この歌のひと卷を亡き父の
み靈の前にささぐ。
み靈の前にささぐ。
智慧の相者は我を見て今日し語らく、
汝が眉目ぞこは兆惡しく日曇る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風、襲はぬさきに遁れよと。
噫遁れよと、嫋やげる君がほとりを、
緑牧、草野の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の綰の波を、――
こを如何に君は聞き判きたまふらむ。
眼をし閉れば打續く沙のはてを
黄昏に頸垂れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸かととがめたまはめ、
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色の物憂き姿、――
よしさらば、香の渦輪、彩の嵐に。
薄曇りたる空の日や、日も柔らぎぬ、
木犀の若葉の蔭のかけ椅子に
靠れてあれば物なべておぼめきわたれ、
夢のうちの歌の調と暢びらかに。
獨かここに我はしも、ひとりか胸の
浪を趁ふ――常世の島の島が根に
翅やすめむ海の鳥、遠き潮路の
浪枕うつらうつらの我ならむ。
半ひらけるわが心、半閉ぢたる
眼を誘ひ、げに初夏の芍藥の、
薔薇の、罌粟の美し花舞ひてぞ過ぐる、
艶だちてしなゆる色の連彈に
たゆらに浮ぶ幻よ――蒸して匂へる
蘂の星、こは戀の花、吉祥の君。
時ぞともなく暗うなる生の、――
こはいかに、四方のさまもけすさまじ、
こはまた如何に我胸の罪の泉を
何ものか頸さしのべひた吸ひぬ。
善しと匂へる花瓣は徒に凋みて、
惡しき果は熟えて墜ちたりおのづから
わが掌底に、生温きその香をかげば
唇のいや堪ふまじき渇きかな。
聞け、物の音、――飛び過がふ蝗の羽音か、
むらむらと大沼の底を沸きのぼる
毒の水泡の水の面に彈く響か、
あるはまた疫のさやぎ、野の犬の
淫の宮に叫ぶにか、噫、仰ぎ見よ、
微かなる心の星や、靈の日の蝕。
淀み流れぬわが胸に憂ひ惱みの
浮藻こそひろごりわたれ黝ずみて、
いつもいぶせき黄昏の影をやどせる
池水に映るは暗き古宮か。
石の階頽れ落ち、水際に寂びぬ、
沈みたる快樂を誰かまた讃めむ、
かつてたどりし佳人の足の音の歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。
花の思ひをさながらの祷の言葉、
額づきし面わのかげの滅えがてに
この世ならざる縁こそ不思議のちから、
追憶の遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘の光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。
文目もわかぬ夜の室に濃き愁ひもて
釀みにたる酒にしあれば、唇に
そのささやきを日もすがら味ひ知りぬ、
わが君よ、絶間もあらぬ誄辭。
何の痛みか柔かきこの醉にしも
まさらむや、嘆き思ふは何なると
占問ひますな、夢の夢、君がみ苑に
ありもせば、こは蜉蝣のかげのかげ。
見おこせたまへ盞を、げに美はしき
おん眼こそ翅うるめる乙鳥、
透影にして浮び添ひ映り徹りぬ、
いみじさよ、濁れる酒も今はとて
輝き出づれ、うらうへに、靈の欲りする
蠱の露。――いざ諸共に乾してあらなむ。
咽び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗の帳しなめきかかげ、かがやかに、
或日は映る君が面、媚の野にさく
阿芙蓉の萎え嬌めけるその匂ひ。
魂をも蕩らす私語に誘はれつつも、
われはまた君を擁きて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、――君が腕に、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
また或宵は君見えず、生絹の衣の
衣ずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、
茉莉花の夜の一室の香のかげに
まじれる君が微笑はわが身の痍を
もとめ來て沁みて薫りぬ、貴にしみらに。
熟えて落ちたる果かと、噫見よ、空に
日は搖ぎ、濃くも腐れし光明は
喘ぎ黄ばみて灣の中に滴り、
波に溶け、波は咽びぬたゆたげに。
磯回のすゑの圓石はかくれてぞ吸ふ、
飽き足らひ耀き倦める夕潮を、
石の額は物うげの瑪瑙のおもひ、
かくてこそ暫時を深く照らしぬれ。
風にもあらず、浪の音、それにもあらで、
天地は一つ吐息のかげに滿ち、
沙の限り彩もなく暮れてゆくなり。
たづきなさ――わが魂は埋れぬ、
こゝに朽ちゆく夜の海の香をかぎて、
寂靜の黒き眞珠の夢を護らむ。
晝の思の織り出でし紋のひときれ、
歡樂の緯に、苦悶の經の絲、
縒れて亂るる條の色、あるは叫びぬ、
あるはまた醉ひ痴れてこそ眩めけ。
今、夜の膝、やすらひの燈の下に、
卷き返し、その織りざまをつくづくと
見れば朧に危げに、眠れる獸、
倦める鳥――物の象の異やうに。
裁ちて縫はさむかこの巾を、宴のをりの
身の飾、ふさはじそれも、終の日の
棺衣の料、それもはた物狂ほしや。
生にはあはれ死の衣、死にはよ生の
空の匂ひをとめて、現なく、
夢はゆらぎぬ、柔かき火影の波に。
寄せては返す浪もなく、ただ平らかに
和みたる海にも潮の滿干あり、
げにその如く騷だたぬ常の心を
朝夕に思は溢れ、また沈む。
黄みゆく木草の薫り淡々と
野の原に、將た水の面にただよひわたる
秋の日は、清げの尼のおこなひや、
懴悔の壇の香の爐に信の心の
香木の膸の膏をき燻ゆし、
きらびやかなる打敷は夢の解衣、
過ぎし日の被衣の遺物、――靜やかに
垂れて音なき繍の花、また襞ごとに、
ときめきし胸の名殘の波のかげ、
搖めきぬとぞ見るひまを聲は直泣く――
看經の、噫、秋の聲、歡樂と
悔と念珠と幻と、いづれをわかず、
ひとつらに長き恨の節細く、
雲の翳にあともなく滅えてはゆけど、
窮みなき輪廻の業のわづらひは
落葉の下に、草の根に、潜みも入るや、――
その夕、愁の雨は梵行の
亂れを痛みさめざめと繁にそそぎぬ。
ゆるやかにただ事もなく流れゆく
大河の水の薄濁り――邃き思ひを
夢みつつ塵に同じて惑はざる
智識のすがたこれなめり、鈍しや、われら
面澁る唖の羊の輩は
堤の上をとみかうみわづらひ歩く。
しかすがに聲なき聲の力足り、
眞晝かがよふ法を布く流を見れば、
經藏の螺鈿の凾の蓋をとり、
悲願の手もて智慧の日の影にひもどく
卷々の祕密の文字の飜れ散る、――
げに晴れ渡る空の下、河の面の
紺青に黄金の光燦めくよ、
かかる折こそ汚れたる身も世も薫れ、
時さらず、癡れがましさや、醜草の
毒になやみて眩き、あさり食みぬる
貪の心を悔いてうち喘ぎ、
深くも吸へる河水の柔かきかな、
母の乳、甘くふくめる悲みは
醉のここちにいつとなく沁み入りにけり。
源は遠き苦行の山を出で、
平等海にそそぎゆく久遠の姿、
たゆみなく、音なく移る流には
解けては結ぶ無我の渦、思議の外なる
深海の眞珠をさぐる船の帆ぞ
今照りわたる、――智なき身にもひらくる
心眼の華のしまらくかがやきて、
さてこそ沈め、靜かなる大河の胸に。
甕の水濁りて古し、
このゆふべ、覆へしぬる、
甕の水、
惜しげなき逸りごころに。
音鈍し、水はあへなく、
あざれたる溝に這ひ寄り、
音鈍し、
呟やける「夢」のくちばみ。
去ねよ、わが古きは去ねよ、
水甕の濁き底濁り、
去ねよ、わが――
噫、なべて澱めるおもひ。
耀きぬ雲の夕映、
いやはての甕の雫に、
耀きぬ、――
わがこころかくて驚く。
「戀」なりや、雫の珠は、
げに清し、ふるびぬにほひ、
「戀」なりや、
珠は、あな、闇きに沈む。
夜となりき、嘆くも果敢な、
空しかる甕を抱きて、
夜となりき、
あやなくもこころぞ渇く。
日射しの
緑ぞここちよき。
あやしや
並みたち樹蔭路。
よろこび
あふるる、それか、君、
彼方を、
虚空を夏の雲。
あかしや
枝さすひまびまを
まろがり
耀く雲の色。
君、われ、
二人が樹蔭路、
緑の
匂ひここちよき。
軟風
あふぎて、あかしやの
葉は皆
たゆげに飜り、
さゆらぐ
日影の朱の斑、
ふとこそ
みだるれわが思。
君はも
白帆の澪入りや、
わが身に
あだなる戀の杙。
軟風
あふぎて澪逸れぬ、
いづくへ
君ゆく、あな、うたて。
思ひに
みだるる時の間を
夏雲
重げに崩れぬる
緑か、
朱か、君、あかしやの
樹かげに
あやしき胸の汚染。
喘ぎて上るなだら坂――わが世の坂の中路や、
並樹の落葉熱き日に燒けて乾きて、時ならで
痛み衰へ、たゆらかに梢離れて散り敷きぬ。
落葉を見れば、片焦げてび赤らめるその面、
端に殘れる緑にも蟲づき病める瘡の痕、
黒斑歪みて慘ましく鮮明にこそ捺されたれ。
また折々は風の呼息、吹くとしもなく辻卷きて、
燒け爛れたる路の砂、惱の骸の葉とともに、
燃ゆる死滅の灰を揚ぐ、噫、わりなげの悲苦の遊戲。
一群毎に埃がち憩ふに堪へぬ惡草は
渇をとめぬ鹽海の水にも似たり。ひとむきに
心焦られて上りゆく路はなだらに盡きもせず。
夢の萎への逸樂は、今、貴人の車にぞ
搖られながらに眠りゆく、その車なる紋章は
倦じ眩めくわが眼にも由緒ありげなる謎の花。
身も魂も頽をれぬ、いでこのままに常闇の
餌食とならばなかなかに心安かるこの日かな、
惱盡きせぬなだら坂、路こそあらめ涯もなし。
人は今地に俯してためらひゆけり、
疎ましや、頸垂るる影を、軟風
掻撫づるひと吹に、桑の葉おもふ
蠶かと、人は皆頭もたげぬ。
何處より風は落つ、身も戰かれ、
我しらず面かへし空を仰げば、
常に飢ゑ、きがたき心の惱み、
物の慾、重たげにひきまとひぬる。
地は荒れて、見よ、ここに「饑饉」の足穗、
うつぶせる「人」を誰が利鎌の富と
世の秋に刈り入るる、噫、さもあれや、
畏るるはそれならで天のおとづれ。
たまさかに仰ぎ見る空の光の
樂の海、浮ぶ日の影のまばゆさ、
戰ける身はかくて信なき瞳
射ぬかれて、更にまた憧れまどふ。
何處へか吹きわたり去にける風ぞ、
人は皆いぶせくも面を伏せて、
盲ひたる魚かとぞ喘げる中を
安からぬわが思、思を食みぬ。
失ひし翼をば何處に得べき、
あくがるる甲斐もなきこの世のさだめ、
わが靈は痛ましき夢になぐさむ、
わが靈は、あな、朽つる肉の香に。
現こそ白けたれ、香油の
艶も失せ、物なべて呆けて立てば、
夢映すわが心、鏡に似てし
性さへも、痴けたる空虚に病みぬ。
在るがまま、便きなき、在るを忍びて、
文もなし、曲もなし、唯あらはなり、
臥房なき人の生や裸形の「痛み」、
さあれ身に惱みなし、涙も涸れて。
追想よ、ここにして追想ならじ、
燈火の滅えにたる過去の火盞と
煤びたり、そのかみの物はかなさを、
悦びを、などかまた照らし出づべき。
眼のあたり佗しげの徑の壞れ、
悲みの雨そそぎ洗ひさらして、
土の膚すさめるを、まひろき空は、
さりげなき無情さに晴れ渡りぬる。
狼尾草ここかしこ、光射かへす。
貝の殼、陶ものの小瓶の碎け――
あるは藍、あるは丹に描ける花の
幾片は、朽ちもせで、路のほとりに。
靈燻ゆる海の色、宴のゑまひ、
皆ここに空の名や、噫、望なし、
匂ひなし、この現われを囚へて、
日は檻の外よりぞ酷くも臨む。
人の世はいつしか
たそがれぬ、花さき
香に滿ちし世も、今、
たそがれぬ靜かに。
滅えがてに、見はてぬ
夢の影、裾ひく
薄靄の眼のうち
あなうつろなるさま。
人の世の燈火、
ほのぐらき樹の間を、
わびしらに嘆くか、
燈火の美鳥。
母の鳥――天なる
日のゆくへ慕ひて
泣きいさち嘆かふ
聲のうらがなしさ。
燈火のうま鳥、
うらぶれの細音に
かずかずの念の
珠をこそ聞け、今。
闇墜ちぬ、にほひも
はた色もひとつの
音に添ひぬ、燈火
遠ながき笛の音……
向日葵の蘂の粉の黄金にまみれ、
あな、夕まぐれ、
朽ちはつる草びらや、
草びらは唯わびしらに。
この夕、雲明き空には夏の
あな、榮もあれ、
薄ぐらき物かげを
草びらは終りの寢所。
誓願は向日葵に――菩提の東、
あな、涅槃の西、
宿縁は草びらに、
草びらは靜かに默す。
向日葵は蘂の粉の黄金の雨の
あな、涙もて
朽ちはてて壞れゆく
草びらの胸を掩ひぬ。
椶櫚の葉音に暮れてゆく夏の夕暮、
たゆまるる椶櫚のはたはた、
裂葉よ、あはれ莖長く葉末は折れて垂れ顫へ、
天に捧げし掌、――絶入の悶え。
さもこそあらめ、淨念の信士その人、
孤獨なる祈誓に喘ぎ、
胸に籠めたる幻を雲に痛みて、地のほめき――
そをだに香の燻ゆるかと頼めるけはひ。
偉なるかな空の宵、天の廣葉は
圓かにて、呼息ざし深く、
物皆かげに搖めきて暗うなる間を明星や、
見よ、永劫の嚴の苑、光のにほひ。
ここにては、噫、晝の濤、夜の潮と
捲きかへるこころの鹹さ、
信の涙か、憧憬の孤寂の闇の椶櫚の花
幹を傳ひてほろほろと根にぞこぼるる。
紺瑠璃の
潮滿ちに、渚の
縁さへも
ひびわれむばかりや。
風は和ぎ、
浪は伏す深海、
天津日は
輝きぬ、まどかに。
いづこをか
もとめゆく、この時、
船の帆よ、
徐に、彼方へ。
幸か、船、
帆章は判たね、――
生もはた
死の如し、この時。
あまりにも
足らひたり、海原、
靜けさは
嵐にも似たりや。
天津日は
うるほひて、日の暈、
暈の環を
虹もこそ彩なせ。
紺瑠璃の
潮熟みて浸しぬ、
素胎には
あらぬ海、なじかは……
素胎には
あらぬ海、不祥の
兒や生るる、――
虹の色かつ滅ゆ。
幸か船、
帆じるしは判たね、
いづこをか
もとめゆく、この時。
光のとばりぎぬ
ゆららに風わたる。
まひろく、はた青き
皐月の空のもと。
いのちの一雫
めぐみぬ、わが胸の
階、かぎろひを
きざめるそのほとり。
めぐみぬ、花さきぬ、
耀よふ玉の苑、
かすかに花くんじ、
かすかにくづれゆく。
はゆるやかに
うつりて、階を
垂れ曳く丈の髮、
ぞ夢みぬる。
さもあれ戀の、嗚呼、
みなしご――わが魂は
いのちの花かげに
痛みて聲もなし。
薄ぐもる夏の日なかは
愛欲の念にうるみ
底もゆるをみなの眼ざし、
むかひゐてこころぞ惱む。
何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
執ふかきちからは、やをら、
重き世をまろがし移す。
窓の外につづく草土手、
きりぎりす氣まぐれに鳴き、
それも今、はたと聲絶え、
薄ぐもる日は蒸し淀む。
ややありて茅が根を疾く
青蜥蜴走りすがへば、
ほろほろに乾ける土は
ひとしきり崖をすべりぬ。
なまぐさきにほひは、池の
上ぬるむ面よりわたり、
山梔の花は墜ちたり、――
朽ちてゆく「時」のなきがら。
何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
眼のあたり融けてこそゆけ
夏の雲、――空は汗ばむ。
柔らかき苔に嘆かふ
石だたみ、今眞ひるどき、
たもとほる清らの秋や、
しめやげる精舍のさかひ。
並び立つ樅の高樹は、
智識めく影のふかみに
鈍びくゆる紫ごろも、
合掌の姿をまねぶ。
しめやげる精舍のさかひ、――
石だたみ音もかすかに
飜る落葉は、夢に
すすり泣く愁のしづく。
かぎりなき秋のにほひや、
白蝋のほそき焔と
わがこころ、今し、靡かひ、
ふと花の色にゆらめく。
花の色――芙蓉の萎へ、
衰への眉目の沈默を。
寂の露しみらに薫ず、
かにかくに薄きまぼろし。
しめやげる精舍に秋は
しのび入り滅え入るけはひ、
ほの暗きかげに燦めく
金色のみ龕の光。
傳へ聞く彼の切支丹、古の惱もかくや――
影深き胸の黄昏、密室の戸は鎖しもせめ、
戰ける想の奧に「我」ありて伏して沈めば、
魂は光うすれて塵と灰「心」を塞ぐ。
懼しき「疑」は、噫、自の身にこそ宿れ、
他し人責めも來なくに空しかる影の戲わざ、
こは何ぞ、「畏怖」の黨群れ寄せて我を圍むか。
脅す假裝ひに松明の焔つづきぬ。
聖麻利亞、かくも弱かる罪人に信の潮の
甦り、かつめぐり來て、「肉」の渚にあふれ、
俯伏に干潟をわぶる貝の葉の空虚の我も
敷浪の法喜傳へて御惠に何日かは遇はむ。
さもあれや、わが「性欲」の里正は窺ひ寄りて、
禁制の外法の者と執ねくも罵り逼り、
ひた強ひに蹈繪の型を蹈めよとぞ、あな淺ましや、
我ならで叫びぬ、『神よ此身をば磔にも架けね』と。
硫黄沸く煙に咽び、われとわが座より轉びて、
火の山の地獄の谷をさながらの苦惱に疲れ、
死せて又生くと思ひぬ、――夢なりき、夜の神壇、
蝋の火を點して念ず、假名文の御經の祕密。
待たるるは高き洩るる啓示の聲の耀き、――
信のみぞ其證人、罪深き内心ながら
われは待つ、天主の姫が讃頌の聲朗かに、
事果て、『汝を恕す』と宣はむその一言を。
陰濕の「嘆」の窓をしも、かく
うち塞ぎ眞白にひたと塗り籠め、
そが上に垂れぬる氈の紋織、――
朱碧まじらひ匂ふ眩ゆさ。
これを見る見惚けに心惑ひて、
誰を、噫、請ずる一室なるらむ、
われとわが願を、望を、さては
客人を思ひも出でず、この宵。
唯念ず、しづかにはた圓やかに
白蝋を黄金の臺に點して、
その焔いく重の輪をしめぐらし
燃えすわる夜すがら、われは寢ねじと。
徒然の慰さに愛の一曲
奏でむとためらふ思ひのひまを、
忍び寄る影あり、誰そや、――畏怖に
わが脈の漏刻くだちゆくなり。
長き夜を盲の「嘆」かすかに
今もなほ花文の氈をゆすりて、
呼息づかひ喘げば盛りし燭の
火影さへ、益なや、しめり靡きぬ。
癡れにたる夢なり、こころづくしの
この一室、あだなる「悔」の蝙蝠
氣疎げにはためく羽音をりをり
音なふや、噫などおびゆる魂ぞ。
やはらかき寂びに輝く
壁の面、わが追憶の
靈の宮、榮に飽きたる
箔おきも褪せてはここに
金粉の塵に音なき
滅の香や、執のにほひや、
幾代々は影とうすれて
去にし日の吐息かすけく、
すずろかに燻ゆる命の
夢のみぞ永劫に往き來ひ、
ささやきぬ、はた嘆かひぬ。
あやしうも光に沈む
わが胸のこの壁の面、
惱ましく鈍びては見ゆれ、
倦じたる影の深みを
幻は浮びぞ迷ふ、――
つややかに、今、緑青の
牧の氈、また紺瑠璃の
彩も濃き花の甘寢よ、
更にわが思ひのたくみ、
われとわが宿世をしのぶ
醉ごこち、痴れのまどひか、
眼のあたり牲の仔羊、
朱の斑の痛と、はたや
愛欲の甘き疲れの
紫の汚染とまじらふ
業のかげ、輪廻の千歳、
束の間に過がひて消ゆれ、
幾たびか憧がれかはる
肉村の懴悔の夢に
朽ち入るは梵音どよむ
西天の涅槃の教――
埋れしわが追憶や。
わづらへる胸のうつろを
煩惱の色こそ通へ、
物なべて化現のしるし、
默の華、寂の妙香、
さながらに痕もとどめぬ
空相の摩尼のまぼろし。
底の底、夢のふかみを
あざれたる泥の香孕み、
わが思ふとこそ浮べ。
浮のおもひは夢の
大淀のおもてにむすび、
ゆららかにゑがく渦の輪。
滯る銹の緑に
濃き夢はとろろぎわたり、
呼息づまるあたりのけはひ。
涯もなく、限も知らぬ
しづけさや、――聲さへ朽ちぬ、
あなや、この物うきおそれ。
浮はめぐりめぐりぬ、
大淀のおもてに鈍びて
たゆまるる渦の輪のかげ。
物うげの夢の深みに
魂の失せゆくひまを、
浮のおもひは破れぬ。
朽ちにたる聲張りあげて
わがおもひ叫ぶとすれど、
空し、ただあざれしにほひ。
涯もなきこの靜けさや、
めくるめくおそはれごこち、
涯もなき夢のとろろぎ。
なべてのうへに灰いろの
靄こそ默せ、日の終、
その灰いろに彩といふ
彩の喘ぎを聞くごとし。
冷たく重き冬の靄、
あな、わびしらや、戀も世も
宴も人もひと色に、
信も迷も身も靈も。
死の林かとあらはなる
木立の枝のふしぶしは
痛みぬ、風に――悔の音、
執着の靄灰色に。
過ぎ去りし日の過ぎもかね、
忘れがてなるわが思、
朧のかげのゆきかひに
をののかれぬる冬の靄。
迷ひぬ、ふかき「にるばな」に、
たわやの髮は身を捲きぬ、
たゆげの夜を煩惱は
狎れてむつみぬ、「にるばな」に。
壁にゑがける執の花――
閨の一室の濃きにほひ、
奇しき花びら、花しべに、
火影も、嫉し、たはれたる。
夢の私語、たわやげる
瑪瑙の甘寢、「にるばな」よ、
艶も貴なる敷皮に
嫋びしなゆるあえかさや。
愛欲の蔓まつはれる
窓の夜あけを梵音に
祕密の鸚鵡警めぬ、――
ああ「にるばな」よ、曉の星。
鏡は曇る、薫香に
まじる一室の呼息ごもり、
鏡は晴れぬ、影と影、
覺めし素膚にわれ迷ふ。
日は嘆きわぶ、人知れず、
日は荒れはてし花園に、――
花の幻、陽炎や、
あをじろみたる昨のかげ。
日は直泣きぬ、花園に、――
種子のみだれの穎割葉、
またいとほしむ、何草の
かたみともなき穎割葉。
廢れ荒みしただなかに
生ひたつ歌のうすみどり、
ああ、穎割葉、百の種子
ひとつにまじる香の雫。
斑葉の蔓に罌粟の花、
醉のしびれの盞を
われから賞でむ忍冬――
種子のみだれを、日は嘆く。
沙は燬けぬ、蹠のやや痛きかな、
渚べの慣れし巖かげに身を避けて、
磯草の斑に敷皮の黄金をおもひ、
いざここに限りなき世の夢を見む。
藍や海原、白銀や風のかがやき、――
眼路の涯絶えて翳らふものもなく、
ひろき潮に浮び來て帆ぞ照りわたる
遠の船、さながら幸の盞と。
なべての人も我もまた絶えず愁へて
渚べを美し醉ならぬ癡れ惑ひ、
どよもし返す浪の音、海の胸なる
言の葉に暗き思ひを溺らしぬ。
今日や夢みむ、幽玄の象をしばし、
心やすし、愁ひは私に這ひ出でて、
海知らぬ國、荒山の彼方の森に、
人住まぬ眞洞覓めて行きぬらむ。
さもあらばあれ如何せむ、心しらへの
益なさを嘲み顏なる薫習や、
劫初の朝の森の香はなほも殘りて
染みぬらし、わが素膚なる肉に。
更にたどれば神の苑、噫そこにしも
晶玉は活きていみじく歌ひけめ、
木の葉囁き苔薫じ、われも和毛の
おん惠み、深き日影に臥しけめ。
なべては壞れ亂されき、人と生れて、
爭ひて、海の邊に下り來ぬ、
なべては破れし榮の屑、(顧みなせそ)
人は皆ここに劃られ、あくがれぬ。
大和田の原、天の原、二重の帷
徒らにこの彩もなき世をつつみ、
風の光の白銀に、潮の藍に、
永劫は經緯にこそ織られたれ。――
幽玄の夢さもあらめ、待つに甲斐なき
現し世に救ひの船は通ひ來ず、
(帆は照せども)、身は疲れ、崩れ崩るる
浪頭、蠱の羽とぞ飜る。
虚の靈は涯知らぬ淵に浮びて、
身はあはれ響動す海の渚べに、――
またも此時わが愁、森を出でたる
獸かと跫音忍びかへり來ぬ。
ひき潮ゆるやかに、
見よ、ひきゆくけはひ、
堀江に船もなし、
船人、船歌も。
濁れる鈍の水脈
くろずむひき潮に、
堀江のわびしらや、
そこれる水脈のかげ。
さびしき河岸の上
うごめく海蛆の
あな、身もはかなげに
怖ぢつつ夢みぬる。
慕はし、海の香の、――
風こそ通へ、今、
曇りてなよらかに
こもりぬ、海の香は。
濁れる堀江川
くろずむ水脈のはて、
入海たひらかに
かがやく遠渚。
かなたよ、海の姫、
鴎か舞ひもせむ、
身はただ海蛆の
怖ぢつつ醉ひしれぬ。
ひき潮いやそこり
黒泥の水脈の底、
堀江に船も來ず、
ましてや水手の歌。
大鋸をひくひびきはゆるく
ひとすぢに呟やくがごと、
しかはあれ、またねぶたげに。
いや蒸しに夏のゆふべは、
風の呼息暑さの淀を
練りかへすたゆらの浪や。
河岸にたつ材小屋のうちら、
大鋸をひく鈍きひびきは
疲れぬる惱みの齒がみ。
うら、おもて、材小屋の戸口、――
生あをき水の香と、はた
あからめる埃のにほひ。
幅びろの大鋸はうごきぬ、
鈍き音、――あやし獸の
なきがらを沙に摩るか。
はらはらと血のしたたりの
おがの屑あたりに散れば、
材の香こそ深くもかをれ。
大鋸はまたゆるく動きぬ、
夕雲の照りかへしにぞ
小屋ぬちはしばし燃えたる。
大鋸ひきや、こむら、ひかがみ、
肩の肉、腕の筋と、
まへうしろ、のび、ふくだみて、
素膚みな汗に浸れる
このをりよ、材の香のかげに
われは聽く、蝮のにほひを。
夜の闇這ひ寄るがまま、
大鋸ひきは大鋸をたたきて、
たはけたる歌の濁ごゑ。
夜も日もわかず一室は、げに畏しき電働機の
聲の唸りの噴泉よ、越歴幾の森の木深けさや、
うちに靈獸潜みゐて青き炎を牙に齒めば、
ここに「不思議」の色身は夢幻の衣を擲ちぬ。
かの底知れぬ海淵も、この現實の祕密には
深きを比べ難からむ、彼は眠りて寢おびれて、
唯惡相の魚にのみ暗き心を悸かし、
これは調和の核心に萬法の根を誘ふなる。
舊きは廢れ街衢、また新しく榮ゆべき
花の都の片成りに成りも果てざる土の塊、
塵に塗るる草原の、その眞中に畏しき
大電働機の響こそ日も夜もわかね、絶間なく。
船より揚げし花崗石河岸の沙に堆し、
いづれ大厦の礎や、彼方を見れば斷え續く
煉瓦の穹窿。人はこの紛雜の裡に埋れて
(願はあれど名はあらず)、力と技に勵みたり。
嗚呼、想界に新なる生を享くる人もまた
胸に轟く心王の烈しき聲にむちうたれ、
築き上ぐべき柱には奇しき望の實相を
深く刻みて、譽なき汗に額をうるほさむ。
さあれ車の鐵の輪、軸に黄金のさし油
注げば空を疾く截りて大音震ふ電働機や、
その勢の渦卷の奧所に聽けよ靜寂を、――
活ける響の瑠璃の石、これや「眞」の金剛座。
奇しくもあるかな、蝋石の壁に這ひゆく導線は
越歴幾の脈の幾螺旋、新なる代に新なる
生命傳ふる原動の、その力こそ淨妙華、
法音開く光明の香ぞ人に逼り來る。
靜かに眠りて、寢魂の夜の宮にも事あらで、
いと爽らかに青みたる晨に寤め、見かへれば、
傴僂に似たる「昨」の日は過ぎゆく「時」の杖に縋り、
何方去にけむ、思ひ屈して惱みし我も心解けぬ。
零れし種子の奇しきかな、我生荒めるにだに
惠み齎らす「信樂」の朝の一つや、何物も
これには代へじ、「慈悲」の御手は祕むれど、銀の衡、
金の秤目、その極の星にかかれる身の錘。
實に靜まれる日の朝け、曾て覺えぬ悦に
痩屈み冷えしわが胸は、雪消に濕り、冬過ぎて、
地の照斑と蒲公英の花、芽ぐむ外の面のつつましき
春さながらの若萌にきざす祈誓ぞほのかなる。
何とはなしに自ら耳を澄せば遠方に
浪どよみ風の戰めける音をし尋むる心地して、
憧がれわたる窓近く小鳥轉じてまぎれむと
惧るる隙に聞きわきぬ、過去遠々の代をここに。
かくて浮ぶるわが「宿世」、瞳徹れる手弱女の
頸をめぐる珠飾、譬へばそれが、鳴響き、
瑠璃はささやく紅玉に、(さあれ苦の緒の一聯)、
緑に將や紫に、愛の、欣求の、信の顆。
げにこの朝の不思議さを翌の夕にうち惑ひ、
わが身をさへに疑はば、惡風さらに劫の火を
誘ひて行手塞ぎなば、如何はすべき、弛まるる
腕は渇く唇に淨水掬ぶ力なくば。
あるは曲れる「癡」の角にいと鈍ましき「慾」の牛、
牧場に足らふ安穩の命に倦みて、すずろかに
埓のくづれを踰えゆかば、星も照らさぬ夜の道、
後世の善所を誰かまた鞭うち揮ひ指ししめす。
あるは木強の本性に潜む蠻夷の幾群の
集ふやとばかり、われとわが拓かぬ森の下蔭に
思ひ惑ふや、襲ひ來る彼の殘逆の矛槍を
血ぬらぬ前に淨めなむ心しらへのありや、否。
悲願の尊者、諸菩薩よ、ただ三界に流浪する
魂を憐み御心にかけさせたまへ、ゆくりなく
煩惱盡きし朝に遇ひて、今日を捨身の首途や、
遍路の旅に覺王の利生をわれに垂れたまへ。
汗あゆる日も夕なり、
空には深き榮映の
褪せゆくさまのはかなさは
沙に塗るる彩の波、――
色うち沈む「西」の湫や、
黄なる牛か、雲群れぬ、
角にかけたる金環
倦じくづるる音のたゆげ。
ここには森の木の樹立、
暗き緑に紫の
たそがれの塵降りかかり、
塵は遽かに生を得て、
こは九萬疋の闇の羽、
微かにふめき、蔭に蒸し、
葉うらを繞り、枝々を
流れてぞゆく「夜」の巣に。
夏の夕暮、いぶせさや、
不淨のほめき、濕熱に
釀す瘟疫、瘧病の、
噫、こは森か、こぶかげに
將た音もなきさまながら、
闇にこもれる幹と枝、
尖葉、廣葉、しほたれ葉、
噫、こは森か、「惡」の祕所。
火照の天の最後の
光咀ひて、斑猫は
世をば惑はす妖法の
尼にたぐへるそのけはひ、
靜かに浮び消え去りぬ、
彼方、道なき通の奧、
生あるものの胤を食む
蛇纒ふ「肉」の廳。
黄泉路とばかり、「惡」の祕所、
蔓草絡むただなかに、
なべては腐れ朽ちゆけど、
樹の幹を沸く脂の膸
薫陸とこそ、この時よ、
滴り凝りて、穢れたる
身よりさながら淨念の
泌み出づるごと薫るなれ。
物皆さあれ文もなく
暮れなむとする夜の門、
黒白の斑の翅うち
はためきめぐる蛾、
見る眼も迫かれ、安からぬ
思ひもともにはためきぬ、
かくて不定の世もここに
闇の境にはためきぬ。
皐月を溝の穢れ水
かぐろみ蒸して沸きそふや、
小舍、廢屋のかたかげに
草どくだみは(花白き
單瓣ぞ四片)、朝ゆふべ、
朽木を出でて日に障る
羽蟻の骸の墓どころ、
暗きにほひにしたしみぬ。
いかなる罪の凶會日に
結びそめたる種ならむ、
花どくだみや、統譜の
系をたださば、こは刹利、
須陀羅にあらぬさまかたち、――
花の四片は白蓮華、
葉はまろらかに、さはあれど
色のおもてぞ濁りたる。
穢れて臭き醜草の、
その類葉のひとつには
誰が教へけむ、去りあへぬ
怨嫉の鬼根に纒ひ、
生ひかはる芽を咀ふにか、
これや曼陀羅に織り入れて、
淨土をしめす實相の
花ともなさむ本來の性。
噫、眇目の陰陽師、
古りし「烏」にまかせなむ、
過去にうけにしどくだみの
占に知らるる業の象。
正眼に見れば、道を得て、
ひとり罪負ふ法類や
花には蘂ぞ輝ける、
闇きを照らす火の匂ひ。
寶鐸のこゑ曇りたる
皐月にこもり、刻々の
「死」は物かげに降り濺ぎ、
膿わく溝の穢れ水、
朽木を出でて日に障る
羽蟻は骸を、どくだみの
(單瓣四片の白蓮華)、
花に足らへる奧津城に。
よろこびぬ、倦みぬ、
爭ひぬ、厭きぬ。
生命の根白く
死の實こそにほへ。
眠なり、つえぬ、
墮ちぬまを吸ひぬ。
ここよりは路もなし、
やすし、はた路の岐も。
蒼白き啜泣き、
聲罅くゑまひの狹霧。
魂と魂あひ寄るや、
寂寞の、あはれ、晶玉。
死はなべて價のきはみ、
得難しや、されど終には。
人々よ、奧津城の冷たき碣を、
われを、いざ、蹈みて立て。烏許の輩、
盲ひたり、躓かめ、將來遠く
つづきたる階の、われも一段。
肉は、靈は、
二つのちから、
生は、死はよ、
眞砥の堅石、
研きいづれ、
摩尼の金剛。
あざれし肉
「神」の牲。
虚しき靈
「蝮」の智。
肉の肉を
われは今おぼゆ。
覺めよ、「人」は
靈の靈。
ゆをびぬる日南のかをり、
かかる日を冬もこそゆけ、
柔らげる物かげの雪、
枝ゆらぐ垣のいちじゆく。
かかる日を、噫、かかる日を
待ちわびぬ、わびしきわが世、
寂寞の胸の日南を
ゆをびぬる思ひのかをり。
幽かにも水沼の遠を
水禽の羽音の調。
ひときほひ、嵐はまたも
青空の淵にすさべば
その面は氷の泡だちて
銀の色に燦めく。
冬はいま終のいぶきか、
常盤木は深くをめきぬ、
いちじゆくの枝はたゆらに
音無の夢のさゆらぎ。
かくて後、時の靜けさ、
かかる日を冬もこそゆけ、
春の酵母――雪のしたみに
かぐはしの思ひは沸きぬ。
しかすがに水沼のあなた、
水禽の羽音のわかれ。
遠方の樹立に、あはれ、
皐月雨煙れる奧に、薄き日は
射すともなしに漲りて
緑に浮び霑へる黄金のいぶき。
わが道は雨の中なり、
汗ばめる額を吹きて軟風は
蒸しぬ、――心の惱ましさ、
雨に濡れたる礫みち、色蒼白く。
熟々と彼方を見れば
金蓮の光を刻む精舍かと、
夢も明るき森つづき、――
さあれ、ここは長坂の下りぞ暗き。
わが道は溝に沿ひたり、
その溝を水は濁りぬ、をりをりは
泥に塗れし素足して
賤しきものの過がひゆく醉ひしれざまや。
ここにこそ幽鬱はあれ、
かたへなる蔭に一樹の橡若葉、
廣葉はひとり曇りなく、
雨も緑に、さと濺ぎ、たたと滴る。
雲は今たゆらにわたる、
ああ皐月、――雲の麝香よ、
麥の香もあたりに薫ず、
麥の香の波折のたゆた。
日は醉ひぬ、緑は蒸しぬ、
ゆをびかに野はうるみたり、
揚雲雀――阿剌吉のみ魂、
軟風や輕き舞ぎぬ。
見よ、瑞枝、若葉のゆらぎ、
ゆらめける梢のひまを
青空や孔雀の尾羽、――
數の珠、瑠璃のつらなみ。
皐月野の胸のときめき――
節ゆるきにほひの歌ぞ
日に蒸して、緑に醉ひて、
たよたよと傳ひゆきぬる。
ささやきて去にける影や、
盞にしたみし酒は
(飮みさしぬ)、あはれ惱まし、
澁りたる愁に濁る。
ささやきて去にける影や、
おとづれも今はた絶えぬ、
ほど過ぎて風もあらぬに
ひえびえと膚粟だつ。
うらがれの園にしとれる
石づくゑ、琢ける面の
薄鈍み曇るわびしさ、――
「歡樂」は待てどかへらず。
雲は、見よ、空のわづらひ、
吹き棄つる命のかたみ――
「悲」の螺かとばかり
晝の月、痕こそ痛め。
かくてまた薄らぎ弱る
日のひそみ、風のおとろへ、
黄に默す公孫樹の、はたや
灰ばめる楊の落葉。
一叢の薔薇は、かしこ、
凋みゆく花の褪色、
くづをるる埋れこころぞ
土の香の寂れは咽ぶ。
空だのめ、何をかは待つ、――
いつしかに日和かはりて
雨もよひ、やや蒸しぬれば、
秋は今ふとき呼息しぬ。
わりなくも聲になやめる
盞の玻璃の嘆きと
うつろへる薔薇の歌と、
かかる日を名殘のしらべ。
華やかに夕日は、かしこ、
矛杉を、檜のつらなみを、
華やかに映しいでたる。
(見よ、空の遠、
夕暮かけて雲すきぬ。)
夕暮かけて雲すきぬ。)
なからより上を木の幹、
叢葉こずゑ、ふとあからかに、
なからより樹のもと暗く。
(今、空のうへ
冬をなやらふ風のおと。)
冬をなやらふ風のおと。)
夢なりや、木々のいただき、
仰ふぐ眼に瞳ぞ歌ふ、
夢なりや、夢のかがやき。
(雲と風とは
春を迎ふる夕あらび。)
春を迎ふる夕あらび。)
わが脚は冷たき地に
うゑられぬ、をぐらき惱み、
わが脚は重し、たゆたし。――
冷たき地は
遁れもえせぬ「死」の獄。
遁れもえせぬ「死」の獄。
かぐよへるめぐみのかげに
冥をぬく「おもひ」の上枝、
かぐよへる天のみすがたや。――
めぐみのかげは
闇の絃彈く序のしらべ。
闇の絃彈く序のしらべ。
歡喜のまぢかしや、わが
望の苑、光の流、
歡喜の朝をまため。――
まぢかしや、それ
夜は荒ぶとも、喘ぐとも。
夜は荒ぶとも、喘ぐとも。
うつつなる春に遇ひなば
甲の黄や、乙の紫、
うつつなる夢にわが身も、――
あはれ身はまた
魂の常磐にしたしまむ。
魂の常磐にしたしまむ。
翌となり、今日のうれひを
琴のすみれ、箜篌のもくれん、
翌となりて興じいでなば、――
さらばこころは
いかが燻らむ、追憶に。
いかが燻らむ、追憶に。
闇おちぬ、今はた空し、
世や、われや、ただひとつらに、
闇おちぬ、闇のくるめき、――
かくて望の
緒をこそまどへ、絶えにきと。
緒をこそまどへ、絶えにきと。
やまうどは微かに呻く、わなわなと
胸にはむすぶ雙の手や、
をみなよ、その手を……
やまうどは寢がへるけはひ。やまうどの枕を暗く寂しげに
燈火くもる夜の室、
をみなよ、照らしぬ……
やまうどは汗す、額に。やまうどは何をかもとむ、呼息づかひ
いと苦しげに呟やける、
をみなよ、聞け、問へ……
やまうどの唇褪せぬ。やまうどの眼は轉び沈み入り、
さしめぐらしき惱ましさ、
をみなよ、靜かに……
やまうどに夜の氣熟みぬ。やまうどは落居ぬ眠り、蟀谷の
脈びよめきて、また弛ぶ、
をみなよ、あな、あな……
やまうどの面ほほゑむ。やまうどをこの束の間に、(その人の
妻たる三年)、いかに見る、
をみなよ、畏れな……
やまうどの夢は罅きぬ。やまうどの枕をかへよ、舊りぬるも
なほ新たなる布ありや、
をみなよ、いづくに……
やまうどに燈火滅えぬ。『火はいづこぞ』と女の童、――
『見よ、伽藍ぞ』と子の母は、――
父は『いぶかし、この夜に』と。
(鐘は鳴り出づ、梵音に、――
紅蓮のひびき。)
紅蓮のひびき。)
『伽藍のやねに火ぞあそぶ、
ああ鳩の火か、焔か』と、
つくづく見入る女の童。
(鐘は叫びぬ、梵音に、――
無明のあらし。)
無明のあらし。)
『火は火を呼びぬ、今、垂木、
今また棟木、――末世の火、
見よ』と父いふ、『皆火なり。』
(鐘はとどろく、梵音に、――
苦熱のいたみ。)
苦熱のいたみ。)
『火はいかにして莊嚴の
伽藍を燒く』と子の母は、――
父は『いぶかし誰が業』と。
(鐘は嘆きぬ、梵音に、――
癡毒のといき。)
癡毒のといき。)
『焔は流れ、火は湧きぬ、
ああ鳩の巣』と女の童、――
父は『燒くるか、人の巣』と。
(鐘はふるへぬ、梵音に――
壞劫のなやみ。)
壞劫のなやみ。)
『焔の獅子座火に宣らす
如來の金口われ聞く』と、
走りすがひて叫ぶ人。
(鐘はわななく、梵音に、――
虚妄のもだえ。)
虚妄のもだえ。)
『火は内よりぞ、佛燈は、
末法の世か、佛殿を
燒く』と、罵り謗る人。
(鐘はすさみぬ、梵音に、――
嵐のいぶき。)
嵐のいぶき。)
『鐘樓に火こそ移りたれ、
今か、今か』と、狂ふ人、――
『鐘の音燃ゆ』と女の童。
(鐘は絶え入る。梵音に、――
無間のおそれ。)
無間のおそれ。)
『母よ、明日よりいづこにて
あそばむ』と、また女の童、――
母は『猛火も沈みぬ』と。
(鐘は殘りぬ、梵音に、――
欲流のしめり。)
欲流のしめり。)
『父よ、わが鳩燒け失せぬ、
火こそ嫉め』と女の童、――
父は『遁れぬ、後追へ』と。
(鐘はにほひぬ、梵音に、――
出離のもだし。)
出離のもだし。)
いと小さき窓
晝も夜も絶えずひらきて、
劃られし水の面の
たゆたひをのみ
倦じたるこころにしめす。
淀める沼か、
大河か、はたや入江か、
水の面の一片を、
何は知らねど、
絶間なくながめ入りぬる。
蒼白く照る
波の文、文は撓みて
流れ去り、また疊む
數のすがたは
一々に祕密の意。
しかはあなれど
何事もわれは解し得ず、
晝は見て、夜想ふ、
その限りなさ、
いつまでか斯くてあるべき。
わが魂を
解き放て、見るは崇高き
天ならず、地ならず、
ただたゆたへる
水の面、昨日も今日も。
世をば照らさむ
不思議はも耀き出でねと
待ちければ、こはいかに、
わが魂か、
白鵠は水に映りぬ。
哀しき鳥よ、
牲よ、知らずや、波は、
今、溶けし焔なり、
白き翅も
たちまちに燒け失せなんず。
聞け、高らかに
聲顫へ、『父、子、み靈に
み榮のあれよ』とぞ
讃めし聖詠、
臨終なる鳥の惱みに。
わが身はかかる
ありさまに眼をしとづれば、
まだ響く、『みさかえ』と、――
窓の外を、そと、
見やる時、こは天あらめ。
夕の空か
水の面、こは天ならめ、
浮べたる榮光に
星は耀く、
しかすがにうら寂しさよ。
われと嘲みて
何ものかわれに叛きぬ、
暗き室、小さき窓、
倦みて夢みし
信の夢、――それも空なり。
(妻をさきだてし人のもとに)
「おもひで」よ、淨き油を汝が手なる
火盞に注ぎ捧げもち、淨き焔の
あがる時、噫、亡き人の面影を
夫の君のため、母を呼ぶ愛し兒のため、
ありし世のにほひをひきて照らし出で、
かへらぬ魂をいとどしく悼める窓の
小暗さに慰め人と添へかしな、
慈眼の主はこれをこそ稱へもすらめ。
「おもひで」よ、なほ隈もなく、汝が胸の
こころの奧所ひらくべき黄金の鍵を、
悲みにとこしへ朽ちぬしるしありと、
音も爽かにかがやかに捧げまつりね。
眞晝時とぞなりにける、あるかなきかの
軟風もいぶき絶えぬる日盛や、
野のかたを見やればひとつ鐘のかげ、
うねりつづける生垣の圍ひの隙を
軒低き鄙の家白くかつ照りつ、
壁を背に盲の漢子凭りかかり、
その面をば振りかへし日にぞあてたる。
停り足掻く旅の馬、土蹴る音は
緩やかに堅し、輝く光こそ
歌ふらめ、歌あひのしじま長きかな、
眞晝は脚を休めつつ、ひとつところに、
かにかくに過ひ去ぬべきさまもなく、
濃き空の色はかなたにうち澱み、
暑さはたゆき夢載せて重げに蒸しぬ。
ロセチ白耳義旅中の吟
深き眞晝を弗拉曼の鄙の路のべ、
いつきたる小き龕の傍へ過ぎ
窺へば懸け聯ねたる畫の中に、
聖母は御子の寢すがたを擁きたまへり
羊を飼へる少女らは羊さし措き、
晴れし日の謝恩やここにひざまづく、
はたや日の夕もここにひざまづく、
悲しき宿世泣きなむも、はたまたここに。
夜も更けしをり、同じ路、同じ龕の
かたへ過ぎ、見ればみ燈ほのめきて
如法の闇の寂しさを耀き映す、
かくも命の温み冷え、疑ひ胸に
燻る時、「信」のひかりをひたぶるに
頼め、その影、あるは滅え、あるは照らさで。
ロセチ白耳義旅中の吟
泥沙坡とよ、巴比崙よ、花の都に住みぬとも、
よしやまた酌む杯は甘しとて、苦しとて、
絶間あらせず、命の酒うちしたみ、
命の葉もぞ散りゆかむ、一葉一葉に。
朝毎に百千の薔薇は咲きもせめ、
げにや、さもあれ、昨日の薔薇の影いづこ、
初夏月は薔薇をこそ咲かせもすらめ、ヤムシイド、
カイコバアドの尊らのみ命をすら惜しまじを。
逝くものは逝かしめよ、カイコバアドの大尊、
カイコスル彦、何はあれ、
丈夫ツアルもルスツムも誇らば誇れ、
ハチム王宴ひらけよ――そも何ぞ。
畑につづける牧草の野を、いざ共に
その野こえ行手沙原、そこにしも、
王は、穢多はの差別なし、――
金の座に安居したまへマアムウド。
歌の一卷樹のもとに、
美酒の壺、糧の山、さては汝が
いつも歌ひてあらばとよその沙原に、
そや、沙原もまたの天國。
賢し教に智慧の種子播きそめしより
われとわが手もておふしぬ、さていかに、
收穫どきの足穗はと問はばかくのみ――
『水の如われは來ぬ、風の如われぞ逝く。』
オマアカイアム
さ蠅よ、あはれ、
わがこころなき手もて、今、
汝が夏の戲れを
うるさきものに打拂ふ。
あらぬか、われや
汝に似たるさ蠅の身、
あらぬか、汝、さらばまた
われにも似たる人のさま。
われも舞ひ、飮み、
かつは歌へども、終の日や、
差別をおかぬ闇の手の
うち拂ふらむ、わが翼。
思ひわかつぞ
げにも命なる、力なる、
思ひなきこそ文目なき
死にはあるなれ、かくもあらば、
さらばわが身は
世にも幸あるさ蠅かな、
生くといひ、將た死ぬといふ、
その孰れともあらばあれ。
――ブレエク
『怪魚をば見き』と、奧の浦、
奧の舟人、――『怪魚をか』と、
武邊の君はほほゑみぬ。
『怪魚をばかつて霧がくれ
見き』と、寂しうものうげに
舵の柄を執る老の水手。
武邊の君はほほゑみぬ、
水手またいふ、『その面
美女の眉目濃く薫りぬ』と。
水手はまたいふ、『人魚とは
げにそれならめ、まさめにて
見しはひとたび、また遇はず。』
船はゆらぎて、奧の浦、
霧はまよひて、光なき
入日惱める秋の海。
『げにかかりき』と、老の水手、
『その日もかくは蒼白く
海は物さび呼息づきぬ。
『舷ふるへわななきて、
波のうねうね霜じみの
色に鈍みき、そのをりに――』
武邊の君はほほゑみぬ、
水手の翁は舵とりて、
また呟ける、『そのをりに――』
武邊の君は眼を放ち
海を見やれば、老が手に
馴れたる舵の軋む音。
船はこの時脚重く、
波間に沈み朽ち入りて
ゆくかのさまにたじろぎぬ。
水手の翁もほほゑみぬ、
凶の時なり、奧の浦、
ああ人も人、船も船。
昔の夢ぞほほゑめる。――
『そのをりなりき、たちまちに
波は燃えぬ』と、老の水手。
つぎてまたいふ、『海にほひ、
波は華さき、まどかにも
夕日の臺[#ルビの「うてな」は底本では「うなて」]かがやきぬ。
『波は相寄りまた歌ふ、
焔の絹につつみたる
珠のささやく歌の聲。
『そのをりなりき、眼のあたり
人魚うかびぬ、波は燃え、
波は華さき、波うたふ。
『黄金の鱗藍ぞめの
潮にひたりて、その面
人魚は美女の眉目薫る。』
昔の夢ぞかへりたる、――
凶の時なり、奧の浦、
ああ時も時、海も海。
『瞳子は瑠璃』と、老の水手、
『胸乳眞白に、濡髮を
かきあぐる手のしなやかさ。――
『武邊の殿よ、かかりき』と、
言へば諾き、『見しはそも――』
殿はほほゑみ、『何處ぞ』と。
『殿よ、ここぞ』と、老の水手
眼をみひらけば、霧の墓、
ただ灰色の海の面。
昔の夢はあざわらふ、――
『何處』と問へば『ここ』と指す
手こそわななけ老の水手。
船は今しも帆を垂れぬ、
人囚はれぬ、霧の海、
ただ灰色の帷のみ。
『げにかかりき』と、老の水手、
『船も狹霧も海原も、
胸のとどろき、今日もまた――』
またいふ、『あなや、渦まきて、
霧は狹霧を呑み去りぬ、
殿よ、沒日は波を焚く。』
武邊の君は身じろがず、
帆は、――老の水手『見じ』とただ――
帆は紅に染りたり。
『あな見じ』とこそ老の水手、――
人魚うかびぬ、たちまちに
武邊の君が眼のあたり。
二つに波はわかれ散り、
人魚うかびぬ、身にこむる
薫も深し波がくれ。
人魚の聲は雲雀ぶえ、――
波は戲れ歌ひ寄る
黒髮ながき魚の肩。
人魚の笑はえしれざる
海の青淵、その淵の
蠱の眞珠の透影か。
人魚は深くほほゑみぬ、――
戀の深淵人をひき、
人を滅すほほゑまひ。
武邊の君は怪魚を、きと
睨まへたちぬ、笑の勝、――
入日は紅く帆を染めぬ。
武邊の君は船の舳に、
血は氷りたり、――海の面は
波ことごとく燃ゆる波。
武邊の君は半弓に
矢をば番ひつ、放つ矢に
手ごたへありき、怪魚の聲。
ああ海の面、波は皆
をののき氷り、船の舳に
武邊の君が血は燃えぬ。
痛手に細る聲の冴え、
人魚は沈む束の間も
猶ほほゑみぬ、――戀の魚。
むくいは強し、眼に見えぬ
影の返し矢、われならで、
武邊の君は『あ』と叫ぶ。
人魚ぞ沈むその面に
武邊の君は亡妻の
ほほゑみをこそ眼のあたり。
亡妻の笑、怪魚の眼と
怪魚の唇、――悔もはた
今はおよばじ波の下。
昔の夢はひらめきて
闇に消え去り、日も沈み、
波は荒れたち狂ひたつ。
暴風のしまき、夜の海、――
水手の翁はさびしげに
『船には泊つる港あり。』
泊つる港に船は泊つ、
さあれすさまじ夢のあと、
人のこころの巣やいづこ。
武邊の君はその日より
こころ漂ひ二日經て、
またたどり來ぬ奧の浦。
領主の館の太刀試合、
また夜の宴、名のほまれ、
武邊の君は棄て去りぬ。
二日を過ぎしその夕、
武邊の君はそそりたつ
巖のうへにただひとり。
巖の下に荒波は
渦まきどよみ、ながめ入る
おもひくるめく瑠璃の夢。
帆かげも見えず、この夕、
霧はあつまり、光なき
入日たゆたふ奧の浦。
武邊の君に幻の
象うかびぬ、亡妻の
面わのゑまひ、――怪魚の聲。
『幻の界ぞ眞なる』――
武邊の君はかく聞きぬ、
痛手にほそる聲の冴え。
ああ、くるめきぬ、眼もあはれ、
心もあはれ、青淵に
まきかへりたる渦の波。
武邊の君は身を棄てて
淵に躍らす束の間を、
『父よ』と風に呼ぶ聲す。
武邊の君の身はあはれ
ゑまひの渦に、幻の
波のくるめき、夢の泡。
『父よ』と呼びぬ、奧の浦、
水手の翁はその聲を、
眠らで聞きぬ夜もすがら。
水手の翁は曉に
奧の浦べを『父』と呼ぶ
姫のすがたにをののきぬ。
『姫よ、怪魚かと魂消えぬ、
は、は』と寂しう老の水手、
『姫よ、さいつ日わが船に――』
『父は人魚のあやかしに――』、
姫は嘆きぬ、『父はその
面わのゑみに誘かれき』と。
『姫よ、武邊の君が矢に
人魚は沈み、夜の海、
あらしの船』と老の水手。
姫は嘆きぬ、『名のほまれ、
領主の館の太刀試合、
父は辭みてあくがれき。』
『姫よ、甲斐なき人の世』と
老は呟く、姫はまた
『父は怪魚棲む海の底。』
ああ幾十度、『父』と呼ぶ
姫が聲ねに力なく、
海はどよもす荒磯べ。
姫は『母よ』と、聲ほそう、
『母よ』と呼べば、時も時、
日はさしいづる奧の浦。
黄金の鱗波がくれ、
高波白くたち騷ぎ、
姫を渚に慕ひ寄る。
三たび人魚を眼のあたり、
水手の翁は『三度ぞ』と、
姫をまもりてたじろげば、
渚かがやく引波の
跡に人魚は身を伏せて、
悲み惱む聲の冴え。
姫は人魚をそと見やる、
人魚は父の亡骸を
雙の腕にかき擁き、
眞白き胸の血のしづく、
武邊の君が射むけたる
矢鏃のあとの血の痛手。
人魚はやをらかなしげに
面をあげぬ、悲しめど
猶ほほゑめる戀の魚。
人魚は遂に絶え入りぬ、
姫はすずろに亡父の
むくろに縋り泣き沈む。
渚どよもす高波は
ふたたび寄せ來、老の水手、
『あなや』と叫ぶ隙もなく、
武邊の君が亡骸も、
姫も、人魚も、幻の
波にくるめく海の底。
水手の翁はその日より
海には出でず、『まさめにて
三度人魚を見き』とのみ。
(明治四十一年一月刊)