愛でしるる。
兄
冬の日背をあたたむる
南の窓のたたずまひ、
胸和ぐる心地すに、
暫しきたまへ妹よ。
廚女なくて君ひとり、
灯の細るまで針づとめ、
今朝人もこそおとなはね、
心なぐさに歌はまし。
妹
やさしき君が語かな、
朝食の皿は注ぎたり、
春着の袖はなほ裁たず、
しばしはともにかたらまし。
ふた親ともに逝きまして、
ひろきこの世に淋しくも、
君が情の言の葉に、
憂慰むるわが身なり。
兄
世にたのしきは、妹の
針とる傍によりそひて、
春の日ながをひもすがら
讀むいにしへの歌の卷。
わがよむ文のつくるころ、
きみはた衣をぬひをへて、
手に手をとりて花かげに、
鹿の子のごとくをどるとき。
妹
世にをかしきは、吾兄の
廚のかたに音すると、
手にとる書を讀みさして、
ものおそれする夜なかどき。
煽つ灯をとりもちて、
さむき廚のしのびあし、
うつばり走る鼠子の
小さ姿をみいる時。
兄
春の夜ふかく月影に、
庭の樹間をさまよひて、
よき物の音のきかましき
宵よといへば、妹は―
やをら緒琴をとりおろし、
奏でいでつる一曲の
あまりに調のかなしきに、
睫毛うるみし夜もありき。
妹
琴ひきさして見かへれば、
火影にそむき歎くにぞ、
おぼろにしづむ春の夜に、
何かこつやとこと問へば、
さばかり音のかなしきは、
汝がせつなかる魂の
あらはれとしも思ふにぞ、
いぢらしとこそ歎きしか。
兄
夏朝早く水くむと、
甕を抱きて走りしが、
またかへり來て、躓きぬ、
甕はわれぬと歎くにぞ、
碎くるもよし、陶ものの
甕には惜しき涙ぞと、
いへば、つぶらに眼をひらき、
かた笑みせしは誰が子ぞや。
妹
秋の日、小狗かくれきて、
手馴の兎捕られぬと、
歌をもよまで窓に凭り、
面杖つきて沈めるを、
朝菜つむとて圃にゆき、
芋の葉かげにそれを見て、
抱きかへれば、よろこびて
額づきし日は何日なりし。
兄
五月の雨の夕闇を、
奧の一間にものの怪の
樣こそすれとふためきて
われかのさまに物狂。
灯かざしてうかがへば、
人しれずこそ物かげに、
黒毛の猫のつくばひて、
闇をみつめしをかしさよ。
妹
朝逍遙の其の一日、
葡萄の棚の下かげに、
戀歌よまめとすずろぎて、
呆けしさまにたてる時。
ふとしもものに躓きて、
眉根ひそめてむづかるに、
をりこそあれと葉がくれの、
實の一ふさを捧げしよ。
兄
昨日姫桃ちりこぼれ、
風香ぐはしき春の日を、
丸髷姿あえかにて、
君窓による夢をみぬ。
七春經たる樟樹の
若葉そろひて立つ如く、
君鬢づらの撓むまで、
髮ふさやかにたけけりな。
妹
いはば巫覡嚴らしく
皺める人に説くに似て、
夢といふなるいつはりを、
鼻うそやぎに見て知りぬ。
昨日むすびし若髮の
解けがちにする風見ても、
兄よ再び人妻の
心化粧はいはずあれ。
兄
世に名も高く響きつる
秀才の人にめあはせて、
げにふさはしき花妻と、
歌ひはやさん日は何日か。
汝がうつくしき顏ばせと、
汝がすぐれつる心とは、
をとこもぞ知る、人の世の
をみなの中の玉ならめ。
妹
み山の百合とみづからの
童貞をまもる心には、
戀もやがてはいたましき
むごたらしさの力のみ。
男ごころは狼の
餌にうち勝たむねがひのみ
兄よ、二人はいつまでも
生れの家にのこらまし。
兄
男女のもてあそぶ
戀といふなるたはむれも、
まことは世にもいたましき
性と性とのあらそひのみ。
わが妹だにうべなはば、
われら二人は天つ女の
娶らず嫁かぬ清らさに、
清らさにのみ生きなまし。
妹
うれしや、君はうべなひぬ、
娶らず嫁かぬ天をとめ、
天つ童男のきよらさに、
きよらさにのみ生きむとて。
うれしや、君はうべなひぬ、
今こそわれは常をとめ、
そのたぐひなき喜びを
今こそうたへ高らかに。
(妹歌ふ)
歌ふも、きくも、
ひとりゆゑ、
仇になしそね、
君とわれ。
古酒甕の
われ目より、
したたる露は、
わが身かや。
甘しと嘗めて
稱ふれど、
誰、盃の
ものとせず。
爰に自然と、
はらからの
深き慰藉の
なかりせば。
むしろ背きて
海にゆき、
思を波に
消さましを。
春の日小野の
逍遙に、
ふるき小笛を
拾ひきて、
息吹きこめて
なぐさむに、
ふと吾胸の
ゆるぎつる。
世の市人の
きかんには、
あまりに昔の
やさしきに。
若葉の蔭に
尋ね來て、
君としふたり
吹きてみる。
吾笛ふけば、
君立ちて
舞ひこそあそべ、
草のへに。
目は大海の
珠に似て、
光りすずしく、
輝けり。
足は菫の
花ふみて、
鹿の子の如く
舞ひのぼる。
艶なるかなや、
君は誰、
笛なげうちて
物狂。
今こそ得つれ、
もとめても
世に見ぬ幸を、
君が手に。
ああ、はらからよ、
縁あれば、
かくは手をとり
相したへ。
ああ、はらからよ、
來む世にも、
おなじ縁の
君をこそ。
笛とりあげて
吹きいでぬ、
聲は天にや
ひびくべき。
見よ美くしき
眉のねに、
歡喜の色
あらはれぬ。
君喜べり、
何かまた、
世のわづらひを
思ふべき。
愚ならめや、
われはよく
兄なぐさむる
すべをしる。
愚ならめや、
われはよく
妹なぐさむる
すべをしる。
行へ語れな、大原女、
齒朶の籠には何盛れる、
京の旅人渇けるに、
木の實しあらば與へずや。
君が跡ゆく尨犬の
名は「斑」とかや、善き名なり、
斑も木かげの欲しと見る、
しばしやすらへ、なう少女。
籠を木にかけ、野に伏して
鄙歌優にうたひなば、
都女の數寄こむる
鬢の風情をかたらまし。
野こえ、山こえ、谷こえて、
京へと問へば猶三里、
粉屋の女房笑顏よく、
眉毛うちふり道を説く。
青磁に亂るる糸柳の
若芽をきざめる片枝がくれ、
かざれる雛の玉の殿を
誰が子か見入りて獨り笑むは。
玉をちりばむる金の冠、
龍頭を彫りたる劍太刀の
花いろ衣を透きて見ゆる
あてなる姿を君や戀ふる。
春知りそめつる糸柳の
嫋えて見ゆるも哀れなるに、
緋桃を浮けつる瓶子とりて、
沈める思に注ぎてみまし。
彌生のみ空と若き命、
いずれか白日の夢に似ざる。
山、森、畑、寺、遠き牧場、
落つる日、ゆく雲、歸る樵夫、
いと似つかはしき色を帶びて、
ゆふべの心に溶けぞあへる。
たとしへもあらぬ靜こころの
かすけき響を胸につたへ、
わが歌ごころぞ温めましと、
田の畔蹈みきて草に伏しぬ。
若し夜の幕の落ちむ迄も、
歌もあらでここに迷ひ居らば、
げに言ふがひなき才ならめど、
さもあらばあれや、この夕の
えならぬ氣持にひたり得つる
思ひだにあらば、歌はなくも‥‥。
婢女眠りて廚さむく、
小鼠古巣にこもる夜半を、
冷え行く竈に友もあらで
節おのづからに蟋蟀鳴く。
かすかに顫へる己が歌の
ひびきを興がるいろも見えて、
眉の毛ふれるよ、鳴きつ、飛びつ、
無心のたはむれ忙がしげに。
更け行く半夜の影を惜み、
見えがたきものの見まほしさに、
燭とりて窺ふ吾がけはひに、
おどろき隱るるあわただしさ。
燭をこそ消さまし、心ゆるに
唱へよ、竈に靜歌をば。
か細きほつれも胸にまきて、
人の子とらへむ力ありや、
梳ればかすかに肩にそひて、
黒髮八尺櫛にながる。
その人戀ひつつ月あかりに、
花笑見むとて門に立てど、
あはれむ色さへつゆ見えぬに、
露ぐさふみつつ夜をかへりぬ。
雨の日ひねもす獨りとぢて、
心にゑがくはなよび姿、
燕も巣に入る夕となりて、
むかへば悲しや眉を白み、
つれなき鏡を壁になげて、
しのびに泣くかな、薄き縁を。
纖雲縹に長くながれ、
落つる日黄ばめるこの夕暮、
おもむきあるかな、筏浮けて
舟人河瀬に輕くさせり。
靜けき夕の心やりか、

ほのかに笑まひぬ、水馴棹に
くだくる小波をあとに見つつ
人皆煩らふ空のもとに、
自然の愛子か、君はひとり
赤丹穗に見る顏の色に、
心の平和うかがわれぬ。
似るものもあらぬ羨ましさ、
暫しはたゆたへ、なう舟子よ。
朝明、一群鱗しろく
淺瀬に走せ散る鮎と見えて、
まとへる綾羅色をわかみ、
透きても見ゆるや玉の腕、
葉がくれ木の實を摘みなましと、
人目をおもはず手をさしのべ、
袖口こぼれしはなやかさに、
垣間見とれしを誰と知るや。
夕空虹の環横にきりて、
遠雲がくれにわたる鳥の
身がろき翼も捨てなましや、
眞玉をのべたるかの腕に、
物もひ煩らふ額をよせて、
樂しき夢路をたどりえなば。
蟋蟀在堂
役車其休
今我不樂
日月其※[#「りっしんべん+陷のつくり」、U+60C2、59-上-5] 唐風
役車其休
今我不樂
日月其※[#「りっしんべん+陷のつくり」、U+60C2、59-上-5] 唐風
自然のこころの清きかなや、
末葉にみだるる露に醉ひて、
靜けき夕のすさみとてや、
この草がくれに虫は鳴きつ。
手纏の眞玉とさゆる音色、
軒端にこぼるる榎の實みても、
眉根を開きて笑みぬべきを、
何をか煩らふ君が姿。
鏡と見るまで澄める空に、
顰をうつすも心なしや、
若紫なる色にしみて、
酌めども盡きざる酒もあるに。
溢るる涙を袖にけして、
しづかに甘露の盃を含め。
彼方にけむれる森のあたり、
乳房によりそふ稚兒の如く
靜かに眠れる空の色も、
淺葱にしみゆくこの夕暮。
願ふは艶なる君と二人、
野末の逍遙心足りて、
情に燃ゆめる胸の中に
祕めつる小琴や彈きてみまし。
さらずば千種の花をともに、
さしそふ瑞枝にそよぎわたる
涼しき夕風髮にうけて、
霞に眠れる野邊の如く、
優なる姿に倒れ伏して、
ねざめぬ夢こそ切に願へ。
思に堪へで磯の邊の
巖が上にたたずめば、
沈める海の底ふかく、
かくれて湧くや春の濤。
干潟にくぼむ蜑が子の
足占のあとにたたへつる
なごりに映る影みれば、
やつれにけりな、わがかほの。
耳をすませば、岩がくれ
薄き命の響きして、
風にわななく蘆の葉の
波間に沈む一ふしよ。
色めきそむる葦かびの
波に折らるる音をきけば、
浮世の海に漂へる
若き命のはかなしや。
春の潮に洗はれて、
沈む眞珠の色みれば、
淺ましき哉、苦き世の
涙に醉へる己が身は。
目をめぐらせば、海神の
沈める面に恐れあり。
手を拱ぬけば、吾胸の
底に知られぬ歎きあり。
髮吹きみだる葦の葉の
風のぬるみに顫きて、
凍りはてたる額には、
熱き血汐もかれてけり。
ふるふ睫毛に溢れては、
岩に碎くるわが涙、
落ちて潮に聲あるは、
底の珠とや沈むらめ。
春の光りの薄くして、
若き快樂の短かきに、
花咲く影に醉ひしれて、
酒甕叩きて歌ふかな。
花の香碎く風をあらみ、
細き眉毛を顰めつつ、
燈火にかざす少女子の
袖の心を知るや君。
花を踏みては、和らかき
踵にしめる紅色の
名殘の色をかへりみて、
暮れゆく春を惜しむかな。
脆き此世に又いつか
春を抱きて樂しまん。
せめて今宵は歡樂に、
智惠の瞳なめぐらせそ。
盃含み目を閉ぢて、
たださびしらの物思ひ、
君よ涙のせかれずば、
火影にそむけ、人知れず。
走る油鰭よみがくれに
網代の網はくぐるとも、
ゆめ洩らさじな、悲しみの
細き釣緒にさはりては。
透影しろき鱗を
柳のかげにのぞき見て、
毒ある海にあえかなる
身の薄命をおもふかな。
木葉に似たる身を寄せて、
藻屑がくれにひるがへる
若きすさみも春の日の
暮れぬる程のひまと知れ。
水際に白き小波を
薄き鰓にくだきては、
心ありげの物ずさみ、
何をかくるる吾友よ。
星の光りに影みえて、
浦づたひ行く蜑が子の
足音に響く眞砂路に、
小さき鰭をさしつけよ。
氷雨に折れし葦の葉の
春に遇ひつる心地して
汝もつめたき砂摺に、
あつき血汐や覺ゆらめ。
げに人の世は荒金の
さびをし溶かす窯なりや、
眞金のつやを見まくせば、
底の熱をあたためよ。
そこに沈める眞珠あり、
ここに香れる野花あり、
ゆくな油鰭よ、宵暗を
なに恥かしき契かは。
横雲峯にたなびきて、
光まばゆきこの夕、
波しづかなる加古河の
澪に小網ひく蜑が子よ。
淺瀬の波にはしりよる
鮎子な追ひそ、苦き世の
味なき酒の盃を、
われ水上に注ぎしに。
水面に落ちて光ある
廣き額の色みれば、
鋭き爪の凶神は、
見ざりけらしな蜑が子よ。
君妻ありや、すさびゆく
風あらあらし人の世に、
胸やはらけき女子こそ、
頼みの宿と知りたまへ。
君稚兒ありや、懷かしき
乳房をふくむくちびるに、
いろも銹びつる智慧の井の
にがき雫なすすらせそ。
小網にかかれる白鮠の
われもかひなく驚きて、
唯恐れある物狂、
ここに道なし、快樂なし。
行方も問ふな、名も問ふな、
弛める弦の音にも似て、
風にわななく一ふしの
弱きしらべを聞けな、唯。
水色しろき揖保川の
みぎはを染むる青草に、
牛飼ひなるる里の子を
誰し哀れと見たまふか。
堤七里に行きくれて、
脚絆解く間の夕闇を、
城のやぐらに花散りて、
老いにけるかな、この春も。
牛追ひかへる野の路に、
踏むは、紫つぼ菫、
踵すりよせ佇みて、
なげく心を知るや君。
人に別れて野にくだり、
牛追ふ子らの名に入れど、
春ゆく毎に袖裂きて
昔の夢を思ふかな。
星はいでたり、夜頃來て、
慰めを見るそのかげに、
今宵は堪へず膝をりて、
袂に顏をさしあてぬ。
ああ、和らかき眞砂地に、
蹄のあとをさはりみて、
愚なる身に人知れず、
熱き涙をそそぐかな。
たのしみもなき人の世の
寂しき境に泣かんより、
われは情ある獸の
野邊の睦びを望むなり
水色しろき揖保川の
みぎはを染むる青草に、
牛追かへる里の子を、
誰し哀れと見たまふか。
黄や、くれなゐや、淺葱の
雲藍色にしづみて、
日の影しづかに薄れ行けば、
黄金浮けし波の穗の
搖ぎも底に隱ろひ、
小兵の星のみひとつふたつ
遠き空にまたたきて、
夜の幕しづかに空を閉ぢぬ。
島姫宿る巖蔭、
流れ緩き淵の上、
疲れしかひなに揖をとりて、
白く光る鱗の
跳ねかへる音を聞きつつ、
今漕ぎ歸るか蜑の子らは、
闇き浪路の夕暮、
わが岸何れと惑ふらんよ。
磯邊に立てる荒屋、
童女は早く眠りて、
女房廚屋に隙や得つる、
形よき貝の火盤を
南の窓に點して、
舟漕ぐ目路にと輕くすゑぬ。
伏目がちなる尼僧の、
法會にともせる燭の如く。
夜次第に擴がりて、
引汐走る音のみ
眞闇に知らるる海のかなた、
白き手すがる戸の上、
低き光の目標、
船人かへると思ひやれば、
胸に沁み入る平和に、
おぼえず涙を巖に垂れぬ。
廚女皿を灌ぐとて、
水吹く管を開けしまま。
戸に凭る頃を窺ひて、
出でしや、鼠穴の巣を。
窓洩る光ほの暗く
粉曳臼の上に落ち、
人の形を映すとも、
恐るる勿れわが友よ。
倉にこぼれし米ありて
三粒の糧に飽きたりや、
にこ毛ふくらむ汝が胸は、
幸や孕むと疑はる。
物蔭づたひ往きめぐる
ちいさ姿を眺めては、
誰か夜に盛る盃の
底の藥を悔まざる。
田に米蒔きて稗得しや、
米獲て倉に滿たざるや、
人地の幸を思ひ見ば、
鼠に糧を惜まざれ。
壁の壞れにくぐり入り、
脚そばだてて何を見る、
胸に小さき智慧ありて、
世の成りゆきを觀ずるか。
ああ詐欺に身は瘠せて
爭ひ多き市の上、
影にも堪へぬ鼠子の
清き目を引く價値ありや。
聽け君、穴の暗きより
ききと物噛む響する。
今人の世の恥なきに、
鼠なくやとわれ惑ふ。
自然に依りて足る可きを、
人營みて何するや。
噛むに故あり、願くは
神この穴に平和を。
ああ鼠子よ、此處に來て
暫しはわれと共にせよ、
誰が手か、倉の白壁の
鳥羽繪に似たる笑をば。
華籠に盛れる木蓮は
香爐の灰の冷ゆるに
脆く落ちて行春の
ながき愁を止めぬ。
春の日ながのわざくれ、
鐘擣男醉ひしれ、
時の數を忘るとも、
ほほゑみてのみあれかし。
そぞろ歩きの女に、
春の齡を問へるに、
かをり高き羅衣の
袂をふりて急ぎぬ。
今鐘樓に上り來て、
遠く浮世を望めば、
百里途もつくる方、
春はかなく落ちんとす。
ああ若きは酒くみて、
甘き夢に興がるを、
獨り冷えし堂に入り、
破れしみ經や讀むべき。
惡の神蠱わざに、
われを石とせよ‥‥
さば永劫朽ちもせで、
春戀石と名をや得め。
怠る僕を切に呼びて、
晝の間籬を固く結へど、
人なき折々しのび入りて、
小狐春に夜鳩をぬすむ。
一夜は宵より庭をめぐり、
三たびか鞭もて追ひしものを、
夜ふけて林檎の下葉がくれ、
守る身も忘れて夢に入れば、
こはまた、下枝の風にのりて、
語るよ、小狐聲も低く
母見ぬ闇路を庭にかくれ、
人の子戀ひ行く汝が身なるに、
雛鳩與へよ、否といはば、
翌くる夜鳴かまし、君が影に。
「夕ぐれ集會あり、堂に上れ、
老師ぞきたる」と示あれど、
身ひとり樹蔭に隱れ入りて
懸想の痛みを忍び泣きぬ。
素より成道興にあらず、
頤瘠せてもつとむべきを、
若きぞ罪なる、人を見ては、
すぐよか心も動きそめぬ。
聞け、今和讚ぞ堂におこる、
世の路よけつる報ありて、
友みな佛の恩得るに、
われのみひとりや罪におつる。
罪をも厭はじ、人もあらば
凭りても泣かんを、人もあらじ。
祈年祭のさむき夕、
羽ある神の子狙ひ得しや、
戀の矢心臟に傷を穿ち、
疼みにこらへで吾ぞ病める。
弱胸わづらふ、何によりて
暫の間なりとも休らふべき。
かなしき調を口に誦して、
みづから慰むつらきものぞ。
懸想と詩歌とさかづきとを、
いづれは劣らぬ若人への
天つ御饗とは誰かいふや。
苺は熟して市に入れど、
吟身いまなほ愁帶びて
わが詩は宴會の興にのらず。
野苺の葉がくれ光よけて、
蜥蜴も眠れる夏の眞晝、
靜かに南の窓にもたれ、
黒髮ながきを思ひ慕ふ。
をりから草笛ゆるに響き、
野山のしらべの聞ゆるにぞ、
つひにはこらへず庭におりて、
木闇の小路に隱れ入りぬ。
ああ野の小羊水を飮むと、
ぬるめる流れに走る頃を、
似つや戀ふる身は心かはき、
君があたりへとあくがれ寄る。
若きぞ悲しや、うらぶれては、
心なぐさむる術もしらね。
空藍色に晴れ渡り、
波ゆきかへりのたくる日、
よるは巖かげ、潮の香の
たよたよとこそ烟らへれ。
水平線に尾を垂れて、
雲薄色に曳くほとり、
心おのづとあくがれて、
市のどよみは遠ざかる。
倦んずる童女母により、
野の戲れをしのぶ如、
海をしみれば故しらず
去りけむ人ぞおもはるる。
人よ、餘りにつらかりし、
慕へるわれを後にして、
白帆のかげに身をひそめ、
波のかなたに往きしかな。
干潟に落つる貝の葉に
盛るべき程の情あらば、
低き波止場の舟よそひ、
手招きしなば足りなんを。
往きにし方は何方ぞと、
巖にのぼりて眺めしも、
波路のはては灰色に、
涙ながれて見えわかず。
せめて慰む術もやと、
歌に心をかへししも、
背きし罪か、詩の神の
助けありとも思はれね。
笛の手何か、きよき音は
うら安にこそ興を見れ、
人を怨みてなげく身は、
唯泣かしむる節ばかり。
日向の國よ、草ふかく
露しげき野と聞きにしが、
君はいづくをさまよへる、
和手懸くべき肩ありや。
ああ聖きかな、天の上、
戀知る女神詩をも知る。
女ごころを委ねんに、
歌人ならで誰かある。
歸れ戀人、くちびるは
胸の焔に渇きたり、
君かへりこむ其日まで、
また花びらに觸れもせじ。
鳴くを引汐おちゆきて、
再び島にかへる時、
浦に水鳥みえずとも、
悔いずや、君は永久に。
身は眞實男、うらわかき
莟の花の血を染めて、
人の世に入る門の戸に、
怨恨のあとをしるさざれ。
胸のいたみに堪へやらず、
足音低く歩みきて、
獨りひめつる君が名を
干潟に深く書きて見る。
ああこの文字の永劫に
消えじとあらばわが戀の
足らましを、若し夕潮の
頭もたげて寄せもせば。
歸れ戀人、くちびるは
胸のほのほに渇きたり、
君かへり來むその日まで、
また花びらに觸れもせじ。
夢かや、小野の木のかげに、
人しれずこそかき抱き、
戀のうまさに醉ひつれと、
そと囁きて笑みし日は。
戀する人に雄ごころと、
もの忘れとを與へずや。
いまの歎きに過ぎし日の
快樂おもふに忍びじよ。
おもへば悲し、君が手に
詩の清興を捨てしより、
名譽まれなる桂の葉、
つひに頭にまとひ得ず。
いままた君を失ひて、
戀の盃覆へる。
かくてわが世はものうかる
日日のねむりの續きのみ。
手負の鷲の巣にかへり、
翼を噛みて鳴く如く、
巖にすがりて伏ししづむ
人のありとは知るや、知らずや。
見よ、龍宮の反り橋か、
虹こそかかれ花やかに。
人まどふ世に何の榮ぞ、
二つに裂けて海に落ちよ。
ものみな絶えよ、空に星、
下に野の花、なかに戀、
三つの飾りと聞きつるを、
人の花まづ碎けたり。
殘るは惡と、憎しみと、
せせら笑ひと、僞りと、
涙と、石と、籾がらと、
をみなの好む小猫のみ。
潮の香櫂にけぶらせて、
舟漕ぎかへる鰹魚釣、
海幸いかに多くとも、
人待つ岸に繋がざれ。
をみなの白き柔肌の
底の淺きにくらべては、
花藻のうかぶ淵の上、
浪はありとも住みやすき。
われは隱れ家こぼたれて、
頼るよしなきひとり兒ぞ。
昔の夢の追懷の
いたらぬ方は、――死ならし。
ああ悲みの人の子に、
死は故郷の思あり。
ああ望なき人の子に、
死は垂乳女の姿あり。
胸もあらはに衣裂きて、
濃青の淵にのぞむとき、
母の腕による如き
安きおもひのなからずや。
ああうつくしき女子に、
永久にとけせぬ呪詛あれ。
男のひとりここにして、
若き生命をうしなひぬ。
ああうつくしく女子に、
永久にとけせぬ呪詛あれ、
男のひとりここにして、
清き心を葬りぬ。
かつては白き指觸れて、
愛の巣とこそ戲れし
身をさながらや、石の如
濃青の淵に投げなまし。
かつては腕やはらかに、
わが寶ぞと抱きける
身をさながらや、土の如
濃青の淵に沈めまし。
知んぬ、みめよき女子は、
いまはの人の恨みをも、
なほ縱琴の空鳴に、
空鳴にしも似つといふ。
見よ、王法の罪人が、
白き額をうつぶしに、
斷頭臺にしものぼる如、
立ちこそあがれ、巖の上に。
立ちこそあがれ、巖の上に、
涙は雨とあふれ來ぬ、
死を怖れめや、怖れずの
男ごころを愛しめばぞ。
男ごころよ、なが領に、
顏かがやきて胸冷えて、
御苑にたてる石彫の
女神に似つる子はなきや
その圓肩に手をかけて、
ほほゑみをしも待たまくば、
寧ろや海の牡蠣が身の
巖根の夢を羨まむ。
黒潮よどむ海の底、
戀も、詩歌も、才も、名も、
根なき藻草の一枝に、
花を飾るに足らざらむ。
ああ海、――鰐のすむところ、
海豚の列のすむところ、
わかき命は一片の
蘆の葉をだに價ひせじ。
海士もし知らばいかならむ、
すなどりすべく來つる朝、
網に死屍を引き揚げて、
臂もわななく物怖れ。
幸と糧との家として、
日毎なじめるわだつみに、
身を沈めつる人ありと、
世の運命をし思ふにも。
さもあらばあれ、虹の環の
消ゆるが如く、死の邦に、
潮の底に、故郷に
吾は歸らめ、――さらば、さらば。
火の氣も絶えし廚に、
古き甕は碎けたり。
人のかこつ肌寒を
甕の身にも感ずるや。
古き甕は碎けたり、
また顏圓き童女の
白き腕に卷かれて、
行かめや、森の泉に。
くだけ散れる片われに、
窓より落つる光の
靜かに這ふを眺めて、
獨り思ひに耽りぬ。
渇く日誰か汝を
花の園にも交へめや。
くちびる燃ゆる折々、
掬みしは吾が生命なり。
清きものの脆かるは、
いにしへ人に聞きにき。
汝はた清かりき、
古き甕は碎けたり。
ああ土よりいでし人、
清き路を踏みし人、
そらの上を慕ふ人、
運命甕に似ざるや。
古き甕は碎けたり、
壞片を手に拾ひて、
心憂ひにえ堪へず、
暮れゆく日をも忘れぬ。
民集ひて花鎭め、
春安かれと祈る日、
なぎつる白晝に青き海の
遠く鳴るを聞く如く、
あるは惱みの眞夜中、
望みの光りを得つる如く、
今かすかに、朗らに
み空に鳴けるは何の鳥ぞ。
あな來たりやほととぎす、
遠く、遠く、また遠く、
心をいざなふその音色は、
花ぞちらふ夕暮、
車駕はする佐保姫の
はかなき別れに恨み長う
血に鳴く鳥の身ならで、
いづれの胸より聞かれ得べき。
こかげいづる鶯を、
春の愛子にたとへば、
汝は寵なき鄙の少女、
行方の西を慕ひて、
薄月させる野の空、
はてなき天路を走り去りぬ。
ああ峠の幾つ越えて、
いましが願ひは癒えぬべしや。
悲しき哉、春の國、
移りゆく慌ただしさ、
みよ、青葉させる夏のうてな、
權威餘りにさかんに、
快樂夢と過ぎ去りぬ。
知らじや追懷おこるごとに、
悲みいよよ新たに
なが歌ますます清しからめ。
野邊の若樹の葉がくれ、
根白葦の笛吹きて、
みぎはの羊を呼ばふ子等も、
なが音夕に聞きては、
靜かなる世もみだれて、
そことしもなく歎きやせめ。
さてしも何の罪ぞや、
悲哀は一の誇りなれば。
快樂、希望、平和の
よき名弄ずる詩人よ、
なが卷あまりに貧しかりや、
われ疑ひのひとり兒、
和魂つとに煩らひ、
却りて落ち來る鳥の聲に、
言ひも知らぬ祕密と、
歌よりも深きこころ聞きぬ。
あな往きたりやほととぎす、
なが音再び流れず。
想像の遠く馳するところ、
靈鳥とはに死なめや。
寂しいかな空の上、
野こえ、山こえ、牧場こえて、
さらば、さらば、さらば鳥、
いましの行方へ魂魄まどふ。
童子に問へば石工は
木かげに夢を結びぬと。
入りて小闇き仕事場に、
刻みさしつる唐獅子の
圓き頸をかきなでて、
誰ぞ、もの思ふは、ひそやかに。
朽木の棚にすゑられて、
顏くすぼるるあら彫の
豕、狗兒、野の狐、
さては雄鹿のむらがりに、
こはめざましき誇りかな、
日かげにぬるる獅子の影。
裂けつる岩に爪かけて、
雄々し、憤るかその姿、
鬣ながく背にまきて、
見れば湧きよる春の潮。
胸はゆたかに、力男が
曳きしぼりたる弓の如。
忿怒現ずる明王の
ひろき肩より燃えあがる
焔か、ながき尾は躍り、
にこ毛密なる蹠は、
いざよひ薔薇の花ふむも
巣くへる鳥はめざめまじ。
心がまへのいみじさや、
瞳子彫られぬ唐獅子は、
光りを知らぬ盲目の身、
鼻かぐはしき香を嗅ぐも、
いまだ前脚ふみあげて、
花野の路はしだかじな。
鑿の手またく捨てられて、
御苑の夏のあけぼのや、
緑したたる木のかげに、
巨人の如く立たんとき、
雄姿いかに、背に伏して
しばし想像にふけらまし。
汝の王者かたどられ、
眞白き石に刻まれぬ。
野より、山より、林より、
つどへよ獸、列なりて
蹄の前にひざまづき、
弱きを恥ぢて僕たれ。
おほき靈魂くだりきて、
眞白き石に包まれぬ。
野より、山より、林より、
つどへよ獸、列なりて
その光輝にぬれぬべく、
蹄の前にひれふせよ。
無上の權威あらはれて、
眞白き石に具せられぬ。
野より、山より、林より、
つどへよ獸、列なりて
王にささぐる蟠祭の
聖き火盤をととのへよ。
斑の牛と羚羊は、
ふかき痛手に甘んじて、
ほのほの中に身を投げよ。
誇るべきかな、犧牲の
高きほまれは汝にあり、
羨む群ぞ愚かなる。
見よ犧牲はそなはりぬ、
獅子は額にたて髮の
ながき流れをふるはせて、
あな起ちあがる、「戰鬪と
勝と力の權化なり、
伏せよ、」と呼べば皆伏しぬ。
さかんなるかな、その言葉、
「神は死ぬめり永久に、
人は魔のごと強からず、
われは王者ぞ、萬有の
値の源ぞ、煩ひと
悶えの胸の主人なり。
ああ運命の眩きをも、
眼ひらきてながめ入り、
胸わななかぬ雄心の
若き勇氣に溢れたる、
勝利のおもひに漲れる
この身この世に何の死ぞ。
絶ゆることなき永遠よ、
われは汝の伴なり」と、
聲は喇叭の音に似たり。
時に默止はやぶられて、
たかき讚美と服從は、
雷のどよみに現はれぬ。
いま想像の羽たゆむ。
見れば唐獅子日を浴びて、
ふくよかにまた靜かなる
すがたいかなる誇りぞや。
石彫ながく傳はりて、
榮とならんは幾千歳、
ああ藝術は支配せよ
とはの生命ぞ汝にあり。
ああ日は彼方、伊太利の
七つの丘の古跡や、
圓き柱に照りはえて。
石床しろき囘廊の
きざはし狹に居ぐらせる
青地襤褸の乞食らが、
月を經て來む降誕祭、
市の施物を夢みつつ
ほくそ笑する顏や射む。
ああ日は彼方、北海の
波の穗がしら爪じろに、
ぬすみに獵る蜑が子の
氷雨もよひの日こそ來れ、
幸は足りぬ、と直むきに
南へかへる舟よそひ、
破れし帆脚や照すらむ。
ここには久米の皿山の
巓ごしにさす影を、
肩にまとへる銀杏の樹、
向脛ふとく高らかに、
青きみ空にそそりたる、
見れば鎧へる神の子の
陣に立てるに似たりけり。
ここ美作の高原や、
國のさかひの那義山の
谿にこもれる初嵐、
ひと日高みの朝戸出に、
遠く銀杏のかげを見て、
あな誇りかの物めきや、
わが手力は知らじかと、
軍もよひの角笛を、
木木に空門に吹きどよめ、
家の子あまた集へ來て、
黒尾峠の懸路より
風下小野のならび田に、
穗波なびきてさやぐまで、
勢あらく攻めよれば、
あなや大樹のやなぐひの
黄金の矢束鳴だかに、
諸肩つよく搖ぎつつ、
賤しきものの逆らひに、
滅びはつべき吾が世かと、
あざけり笑ふどよもしや、
矢種皆がらかたむけて、
射繼早なるおろし矢に
射ずくめられし北風は、
またも新手をさきがけに
雄詰たかく手突矢の
鏃ひかめく圍みうち。
頃は小春の眞晝すぎ、
因幡ざかひを立ちいでて、
晴れ渡りたる大空を
南の吉備へはしる雲、
白き額をうつぶしに、
下なる邦のあらそひの
なじかはさのみ忙しきと、
心うれひに堪へずして、
顧みがちに急ぐらむ。
黄泉の洞なる戀人に
生命の水を掬ばむと、
七つの關の路守に、
冠と衣を奪はれて、
「あらと」の邦におりゆきし
生身素肌の神の如、
ああ爭ひの七八日、
銀杏は征矢を射つくして、
雄々しや空手眞裸に、
ほまれの創の諸肩を、
さむき入日にいろどりて、
み冬の領にまたがりぬ。
ああ名と戀と歡樂と、
夢のもろきにまがふ世に、
いかに雄々しき實在の
眩きばかりの證明ぞや。
夏とことはに絶ゆるなく
青きを枝にかへすとも、
冬とことはに盡くるなく
つねにその葉を震ひ去り、
さては八千歳靈木の
背の創は癒えずして、
戰ひとはに新らしく、
はた勇ましく繰りかへる。
銀杏よ、汝常磐樹の
神のめぐみの緑葉を、
霜に誇るにくらべては、
いかに自然の健兒ぞや。
われら願はく狗兒の
乳のしたたりに媚ぶる如、
心よわくも平和の
小さき名をば呼ばざらむ。
絶ゆる隙なきたたかひに、
馴れし心の驕りこそ、
ながき吾世のながらへの
榮ぞ、價値ぞ、幸福ぞ。
公孫樹よ、汝のかげに來て、
何かも知らぬ睦魂の
よろこび胸に溢るるに、
許せよ、幹をかき抱き、
長き千代にも更へがたの
刹那の醉にあくがれむ。
きさらぎ寒のゆふべや、
牧のうなゐも通はね、
眺めよ、寂しき末黒小野に、
ささら河門水かれて、
濕ひ足らぬ荒びや、
艮風のかざ吹、羽むけ強に、
根白たか萱うら葉の
いたづらさやぎにささと鳴りぬ。
かなた天路のはづれに、
白衣の靡きゆららに、
今宵し六日のかたわれ月、
(さはあえかなる病女の
夕眺めするなよびや、)
さ青のまなじり伏目がちに。
吾世すがれの悲み、――
吐息もするやと惑はしむる。
あなせつなさの今宵や、
野もせに靡くさびれの
身に沁み入りては心弱に、
別れし人のおもかげ、
くづをれ泣きし身樣の
それさへ正目にながめられて、
思ひ出いたき昔日の
歎きよ、ふたたび浮び來ぬる。
わが魂の住家は、
大み慈悲の胸なれば、
人の世み冬の今をさむみ、
旅路の小草しをれて、
眺めよ、さのみ荒るるも。
なじかは行方を咀ふべしや、
その御力にひかれて、
吾世を高みの春へこそは。
そこには救世の御佛、
阿摩の如くよりそひて、
おほ慈悲垂乳のいく藥に、
咽の渇きをうるほし、
ま玉なせる掌に、
生身の肌をいたはりつつ
血汐に染める深手を、
癒えよと和らになだめ給ふ
そこしも不壞の新世、
清きものは甦り、
優女も法衣のすがた花に、
菩提樹かづらかざして、
あな和魂の片身やと、
胸乳のふくらみ

眞白手しかと擁きて、
さこそは注がめ嬉しなみだ。
仇し世空華のながめに、
路惑しを据うるも、
あくがれ心の踴躍いかに
その誘ひに落ちめや。
遠里小野の野越に、
鳩の子古巣にかへるごとく、
わが魂の伸羽こそ、
いづくをゆくへと辨へ知れ。
この末黒野のゆふぐれ、
二月寒のさびれに、
よろづの實母おほみ慈悲の
ふところ深く隱れて、
やがても往かむ彼方の
常春あけぼの望み得るぞ、
吾世の祕密、――憂身の
光や、日も夜も醉ひてあらめ。
吾が凭る小野の野づかさ、
麓つづきの茅原に、
夕ぐれ五月の闇をふかみ、
眞夏の女神筒姫、
獨りずまひのなぐさや、
夜殿の香爐のかをり高に、
野薔薇空にくゆりて、
まよはし深きも所がらや。
こなた右手なる側、
圓葉柳のしげみに、
夏野の色鳥ねぐらさすや、
夢かの心地こそろと
忍び羽振のささめき、――
響きよさながら消ぬる程に、
深まりわたる靜けさ、
天路の足音も聞きや得まし。
この五月野の夕ぐれ、
人醉はしめの眺めに、
夜頃は踴躍の心地しつれ、
今宵はいかに思ひの
うら寂しさに堪へじか、――
そは、わが道びき、大み慈悲の
光よ、とみに隱れて、
さてこそ弱げさ忍びぬれば。
ああ光明の御姿、
夢まぼろしと消ぬる日。
わが世は空洞の實なし小貝、
一味の海のひたりも、
縁はあらぬなづさひ、――
時劫の濱邊にひとり立ちて
身にしも逼る海路の
さびしき廣みに心いたむ。
眞玉花瓶手もろに
轉びがちなるならひや、
あくがれ心の扉ふかく、
齋きまつりし操の
歸依しも未だ足らじや、
わが道伴なき世にしあれば、
うき身夜な夜な御影に、
注ぎし涙は知ろしめさめ。
くづをれ、――さては自ら
ほしいままなる願ひに、
ただよひ心地の束のひまを、
沈默よ、胸のふかみに、
今しも低きささやき、――
月白ほのかに匂ひわたる
この夕暮の刹那や、
あるひは吾世のすがたならぬ。
宵闇やをら離れて、
星まだらなる高みに、
きよらの月映照の色や、
眞夏の女神筒姫、
大殿ごもる野づらに、
白がね被衣の靡きゆらに、
匂ひ香空にながれて、
夢の氣ここにも浮び來つれ。
わが魂にくゆりし
大御光のしたたり、
今はた點火のかすかながら、
なほ人の世の旅ゆき、
くらやみ路のたづきや
内なる火照にぬくめられて、
いつかは炎さかりに、
燃えこそあがらめ靈の烽火。
その日よ光あふれて、
生身さながら法の身、
み空の立樂やがてここに、
心の絃の高鳴、
生命はつよく躍りて、
春海の滿潮きほひ荒く、
いたるや不壞の新代、
解脱の常宮、――歌の御園。
わが世祕密の許され、
その日の幸をいさみに、
こよひは野中にひざまづきて、
夢見心地のあくがれ、
御影にいつく比丘尼の
操にたらへる心ばへに、
胸なる龕のあかりや、
守りて靜かに小夜は經まし。
流ゆるき枝河の
根やはら小菅かすれて、
靡葉そよろとさやぐ夕、
眉根しろき罔象の女、
蠱の衣ぬぎ捨に、
童氣すがたに傚ふほとり、
見ずやかなた翡翠の
樹蔭にかくるる征矢の形を。
美しきものは常久に、
可惜身なりや、翡翠の
かいまみ許さぬ花のすがた。
照斑あをき冠毛や、
瑠璃色背にながれて、
さながら水曲の水脈にまがひ、
はた長嘴の爪紅は、
零露を啜るにふさひたりな。
葉分の光はだらに、
白き菱の花さして、
樹暗もあからむ眞夏日なか、
水馬うかべる水隱れ、
藻伏小鮒とらへ來て、
朱脛やすらふ柳瑞枝、
したり顏の若音には、
葉守の神さへ醉に入らむ。
蜻蛉田づらに疲れて、
眞菰うら葉にやすらひ、
鼠尾草、鷺草露にぬれて、
匂ひ香しめる水際の
繁みがくれの巣ごもり、
夕月さし入る靜夜には、
夢こそかよへ、御親の
自然の胸なるふかき夢に。
そよやむかし乙姫が
ほまれの氏を厭ひて、
尼そぎ艶なる御寺ごもり、
御燈ささぐる夜な夜な、
物忌守りし和魂の
化生か、翡翠人氣見ては、
知らず顏の面もちに、
など然は素氣なく暗に去るや。
高音さへづる雲雀の
天飛ぶ風も戀ひねば、
巣造りさかしき巧み鳥の
里居なづむも傚はず、
寂しいかな川隈の
繁みがなかをば往きかへりて、
噤みがちなる慣ひや、
胸には無量の祕密あらむ。
祕密よ、いかに清らに、
はた尊かる寶や、
水の面に落ちなば花とひらき、
染みて水銹も薫らめど、
散る日げにや惜しからむ。
されば包むに和毛まろう、
聖き龕と胸縫ひて、
まもるに靈ある翼そへぬ。
夜は長かりき、「くらやみの
黒き幕はたぐられぬ、
時こそ來れ、めざめよ。」と、
嗄聲たかきどよもしに、
千歳の夢はやぶられて、
身は寢くたれの長姿、
大童なる額にして、
あかつき空にめざむれば、
あなや身側に吹きよせて、
息まき荒き羽ばたきに、
木立をふるひ、草を薙ぎ、
空門とどろに岩を搖る
天の荒し男志奈都彦、
「今こそ覺むれ、山脈の
八百の群より撰られたる
大山祇よ、とことはに
榮を。」とばかり呼びすてて、
さながら逸し背撓馬、
肌背たゆらに躍らせて、
南をさして飛び去りぬ。
薔薇色ごろも靡けたる
朝の童女はなやかに、
曙の戸をひきはづし、
天の榮をかたむけて、
注ぐや黄金、しろ金の
照の亂れをもろ肩に、
やをら國見の目蔭して、
遠方の空を眺むれば、
天そそり立つ大峰や、
また峰中の山ぞひに、
風は疾渡り駈けめぐり、
玉置山のかなたより
さと身隱れて眞下りに
吹きおろすらむ熊野浦。
浪の音ゆるき朝なぎに、
眞帆眞廣げにひき張りて、
鳥羽路へわたる舟人は、
山いただきの空みだれ、
雲のちぎれを見やるにも、
「上帆をあげよ、山颪
吹きこそ來れ。」と高らかに
板子に立ちて騷ぐらむ。
東、鷹鞭、高見山、
北は葛城、生駒らの
右左なる山なみは、
いつを日待の名こそあれ、
夜中ごこちの事よげさ、
夢ふかげなるこの朝け、
誰ぞや麓にけはひして、
直走りする沓の音。
そや、み吉野の水ならぬ
誰が子目敏きふるまひぞ。
ああ高天の大み蔭、
笑聲どよむ天人の
美き歡喜のしたたりが、
夜な夜な峰に雨ふりて、
岩根けはしき谿間より、
落ちつどひてや、白金の
眞澄の色の吉野川、
汝も時世の先達の
つとめを分つ友となれ。
あな額白きわが友が、
ひた走り入る湊江よ、
朝潮はやく打よせて
浪の音どよむ紀伊の海。
思ひ出れば天地の
ふた別れせし當時や、
長すぐれたる山祇の
心驕りに睦まじと、
龍の宮女を携えて、
青うな原におりゆきし
大海神よ、とことはに
座あらそひの企みに、
胸のゆらぎの隙をなみ、
糟尾たけ髮蘆の花、
風のあらびにそそけては、
さすがに老の見えもすれ、
胸乳いままた張高に、
肩をあげては憤り、
また面構へくづをれて、
高笑する若やぎや、
なほ新代の一の座の
生挑には堪ふべけれ。
わが踝の近ほとり、
やまと國原ところ狹に、
世を營める人やから、――
時のあらびの高浪に、
法も、掛想も、學藝も、
皆がら龕をこぼたれて、
よるべ無き身の今ながら、
ひと夜高根の風越に、
巣を失ひし鳶の鳥、
朝羽たゆげに幾度か、
古枝の空をゆきかへり、
はては峰越に遠山の
山ふところに飛び去りて、
また鳥塒ゆふ雄心の
えは頽ほれぬ勢や、
襤褸素脚の樣にして、
荒野の路にかけめぐり、
胸座はたと敲きつつ、
「美しきもの甦へれ、
汝が世ふさへる高座の
礎ここにおかれぬ。」と、
空どよもしの聲ひびき、
げにいぢらしき人の子の
猛く尊きすがたかな。
この曙にめざめたる
吾世の幸のたぐひなさ、
八千歳ながき來し方の
古裝束を脱ぎすべし、
智慧と力に足らひたる
生命を繼がむ日よ、――この日、
法起菩薩と明王は、
頽廢堂をたちいでて、
木原した路眞くだりに、
麓の小野へ駈けおりて、
川邊づたひに磯濱の
波打際に去れよ、また
一言主は唯ひとり、
乾跡も見えぬ山峽の
懸路の亂れ、藤かづら、
躓きがちに行きすぎて、
朝暗ながき葛城の
古屋の洞にかへりゆけ。
われは明けぬる二の國の
光の海に身はぬれて、
天の柱とそそり立ち、
行きまどふらむ子の爲に、
朝日子高くさし示し、
人よ、かなたに、新代の
不壞の輝き、――無量光、
玉の顏ばせ現はれぬ
汝が乘物の轅をば
そこにと許り教へばや。
ひねもす空の八衢に、
すべる車の煌の輪の
清きどよみを聞きながら、
吹息する夜は神祕の氣、
虹のごとくに花やぎて、
展くや、ここに大天の
さかえ溢るる藐姑の山、
高き清きにあくがれて、
「いであ」の國に遊ぶ子ぞ、
正目にかかる常世べの
かかる奇靈も仰ぎえて、
生身さながら白金の
御座にすがる醉あらむ。
ああわが丈よ五千尺、
脚は下なる野を踏みて、
頭は高く雲に入る、――
そのかみ闇のとろろぎの
二に別れたる初めより、
山と聳ゆる大悦を、
自然よ、君に捧ぐると、
今歳この春若やぎて、
どよみわたりぬ、金剛山。
春の夜はしづかに更けぬ、
はゆま路の並木のけぶり、
箱馬車は轍をどりて、
宮津より由良へ急ぎぬ。
朧夜の窓のあかりに、
京むすめ、難波商人、
朽尼や、切戸まうでや、
人の世の旅の道づれ。
物がたり吹

眠り目のとろむとすれば、
誰が子にか、後のかたに
をりからの追分ぶしや。
清らなる聲ひとしきり、
谿あひのささら水なみ、
咽び音に響きわたれば、
乘合はなみだこぼれぬ。
月落ちて闇の夜ぶかに、
箱馬車は由良へとどきぬ。
客人は車をおりて、
西東みちに別れぬ。
その後やいく春經けむ、
おほ方は夢にうつつに、
忍びてはえこそ忘れね、
由良の夜の追わけ上手。
その子今何處にあらむ、
思ひ出の清きかたみや、
人々のこころに生きて、
とことはに姿ぞわかき。
夕ぐれの小霧のまぎれ、
やま鳥はけはひ靜かに
野がへりの翼おろしぬ、
やまの井の井手の禿木。
水の面のますみの色に、
やま鳥のをろの鏡や、
くづをれし女の胸に、
そのかみの夢のただよひ。
眞廣げの退羽たゆげに
やま鳥は森にかくれぬ。
夢ざめしうつつの心地、
山の井のふかき吐息や。
夜の幕ゆららに落つる
夕闇の釀みのふかみに、
山の井は斧の柄のくつ
束の間を初めて知んぬ。
新嘗まつりほどちかき
霜ふり月の朝まだき、
乾反葉しらむ籬根に
骸こそ見つれ

もとより闇の私生兒の
窖に隱れてあるべきを、
新墾小路うがちきて、
見しは光か、やがて死か。
今はの一目くらやみの
八百日を夢になぞへしや、
さても瞬き、――大慈悲の
龕の御かげを見隱しに。
げにや死こそは波羅蜜の
岸の夜あけの初びかり、
ひかりなればぞ闇住の
身にしも望み、――はた恐れ。
こもり沼の水銹の面に、
澤瀉のひと花ぐきや、
夏の日の光にぬれて、
息ざしのけはひ深げに。
ももとせの生命の釀し、
葉とひらき、花とくゆりて
ひと夏のこころ驕りや、
こもり沼の上なだら水。
やはら風そよろの渡り、
葉はゆれぬ、花はこぼれぬ、
沼姫のほくそゑまひか、
ささら波輪形の皺み。
今しこそ胸のとろ火の
もも絡み靜かに解けめ、
使ひ女の老女しろ鷺、
眠り目の夢見すがたや。
ありや、かの歸依の和魂、
あくがれの心のふかみ、
かかる日のふと現はれて、
束のまを、――また身隱るる。
こよひ花野の夕づくよ、
君待ちくらす心地して、
月映あかり面はゆき
すずろ心の胸のときめき。
三歳は過ぎぬ、また更に
誰が子か待ため、當時の
夢ほのかなる甦り、――
はな殼すみれ香に匂ふ世や。
君は都のさかしら女、
磯まの小屋のおとづれに、
蜑が言葉のつたなきを、
いかなればとや問ひ給ふ。
身は海松刈る潛き女の
浪路のそこに沈み入り、
眞珠、珊瑚の玉しける
龍の宮居に目馴るれば、
海の祕密を洩すやと、
おほ海神のうたがひに、
をんなの才を奪はれて、
さは愚かしくなりはてぬ。
雪消の岡のせせらぎや、
流れ流れてゆくすゑは、
蓴菜つのぐむ大澤へ。
思ひ亂るる人の子は、
紫野ゆき、萌野ゆき、
紅梅咲ける君が戸へ。
ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備の森の小路を、
あかつき露に髮ぬれて、往きこそかよへ、
斑鳩へ。平群のおほ野高草の
黄金の海とゆらゆる日、
塵居の窓のうは白み日ざしの淡に、
いにし代の珍の御經の黄金文字、
百濟緒琴に、齋ひ瓮に、彩畫の壁に
見ぞ恍くる柱がくれのたたずまひ。
常花かざす藝の宮、齋殿深く
焚きくゆる香ぞ、さながらの八鹽折
美酒の甕のまよはしに、
さこそは醉はめ。
新墾路の切畑に、
赤ら橘葉がくれにほのめく日なか、
そことも知らぬ靜歌の美し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲の
あり樹の枝に矮人の樂人めきし
戲ればみを。尾羽身がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬に、木の間に、――これやまた野の法子兒の
化のものか、夕寺深く聲ぶりの
讀經や、――今か、靜こころ
そぞろありきの在り人の
魂にしも沁み入らめ。
日は木がくれて、諸とびら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭寒く、
そそ走りゆく乾反葉の
白膠木、榎、楝、名こそあれ、葉廣菩提樹、
道ゆきのさざめき、諳に聞きほくる
石

高塔や九輪の錆に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣の裾ながに地に曳きはへし
そのかみの學生めきし浮歩み、――
ああ大和にしあらましかば、
今日神無月日のゆふべ、
聖ごころの暫しをも、
知らましを身に。
あえかなる笑や、濃青の天つそら、
君が眼ざしの日のぬるみ、
寂しき胸の末枯野につと明らめば、
ありし世の日ぞ散りしきし落葉樹は、
また若やぎの新青葉枝に芽ぐみて、
歡喜の、はた悲愁のかげひなた、
戲るる木間のした路に、美し涙の
雨滴り、けはひ靜かにしたたりつ、
蹠やはき「妖惑」の風おとなへば、
ここかしこ「追懷」の花淡じろく、
ほのめきゆらぎ、「囁き」の色は唐棣に、
「接吻」のうまし香は霧の如
くゆり靡きて、夢幻の春あたたかに、
醉ごこちあくがれまどふ束の間を、
あなうら悲し、優まみの日ざしは頓に
日曇り、「現し心」の風あれて、
花はしをれぬ、蘖えし青葉は落ちぬ、
立枯の木しげき路よ、ありし世の
事榮の日ははららかにそそ走りゆき、
鷺脚の「歎き」ぞ、ひとり青びれし
溜息低にまよふのみ。――夢なりけらし、
ああ人妻、――
實にあえかなる優目見のもの果なさは、
日直りの和ぎむと見れば、やがてまた
掻きくらしゆく冬の日の空合なりき。
わがゆくかたは、月明りさし入るなべに、
さはら木は腕だるげに伏し沈み、
赤目柏はしのび音に葉ぞ泣きそぼち、
石楠花は息づく深山、――「寂靜」と、
「沈默」のあぐむ森ならじ。
わがゆくかたは、野胡桃の實は笑みこぼれ、
黄金なす柑子は枝にたわわなる
新墾小野のあらき畑、草くだものの
釀酒は小甕にかをる――「休息」と、
「うまし宴會」の場ならじ。
わがゆくかたは、末枯の葦の葉ごしに、
爛眼の入日の日ざしひたひたと
水錆の面にまたたくに見ぞ醉ひしれて、
姥鷺はさしぐむ水沼、――「歎かひ」と、
「追懷」のすむ郷ならじ。
わがゆくかたは、八百合の潮ざゐどよむ
遠つ海や、――ああ、朝發き、水脈曳の
神こそ立てれ、荒御魂、勇魚とる子が
日黒みの廣き肩して、いざ「慈悲」と、
「努力」の帆をと呼びたまふ。
うべこそ來しか、小林の
法子兒鶲、――
そのかみ(邦は風流男の代にかもあらめ、)
豐明節會の忌ごろも、童男のひとり、
日蔭かづらや曳きかへる木のした路に、
葉染の姫に見ぞ婚ひて生れにし汝、
黄櫨のうは葉はくれなゐに、
また榛樹の虚の實は根に落ち鳴りて、
常少女なる母宮の代としもなれば、
すずろありきや許されて、
さこそは獨り野木の枝に、
占問ひ顏にたたずみて、
初祖の人や待ちつらめ。
ひととせなりき、
春日の宮の使ひ姫秋ふた毛して、
竹柏の木の間をゆきかへる小春日和を、
都ほとりの秋篠や、
「香の清水」は水錆びてし古き御寺の
頽廢堂の奧ぶかに、
技藝天女の御像の天つ大御身、
玉としにほふおもざしに、
美し御國の常世邊ぞ
あくがれ入りし歸るさを、
ふとこそ、荒れし夕庭の朽木の枝に、
汝が靜歌を聞きすまし、
心あがりのわが絃に、
然は緒合せにゆらぐ音の歌ぬしこそは、
うべ睦魂の友としも、
おもひそめしか。
またひと歳は神無月、
日ぞ忍び音に時雨れつる深草小野の
柿の上枝に熟みのこる美し木醂、
入日に濡れて面はゆに紅らむゆふべ、
すずろ歩きの行くすがら、
竹の葉山の雨滴りはらめく路に、
汝を、ひとり黄鶲の
默の俯居をかいまみて、
ありし掛想のまれ人の
化か、雨じめる野にくゆる物のかをりに、
そのかみの夜や思ひいでて、
涙眼に鳥は歎くやと、
目ぞ留りにし。
ああ汝こそ、小林の
法子兒鶲、――人の世の往くさ來るさに、
ともすればまためぐり會ふ魂あへる子や、――
實にいささかの縁ながら、空華にはあらじ。
わが魂の小野にして、
「努力」の濕ひ、「思慧」の影おほし齋きて、
さて咲きぬべき珍の花、
そのうら若き莟みこそ、
さは龕の戸と噤みつれ、
まだき滴る言の葉の美しにほひは、
生命の火をも齋はふまで
香にほのめきぬ。
わが故郷は日の光蝉の小河にうはぬるみ、
在木の枝に色鳥の咏め聲する日ながさを、
物詣する都女の歩みものうき彼岸會や、
桂をとめは河しもに梁誇りする鮎汲みて、
小網の雫に清酒の香をか嗅ぐらむ春日なか、
櫂の音ゆるに漕ぎかへる山櫻會の若人が、
瑞木のかげの戀語り、壬生狂言のわざをぎが
技の手振の戲ばみに笑み廣ごりて興じ合ふ
かなたへ、君といざかへらまし。
わが故郷は、楠の樹の若葉仄かに香ににほひ、
葉びろ柏は手だゆげに風に搖ゆる初夏を、
葉洩りの日かげ散斑なる糺の杜の下路に、
葵かづらの冠して、近衞使の神まつり、
塗の轅の牛車ゆるかにすべる御生の日、
また水無月の祇園會や、日ぞ照り白む山鉾の
車きしめく廣小路、祭物見の人ごみに、
比枝の法師も、花賣も、打ち交りつつ頽れゆく
かなたへ、君といざかへらまし。
わが故郷は、赤楊の黄葉ひるがへる田中路、
稻搗をとめが靜歌に黄なる牛はかへりゆき、
日は今終の目移しを九輪の塔に見はるけて、
靜かに瞑る夕まぐれ、稍散り透きし落葉樹は、
さながら老いし葬式女の、懶げに被衣引延へて、
物歎かしきたたずまひ、樹間に仄めく夕月の
夢見ごこちの流盻や、鐘の響の青びれに、
札所めぐりの旅人は、すずろ家族や忍ぶらむ
かなたへ、君といざかへらまし。
わが故郷は、朝凍の眞葛が原に楓の葉、
そそ走りゆく霜月や、專修念佛の行者らが
都入りする御講凪ぎ、日は午さがり夕越の
路にまよひし旅心地、物わびしらの涙眼して、
下京あたり時雨するうら寂しげの日短かを、
道の者なる若人は、ものの香朽ちし經藏に、
塵居の御影、古渡りの御經の文字や愛しれて、
夕くれなゐの明らみに、黄金の岸も慕ふらむ
かなたへ、君といざかへらまし。
そのかみ山の一の日に、草木はなべて、
ああ金星草、
色ゆるされの事榮に笑みさかゆるを、
ああひとつば、
ひとり空手に山姫の宣をこそ待て、
ああひとつば。
春は馬醉木に蝦夷菫かざしぬ、花を。
ああひとつば、
裝ひ似ざるうれたさに、宮にまゐりて、
ああひとつば、
願へど、姫は事なしび、素知らぬけはひ、
ああひとつば。
夏は山百合、難波薔薇香にほのめきぬ
ああひとつば、
匂ひ香なきにうらびれて、一日は洞に
ああひとつば、
歎けど、姫は空耳に片笑みてのみ、
ああひとつば。
秋は茴香、えび蔓實ぞ色づきつ、
ああひとつば、
素腹の性を恨みわび、夜を泣き濡れて、
ああひとつば、
萎ゆれど、姫は目も空に往き過ぎましぬ
ああひとつば。
やがて葉は散り、實は朽ちぬ。冬木の山に
ああひとつば、
獨りし居れば、姫は來て「思ひかあたる
ああひとつば、
世は吾とわが知るにこそ、在りがひはあれ
ああひとつば。
姫は微笑み、「今日もはた、香をか羨む、
ああひとつば、
色をか、いかに。齋ひ子の斯くや、御賜。」と
ああひとつば、
その日よりこそ、黄金斑の紋葉とはなれ、
ああひとつば。
季は夏なか、
日ぞ眞晝、
日ざしは麥の
穗にしらみ、
野なかの路に
またたきて、
濁酒の如、
湧きたちぬ。
牧の小野には、
並木立
腕だるげに
葉を垂れつ。
青ぶくれなる
水錆沼は、
めまぐるしさに
息だえぬ。
雲のひとひら、
たよたよと


ありなしに
やがては消えつ。
濃青なる
空や、虚なる
墓ならし。
水の面の水澁
氣をぬるみ、
蠑

くぐり入り、
爐土の香に
息むせて、
蛇はひそみぬ、
葉がくれに。
なべての上に
高照す
つよき苛責や、
あな寂し、
悔なき魂の
けだかさは、
げに水無月の
日ならまし。
夏なかの榮えは過ぎぬ、
くたら野の隱れの古沼、
「靜寂」は翼を伸して
はぐくみぬ、水のおもてを。
鳰や、實に淨めの童女、
尼うへの一座なるらし。
なづさひの羽きよらかに、
水泥なす水澁に浮きつ。
水漬く葉の眞菰のみだれ、
伏葦の臂のひかがみ、
末枯や、――さてしも齋場、
おもむろに鳰は滑りぬ。
漁人の沓のおとにも、
鼻じろみ、面隱す兒の
振りかへり、かつ涙ぐみ、
水がくれにつとこそ沈め。
河骨の夏を夢みて、
ほくそ笑む水底の宮、
潛ぎ姫、「歸依」の掬むなる
常若の生命湛ひぬ。
見ず、暫時、――今はた浮きつ、
淨まはる聖ごころの
かひがひし、あな鳰の鳥、
ひねもすに齋きゆくなり
時はふたりをさきしかば
また償ひにかへりきて、
かなしき傷に、おもひでの
うまし涙を湧かしめぬ。
黄金覆盆子は葉がくれに
眼うるみて泣きぬれぬ。
青水無月の朝野にも
歎きはありや、わが如く。
幸も、希望も、やすらひも、
海のあなたに往き消えつ。
この世はあまりか廣くて、
をとめ心はありわびぬ。
朝踐む風のささやきに、
覆盆子のまみは耀きぬ。
神はをとめを路しばの
片葉とだにも見給はじ。
夏野の媛の手にとらす
しろがね籠、ももくさの
香には染むとも、追懷は
人のまみには似ざらまし。
伏目にたたすあえかさに、
ひと日は、白き難波薔薇
夕日がくれに息づきし
津の國の野を思ひいで。
ひと日は、うるむ月の夜に、
水漬く磯根の葦の葉を、
卯波たゆたにくちづけし
深日の浦をおもひいでぬ。
別れは、小野の白楊、
夕日がくれに落つる葉の
長息よ、繁にうらびれて、
さあれ、靜かに離れゆきぬ。
かたみの路の足惱みに、
思ひしをれて弛む日は、
美くしかりしそのかみの
事榮にしもなぐさまめ。
愛でのさかりに、何知らず、
この日もやがてありし世の
往きてかへらぬ追懷と、
消ゆらめとこそ思ひしか。
この夕ぐれの靜けさに、
魂はしのびに息づきて、
何とはなしにおもひでに
二つの花の香を嗅ぎぬ。
ひとつは、濕める梔子の
別れのゆふべ泣き濡れし
あえかの胸に、今もはた
「日」は殘らめとささやきつ。
ひとつは、薫ゆる野茨の
今は末枯れぬ、そこにして
また新しき「日」は芽ぐみ、
花もぞ咲くとつぶやきつ。
今日しも、卯月宵やみに、
十六夜薔薇香ににほふ。
なつかしきもの、胸の戸に、
黄金の文字の名ぞひとり。
神はをみなを召しまして、
いづくは知らず往にしかど、
大御心のふかければ、
殘る名のみは消しませね。
夕月さしぬ、野は凍みぬ、
日のいとなみに倦みはてて、
苅りし小草に倒れ伏し、
別れし人の身ぞおもふ。
さても、眞晝を玉敷の
御苑にたたす君なれば、
夜半にはかかるくたら野に、
すずろ歩きもし給ひぬ。
今朝あけぼのの浦にして
われこそ見つれ、面ほでり、
濃青の瞳子ひたひたの
み空と海の接吻を。
君や青空、われや海、
ああ醉心地、擁しめに
胸ぞわななく、さこそかの
か廣き海も顫ひしか。
人待つ宵を、日のかたみ、
大葉黄菫花さきぬ、
愛での盛りに言ひ知らず、
物さびしさの身にぞ沁む。
花とをみなの持てなやむ
悲びな來そ、天つ日の
ながながし齡に唯ひと日、
今日に醉ふなる身のふたり。
葉こそこぼるれ、夏なかの
青水無月のかげに見し
その日の夢はまづ覺めて、
今日はた汝、――ああ無花果。
昨日ぞ、夕に、あかつきに
露けかりつる身のふたり、
明日を、天なる大御手に
委ぬるも、はた、――ああ無花果。
とのゐやつれの雛星は、
まぶしたゆげにまたたきつ、
竹柏の老木は寢おびれて
夢さわがしく息づきぬ。
夜はもなか、
吾ひとり、
かすかに物のけはひして、
ささやく心地、さびしさの
香にほのめきて身にぞしむ。
夕浪倦みぬ、――さこそ吾。
眞白羽ゆらに飄へりし
鴎は水脈に、――さこそ、わが
魂よたゆたに漂へれ。
歎きぬ、葦はうら枯の
上葉たゆげに顫きて。
昨日はともに葦かびの
若き日をこそ歌ひしか。
あな火ぞ點る夕づつの
葦間にひたる影青に。
消ゆとは知れど、さこそ、われ
人のまみをば思ひづれ。
かかる夜なりき、白楊
うるみ色なる月かげに、
飽かず別れて立ちかへり、
抱きあひては歎きしが。
その夜は、やがて尼ごろも
魂ぞ着そめし日のはじめ、
齋きし「戀」のゆまはりは、
寂しかりきな人知れず。
天なる嚴の御苑にも
ありや、記念の白楊、
ひと夜は、かくや木がくれに
現身の世も見たまはめ。
いま月しろの上じらみ、
ほのかに動く宵の間を、
人待ちなれし眞籬根に、
難波薔薇ぞ香ににほふ。
待つにし來ます君ならば、
千代をもかくてあらましを、
忘れてのみは、いつの代も
めぐり會ふ日はなかるべし。
ひとの御胸にはなるとも、
「戀」はひとりぞ羽含まめ。
日のはじめより泣き濡れし
宿世は似たり花うばら。
忘れがたみよ、津の國の
遠里小野の白すみれ、
人待ちなれし木のもとに、
摘みしむかしの香ににほふ。
日は水の如往きしかど、
今はたひとり、そのかみの
心知りなるささやきに、
物思はする花をぐさ。
ふと聞きなれししろがねの
聲ざし柔きしのび音に、
別れのゆふべ、さしぐみし
あえかのまみを見浮べぬ。
葉こそこぼるれ、神無月
かかる日なりき、
黄櫨の木かげに俯居して、
戀がたりする人も見き。
葉こそこぼるれ、午さがり、
かかる日なりき、
かたみに人は擁きあひ、
接吻にこそ醉ひにしか。
葉こそこぼるれ、そのかみの
二人のひとり、
ふとありし日のまぼろしを
吾かのさまに見惚けぬる。
相見そめしは初夏の
空も夢みる御生の日、
冠にかけしもろかづら、
記念にこそは分ちしか。
後の逢瀬はいつはとて、
泣き濡れぬ日もなかりしを、
はては召されて天つ女の
空のあなたに往きましぬ。
いかに記念の葵ぐさ、
のこる桂は乾からびぬ
さこそ心も青枯れて、
「追懷」のみぞ香ににほふ。
乾びぬ、薔薇。あかねさす
花の若えはおとろへぬ。
今はのきざみ、ため息の
香こそ仄めけ、くちびるに。
愛でのまどひに何知らず、
面がはりせし人妻の
まみの窶れに消えのこる
日のなまめきを見浮べつ。
ふとまた聞きつ、榛樹の
縒葉こぼるる木がくれに、
人しれずこそ會ひし日の
忘れて久のささやきを。
かた岡に
日は照りぬ、
男木の枝に
鳥うたひ、
いさら水
笑みまけて
面はゆに
野こそ滑れ。
朝踏ます
風の裳に、
草かた葉
さゆらぎて、
しづれ散る
露や、げに
玉ゆらの
瓊音すらめ。
雲は、いま
しろたへの
羽を伸しぬ、
朝發き、
海原に
帆をあぐる
蜑舟の
心みえや。
ほのかなる
しろ裝ひ、
あな「朝」か、
童げに
かた笑みて
つと消えつ、
「日」はすでに
牧に立ちぬ。
夕凍の
小野や、――伏目に
さしぐみし
日はみまかりぬ。
左視右顧、
あな細雪、
常樂の
宮とめあぐみ、
ものうげの
旅や、はつはつ。
ここかしこ、
榛實の殼、
また乾反る
伏葉のみだれ、
小木の枝に
鵐竦みて、――
あな、ここは
悲びの邦、
鈍色の
住家ならまし。
ささやきつ、
また吐息しつ、
雪片の
歎きよ、――落ちて
葉に、石に
凭ひぬ、倦みぬ、
またたきて、
つとこそ消ぬれ、
いささかの
生命か、――濕ひ。
水うはぬるむ水無月の
夏かげくらき隱り沼に、
花こそひらけ、觀法の
日を睡蓮のかた笑ひ。
しろがね色の花蕚に、
一

蘂は、ひねもす薫習の
沼の氣に染みてたゆたひぬ。
たたなはる葉のひまびまに、
ほのめきゆらぐ未敷蓮の
ひとつびとつは後の日を
この日につなぐ願ならし。
夕となれば水がくれの
阿摩なる姫がふところに、
ひと日をやがて現想の
うまし眠りに隱ろひぬ。
沼にひとりなる法子兒の
翡翠ならで、くだちゆく
如法闇夜に睡蓮の
聖り世を誰がしのぶべき。
鈍なるみ空、鈍なる海、
ああ身ぞひとり、
入波ゆたにたゆたひて
ゆふべとなりぬ。
氷雨の海の海神は、
椰子の實熟るる
常夏かげの國戀ひて、
胸さわぐらし。
沖の遠鳴、潮の香、――
ああ醉ごこち、
いづくは知らず、靈魂の
故郷こひし。
わが世は知らぬかなたへと、
日に、また夜はに、
あくがれまどふ野心の
努力の羽搏。
「時」は頓死れて死にぬとも、
遂の日までは、
常若にしもあらまほし、
わだつみとわれ。
別れぬ、二人。魂合ひし身は、常世にも
離れじとこそ悶えしか、そも仇なりき。
落葉もかくぞ相舞に散りはゆけども、
分ちぬ、風は追わけに。さて見ず知らず。
矢の根を深み、傷手より聖りごころは
日に夜に絶えず沸き出でて流れぬ、神に。
青水無月の小林に、漆樹は、さこそ
木膚の目より美脂をしとど滴つれ。
葉は落ちぬ、
小野の榛の木、
灰いろの
影のただよひ
落穗ひろひ、――
かなしびは
たゆげに動く。
尋めあゆむ
『きのふ』の落穗、
ひろひしは
唯粃實のみ。
おちぼひろひ、――
とみかうみ
かつ涙ぐむ。
今日もはた
南へ、海を、
夢の鳥
かへりぬ、ひとつ。
おちぼひろひ、――
うらびれて
わが世は寂びぬ。
初冬の
日はわびしげに、
われとわが
世を傷ぶかに。
おちぼひろひ、――
見入りては
また涙ぐむ。
何知らず空はかなしび、
鈍いろのまぶしたるみて
しのび音に日ぞ泣きそぼつ。
朽ちばめるうつぼばしらに、
憂鬱の、あな父なし兒、
蛞蝓はふとむくめきぬ。
雨じめり落葉はふやき、
しめやかに土の香ひす。
そことなき物したはしさ。
雨だりの音びそびそと
樋はさぐり、樋はまた咽ぶ――
蛞蝓はなめりぬ、緩に。
寢はれつる身は水ぐみて、
病の如むくみぬ。産すは
冷かなるなほざりの夢。
灰色のあなたを針眼に
うかがひぬ、はた危ぶみぬ、
なめくぢのなま心わろ。
ありなしの暫にながらへ、
その間だに懶き身には、
おほ天もむなしき名のみ。
雨やみぬ。蛞蝓は、ふと
見ず。――ひとりうつぼ柱に
うつけたる歌の占象。
初夏は酒甕の如、
泡だちて日は釀されぬ。
青みどり小野の木立は、
醉ひしれてまどろむここち。
うらわかき苑の無花果、
驕樂の時のすさびに、
かなしびは胸にはらみて、
無祥兒の蠹を産みぬ。
じじと日は油照りして、
沈殿むのみ。野は氣おされて
惱む間も、あなきしきしと
木食蟲 樹の髓を食む。
無花果の樹はかなしげに、
をとめさび、――思ひくづほれ、
葉廣なる掌面もたげ、
なに知らず 乞ひ祈むけはひ。
諾否の空照りおもり、
唖蝉は氣づかはしげに
立ちすくむ日を、きしきしと
木食蟲 樹の髓を食む。
無花果の樹はくるしげに、
木膚には 食まれの簸屑
膿沸きぬ。將たたゆたひぬ、
わび歌の音ぞ青じろに。
ふと人の足音とまり、
つぶやきて また往き過ぎぬ。
午さがり、――きしきしとのみ、
木食蟲 樹の髓を食む。
無花果の葉は泣きしをれ、
青からび實は萎え落ちぬ。
蔕あとに生命は白み
しとしとと雫ぞ

木はなべて夢ざめぬ。日は
夕なり。あな無花果は、
こしかたの世を痛ぶかに、
見入りては默しぬ。やがて――
ももとせを刹那に釀みて、
占飮に醉ふかのさまに、
聞き笑みぬ、夜をきしきしと
木食蟲 樹の髓食むを。
更くる夜の厨のさむさ、
冷えとほる灰にもたれて
火吹だるま、
翁びしまみの煤ばみ、
かりそめの火をはぐくみぬ。
ほのかなるぬる火のぬくみ、
胸の脈ゆたにむくみて、
火吹だるま、
初立ちし生命の日かな、
面はゆに火屑を吹きぬ。
はしり火のつぶやく心地、
ひしひしと夢はこぼれぬ。
火吹だるま、
すずろなる心の踴躍、
つぼ口のふとほくそ笑み。
火移りの火は慕ひ合ひ、
たはれてはまた火を孕む。
火吹だるま、
面ほでり汗ばむけはひ、
喘ぎつつかつ息づきぬ。
われとわが火は火を燒きて、
火ぞ燃ゆる―生のあくがれ。
火吹だるま、
醉ひ伏しぬ、醉のたのしび、
さあれ、また刹那の痛び。
なべてみな死にゆく夜半を、
黄金なすほのほの宮に、
火吹だるま、
常若のわが世を夢み、
やがてまた氣長に倦みぬ。
夜は更けつ、沈默の闇に
凍みわるる

火吹だるま、
火は消えつ、灰にうもれて、
死骸のみか黒に冷えぬ。
夕づつは青にともりぬ、
くだり闇、闇のもなかに、
姥鷺は鳴く音たゆげに、
夕まよひ水沼におりぬ。
片びさし、草家のかくれ、
ほのかにも夕顏咲けり。
産土の祭は暮れぬ、
賤が家の厨には、いま
助枝窓ほのにあからび、
夕餐の宴ひらきそむらし。
興津姫せはしなの夜や、
夕顏は闇にしらみぬ。
戸は開きぬ、――つと片あかり、――
販ぎ女はかくれつ闇に。
ひしひしと跳火はしりて、
寄鍋の泡咲くけはひ。
なまぬるの風に搖えて、
夕顏の香はしめらひぬ。
戸は閉ぢぬ、――はた下り闇、

紫蘇醤、濁酒の氣に、
熱じめる家内は蒸しぬ。
夕づつの往ぬるを傷み、
夕顏のまみはうるみぬ。
窓につと火影うごきぬ。
厨には小皿のひびき、
弟むすめ、笑みのな白みに、
醉ごゑの濁もまじりぬ。
心安の日にはありきと、
夕顏は昨日を思ひぬ。
夕まよひ、六部のひとり、
足惱みて外面を過ぎつ。
闇は、いま盜食むさまに、
干割戸に爪だちよれり。
童女さび、つとうなだれて
夕顏はまた吐息しぬ。
薄あかり弱くあをちて、

童泣き、かつくぐもりて、
添乳する母も寢伸びぬ。
惡き日の占も知るかに、
夕顏はえこそ落ち居ね。
戸閾の鼠や、――さながら
うつ空の墓のしづけさ。
窓ぢかに偸立つ『禍』の
鷺脚のひびきも聞かめ。
音もなき蚋子のふめきに、
夕顏は呻吟びぬ、低に。
ほとほとと訪ふけはひ、――

ほくそ笑み、――娘のひとり
寢おびれてかつしづまりぬ。
わななきて瘧するかに、
夕顏はつとこそ萎め。
ほとほとと訪ふけはひ、――
童泣き、――母は寢ざめぬ。
ふと海の吾子をおもひて、
物怖に胸こそさわげ。
夕顏の花はくづれて、
香のみ殘りぬ、弱に。
夜は更けぬ、灯は青に涙ぐむ。――
病人ひとり――
火影はあをち消えゆきぬ。
ああくだり闇、
火屑のなげきも弱に――空室に
妖の夜しづむ。
盲目なる『闇』はしのびにうかがひぬ。
病人ひとり――
熱れしめらふ枕がみ、
まじの裳垂れぬ。
まどろみつ、はた魘されつ。――憑體の
ほほけしここち。
花瓶の陶の白磁の

見惱ふさまや、
たゆげに闇に息づきて、
ああ今もかも
罌粟の夢くづれぬ。――落ちて仄白に
香にこそにほへ。
『靜寂』のつぶやきか。あな、花びらの
かすけきひびき、
つと仄めきぬ、はた消えぬ。
『熟睡』を隔に、
常つ世にかよりかくよりあくがるる
わが世なりきな。
ほの見つる彼方よ、物のくらきかな。
病人の身は――
さあれ氣ぶかき『靜寂』の、――
罌粟はこぼれぬ、――
玉ゆらの吐息にしみし移り香は、
えこそ忘れね。
花ははたこぼれじ。――かくて『永劫』は
默しぬ、われに。
危篤ゆる今の束の間を
あな息ぐるし、
魂のさやに脈搏つすぐよかさ、
わが世贏ちにき。
八月の日ぞ照りしらむ
葉びろ柏の繁みより女の如き目ざしして、
かいまみ笑める青き空。――ああ、その青よ、ふるさとの
おほ海つみの浪の色。
今ぞ別れむ、戀人よ。汝が盃は甘かりき、
さあれ、わが世の踴躍をば今日こそ見つれ、わが魂は
喘ぎぬ、浪に。手なとりそ。ああ、幻よ、
八百潮の、日にまた夜はに胸さわぎ
滿ち張る――海へ、いざ歸らまし。
君は薔薇の花白き片山かげの紅顏少女、
われは檳榔の影ひたる南の海の船の長、
双の腕をとりかはし昨日か戀ひし。今日ははた
別れとなりぬ。夏初め、宵の月夜の逢曳に、
やがてさこそと歎きしか。
さもあらばあれ、われはまた夏野の鳥の日もすがら
木かげの花に脣ふるる色好みにはえも堪へじ。
ああ、また高き日ざかりの波の穗光り、潮合の
遠鳴る――海へ、いざ歸らまし。
束の間なりき。わが戀はげに夏の夜の夢なりき。
かへる彼方のわだつみの營みいかに繁くとも、
忍びかいでむ、君が名は。
ああ、『追懷』よ、來し方のながき砂路に殘るらむ
あえかの花のひと莖は、唯君のみの名なるべし。
それはた小野の朝じめり、薔薇の香ふ途ならず、
汐ざゐどよむ海境を海豚の列の見えがくる
大わだつみの彼方にて。ああ、空みたれ、船の帆の
はためく――海へ、いざ歸らまし。
知らじや、われはわだつみの船盜人の一の者、
船がかりする商人の珍の寶を奪りはすれ、
女の胸にひむるてふ祕密の摩尼は盜まじよ。
ああ、後の日も忘れずの肌のなまめき、目のうるみ‥‥
いな、わが戀は遠海の白藻の香ひ、浪の搖れ、
汐の八百路を漕ぎわくる櫂のきしめき。
くちびるの火のあまきかな。――かくて、われ
また緑野の花は見じ。――ああ、海神のたか笑ひ
どよむか――海へ、いざ歸らまし。
午過ぎぬ。日はわびしげに
四辻の巷にうるみ、
都路はもの疲れして
たゆげにも微睡むここち。
ゆくさ來さ、男女は
夢の野にすずろ往くかに
足ぶみの音もしめりて、
商人は亡き人の名を
想ひいで、はたなつかしみ、
俳優は見ぬ代の樣に
醉ひほれて見とるるここち、
物賣はしずかに噤み、
乞食女も忍びにあゆむ
午さがり。――日はわりなくも
靜心知らず亂れて
つむじ風ふと思ひたち、
そそめきてかしま立ちしぬ。
乾かわきし地は胸さわぎ
けばだちぬ。白楊の落葉
そそくさと先走りしぬ。
土ぼこり、垢膩はそそけて
螺形にすぢりぬ、舞ひぬ。
故知らず、はた何知らぬ
時めきの、さとこそ渦に
くるめきて爪立あがれ、
稈心の唄、葉のしら笑ひ。
ゆきかひの人あたふたと
物音のさわがしきかな。
俳優は走りぬ、――白き
蹠のなまめき。――たたと
ふためくや販ぎ女ふたり。
ふと夢に物おびえして
喘ぐかに經師が家の
招牌もこそ歎きぬ。――ひとり
さりげなき面持、つつと
往きすぐる若き唄ひ女、
あと叫び、つとこそとまれ、
ふくら脛肌しも斷れ、
踝はにじみぬ、朱に。
見ず知らぬ人の誰彼、
はしり寄るひとりは言ひぬ、
「かま鼬妖の使ひ女、
盜食みに生肌をこそ
噛みつれ」と。はた呟やけり、
「肌じろの踝なれば、
淫なる魔の係蹄にしも
落ちけめ」と。あな唄ひ女は、
血醉して顏青ざめぬ。
われならぬ不可思議の世に
見おどろき、さては見入りて、
柔肌のしろき心に、
蝮のもの執念さは、
この日より萌しぬ。風は
そそくさと横走りして、
末廣に街を西へ。――
落葉のみ、呪の古經の
文字の如、殘りぬ繁に。
廣小路――日は涙くむ……
乞食兒の胡弓のすさび、
すすり泣く音に………そことなし
燒栗のほのかのにほひ………
ゆくさくさ、人ふりかへり
『は』と笑ふ、……胡弓のなげき……
砂ぼこりふと蓬けだち、
跳火して栗は汗ばむ。
焦げくさき實はふすふすと
爆ぜわれぬ。……あなひだるさや、
販ぎ婦はつと鼻ひりて
面顰む。……胡弓のたゆみ……
錢は落つ。――あな胡弓彈き
ほくそ笑み、はたほこりかに
栗食みて、かつ物言ひぬ、
顳
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栗賣は聾なりき。
「これはもと擇捉島の荒海に」と
御國なまりの言葉濁「追ひとりまきし
膃肭臍、海なるぬし。」と瘠がみし
毛むくぢやらなる嬌笑つとこそよよめ。
七月の日は照り澱む路辻の
砂ぼこりする露店に「なう皆の衆、
北海の膃肭は、實に」と汗ばみし
たゆげの喘ぎ「生藥、一のやしなひ。」
路の邊の柳の葉なみ萎びれて、
歎かひしずむ蔭日向、――ああ海の主、
膩肉の膂肉は厭に灰じろみ、
黒血のにじみ垢づきて、かつ膿沸きぬ。
「これなるは流産の止め。」と喉の小舌
ひきつるけはひ、咳きて「あれなるは、また
おとろふる腎臟の藥、乾肉の
たけり。」と言ひて、北海のまぼろし夢む。
剔りくじるまだ見ぬ海の靈獸、
小さ刀の刄にぬるる妖のしたたり。
臠の生干の色のなまぐさに、
ふとしも聞きぬ、鹹ゆき潮ざゐの音を。
つぶやきて人はも去りぬ。つむじ風
つとこそ躍れ。ほほけ立つ埃まみれに
膩肉の熱ぼる腫み、――しかすがに
心はまどふ、仄ぐらき不安の怯え。
日ぞ正午。油照りする日のしづく
食滯るる底に、肉の蒸れ※[#「飮のへん+委」、U+9927、201-7]えゆく匂ひ、――
ひだるさに何とは知らず脂くさき
吹
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