有明集

蒲原有明




この歌のひと卷を亡き父の
み靈の前にささぐ。



智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。

噫(ああ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の綰(わがね)の波を、――
こを如何(いか)に君は聞き判(わ)きたまふらむ。

眼をし閉(とづ)れば打續く沙(いさご)のはてを
黄昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、

その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、――
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。


薄曇りたる空の日や、日も柔(やは)らぎぬ、
木犀(もくせい)の若葉の蔭のかけ椅子(いす)に
靠(もた)れてあれば物なべておぼめきわたれ、
夢のうちの歌の調(しらべ)と暢(の)びらかに。

獨(ひとり)かここに我はしも、ひとりか胸の
浪を趁(お)ふ――常世(とこよ)の島の島が根に
翅(つばさ)やすめむ海の鳥、遠き潮路の
浪枕(なみまくら)うつらうつらの我ならむ。

半(なかば)ひらけるわが心、半閉ぢたる
眼を誘ひ、げに初夏(はつなつ)の芍藥(しやくやく)の、
薔薇(さうび)の、罌粟(けし)の美(うま)し花舞ひてぞ過ぐる、

艶(えん)だちてしなゆる色の連彈(つれびき)に
たゆらに浮ぶ幻よ――蒸して匂へる
蘂(ずゐ)の星、こは戀の花、吉祥(きちじやう)の君。


時ぞともなく暗(くら)うなる生(いのち)の※(「戸の旧字+炯のつくり」、第3水準1-84-68)(とぼそ)、――
こはいかに、四方(あたり)のさまもけすさまじ、
こはまた如何(いか)に我胸の罪の泉を
何ものか頸(うなじ)さしのべひた吸ひぬ。

善(よ)しと匂へる花瓣(はなびら)は徒(あだ)に凋(しぼ)みて、
惡(あ)しき果(み)は熟(つ)えて墜(お)ちたりおのづから
わが掌底(たなぞこ)に、生温(なまぬる)きその香(か)をかげば
唇のいや堪(た)ふまじき渇きかな。

聞け、物の音、――飛び過(す)がふ蝗(いなご)の羽音(はおと)か、
むらむらと大沼(おほぬ)の底を沸(わ)きのぼる
毒の水泡(みなわ)の水の面(も)に彈(はじ)く響か、

あるはまた疫(えやみ)のさやぎ、野の犬の
淫(たはれ)の宮に叫ぶにか、噫、仰ぎ見よ、
微(かす)かなる心の星や、靈(たま)の日の蝕(しよく)。


淀(よど)み流れぬわが胸に憂(うれ)ひ惱みの
浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、
いつもいぶせき黄昏(たそがれ)の影をやどせる
池水(いけみづ)に映るは暗き古宮(ふるみや)か。

石の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂びぬ、
沈みたる快樂(けらく)を誰かまた讃(ほ)めむ、
かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。

花の思ひをさながらの祷(いのり)の言葉、
額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに
この世ならざる縁(えにし)こそ不思議のちから、

追憶(おもひで)の遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘(なごり)の光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。


文目(あやめ)もわかぬ夜(よる)の室(むろ)に濃き愁ひもて
釀(か)みにたる酒にしあれば、唇に
そのささやきを日もすがら味(あぢは)ひ知りぬ、
わが君よ、絶間もあらぬ誄辭(しぬびごと)。

何の痛みか柔かきこの醉(ゑひ)にしも
まさらむや、嘆き思ふは何なると
占問(うらど)ひますな、夢の夢、君がみ苑(その)に
ありもせば、こは蜉蝣(かげろふ)のかげのかげ。

見おこせたまへ盞(さかづき)を、げに美(うる)はしき
おん眼(め)こそ翅(つばさ)うるめる乙鳥(つばくらめ)、
透影(すいかげ)にして浮び添(そ)ひ映り徹(とほ)りぬ、

いみじさよ、濁れる酒も今はとて
輝き出(い)づれ、うらうへに、靈(たま)の欲(ほ)りする
蠱(まじ)の露。――いざ諸共に乾(ほ)してあらなむ。


咽(むせ)び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗(しや)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、
或日は映(うつ)る君が面(おも)、媚(こび)の野にさく
阿芙蓉(あふよう)の萎(ぬ)え嬌(なま)めけるその匂ひ。

魂(たま)をも蕩(た)らす私語(ささめき)に誘はれつつも、
われはまた君を擁(いだ)きて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、――君が腕(かひな)に、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。

また或宵は君見えず、生絹(すずし)の衣(きぬ)の
衣(きぬ)ずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、

茉莉花(まつりくわ)の夜(よる)の一室(ひとま)の香(か)のかげに
まじれる君が微笑(ほほゑみ)はわが身の痍(きず)を
もとめ來て沁(し)みて薫(かを)りぬ、貴(あて)にしみらに。


熟(つ)えて落ちたる果(このみ)かと、噫(ああ)見(み)よ、空に
日は搖(ゆら)ぎ、濃くも腐(あざ)れし光明(くわうみやう)は
喘(あへ)ぎ黄ばみて灣(いりうみ)の中に滴(したた)り、
波に溶(と)け、波は咽(むせ)びぬたゆたげに。

磯回(いそわ)のすゑの圓石(まろいし)はかくれてぞ吸ふ、
飽き足らひ耀(かがや)き倦(う)める夕潮(ゆふじほ)を、
石の額(ひたへ)は物うげの瑪瑙(めなう)のおもひ、
かくてこそ暫時(しばし)を深く照らしぬれ。

風にもあらず、浪の音、それにもあらで、
天地(あめつち)は一つ吐息(といき)のかげに滿ち、
沙(いさご)の限り彩(あや)もなく暮れてゆくなり。

たづきなさ――わが魂は埋(うづも)れぬ、
こゝに朽ちゆく夜(よる)の海の香(にほひ)をかぎて、
寂靜(じやくじやう)の黒き眞珠(またま)の夢を護らむ。


晝の思(おもひ)の織り出でし紋(あや)のひときれ、
歡樂(くわんらく)の緯(ぬき)に、苦悶の經(たて)の絲、
縒(よ)れて亂るる條(すぢ)の色、あるは叫びぬ、
あるはまた醉(ゑ)ひ痴(し)れてこそ眩(めくる)めけ。

今、夜(よる)の膝、やすらひの燈(ともし)の下(もと)に、
卷き返し、その織りざまをつくづくと
見れば朧(おぼろ)に危(あやふ)げに、眠(ねぶ)れる獸(けもの)、
倦(う)める鳥――物の象(かたち)の異(こと)やうに。

裁(た)ちて縫はさむかこの巾(きれ)を、宴(うたげ)のをりの
身の飾(かざり)、ふさはじそれも、終(つひ)の日の
棺衣(かけぎぬ)の料(れう)、それもはた物狂ほしや。

生(せい)にはあはれ死の衣(ころも)、死にはよ生(せい)の
空※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)(そらだき)の匂ひをとめて、現(うつつ)なく、
夢はゆらぎぬ、柔かき火影(ほかげ)の波に。


寄せては返す浪もなく、ただ平(たひ)らかに
和(なご)みたる海にも潮(しほ)の滿干(みちひ)あり、
げにその如く騷(さわ)だたぬ常の心を
朝夕に思(おもひ)は溢れ、また沈む。


黄(きば)みゆく木草(きぐさ)の薫り淡々(あはあは)と
野の原に、將(は)た水(みづ)の面(も)にただよひわたる
秋の日は、清げの尼のおこなひや、
懴悔の壇(だん)の香(かう)の爐(ろ)に信(しん)の心の
香木(かうぼく)の膸(ずゐ)の膏(あぶら)を※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)(た)き燻(く)ゆし、
きらびやかなる打敷(うちしき)は夢の解衣(ときぎ)、
過ぎし日の被衣(かつぎ)の遺物(かたみ)、――靜やかに
垂れて音なき繍(ぬひ)の花、また襞(ひだ)ごとに、
ときめきし胸の名殘(なごり)の波のかげ、
搖めきぬとぞ見るひまを聲は直泣(ひたな)く――
看經(かんぎん)の、噫(ああ)、秋の聲、歡樂と
悔(くい)と念珠(ねんじゆ)と幻と、いづれをわかず、
ひとつらに長き恨(うらみ)の節細く、
雲の翳(かげり)にあともなく滅(き)えてはゆけど、
窮(きは)みなき輪廻(りんね)の業(ごふ)のわづらひは
落葉の下(もと)に、草の根に、潜みも入るや、――
その夕(ゆふべ)、愁の雨は梵行(ぼんぎやう)の
亂れを痛みさめざめと繁(しじ)にそそぎぬ。


ゆるやかにただ事もなく流れゆく
大河(たいが)の水の薄濁り――邃(ふか)き思ひを
夢みつつ塵(ちり)に同(どう)じて惑(まど)はざる
智識のすがたこれなめり、鈍(おぞ)しや、われら
面澁(おもしぶ)る唖(おし)の羊(ひつじ)の輩(ともがら)は
堤の上をとみかうみわづらひ歩(あり)く。
しかすがに聲なき聲の力(ちから)足(た)り、
眞晝かがよふ法(のり)を布(し)く流を見れば、
經藏(きやうざう)の螺鈿(らでん)の凾(はこ)の蓋(ふた)をとり、
悲願(ひぐわん)の手もて智慧(ちゑ)の日の影にひもどく
卷々(まきまき)の祕密の文字の飜(こぼ)れ散る、――
げに晴れ渡る空の下(もと)、河の面(おもて)の
紺青(こんじやう)に黄金(こがね)の光燦(きら)めくよ、
かかる折こそ汚(けが)れたる身も世も薫(かを)れ、
時さらず、癡(し)れがましさや、醜草(しこぐさ)の
毒になやみて眩(めくるめ)き、あさり食(は)みぬる
貪(むさぼり)の心を悔いてうち喘(あへ)ぎ、
深くも吸へる河水(かはみづ)の柔かきかな、
母(おも)の乳(ちち)、甘くふくめる悲みは
醉(ゑひ)のここちにいつとなく沁(し)み入りにけり。
源(みなもと)は遠き苦行(くぎやう)の山を出で、
平等海(びやうどうかい)にそそぎゆく久遠(くをん)の姿、
たゆみなく、音なく移る流(ながれ)には
解けては結ぶ無我(むが)の渦、思議(しぎ)の外(ほか)なる
深海(ふかうみ)の眞珠をさぐる船の帆ぞ
今照りわたる、――智(さとり)なき身にもひらくる
心眼(しんがん)の華(はな)のしまらくかがやきて、
さてこそ沈め、靜かなる大河(たいが)の胸に。


甕(かめ)の水濁りて古し、
このゆふべ、覆(くつが)へしぬる、
甕の水、
惜しげなき逸(はや)りごころに。

音鈍(にぶ)し、水はあへなく、
あざれたる溝(みぞ)に這ひ寄り、
音鈍し、
呟(つぶ)やける「夢」のくちばみ。

去(い)ねよ、わが古きは去ねよ、
水甕の濁き底濁り、
去ねよ、わが――
噫(ああ)、なべて澱(をど)めるおもひ。

耀(かがや)きぬ雲の夕映(ゆふばえ)、
いやはての甕の雫に、
耀きぬ、――
わがこころかくて驚く。

「戀」なりや、雫の珠は、
げに清し、ふるびぬにほひ、
「戀」なりや、
珠は、あな、闇きに沈む。

夜(よ)となりき、嘆くも果敢(はか)な、
空しかる甕を抱(いだ)きて、
夜(よ)となりき、
あやなくもこころぞ渇く。


日射しの
緑ぞここちよき。
あやしや
並(な)みたち樹蔭路(こかげみち)。

よろこび
あふるる、それか、君、
彼方(かなた)を、
虚空(こくう)を夏の雲。

あかしや
枝さすひまびまを
まろがり
耀(かがや)く雲の色。

君、われ、
二人が樹蔭路、
緑の
匂ひここちよき。

軟風(なよかぜ)
あふぎて、あかしやの
葉は皆
たゆげに飜(ひるがへ)り、

さゆらぐ
日影の朱(しゆ)の斑(まだら)、
ふとこそ
みだるれわが思。

君はも
白帆の澪(みを)入りや、
わが身に
あだなる戀の杙(かし)。

軟風(なよかぜ)
あふぎて澪(みを)逸(そ)れぬ、
いづくへ
君ゆく、あな、うたて。

思ひに
みだるる時の間を
夏雲
重げに崩れぬる

緑か、
朱か、君、あかしやの
樹(こ)かげに
あやしき胸の汚染(しみ)。


喘(あへ)ぎて上(のぼ)るなだら坂――わが世の坂の中路(なかみち)や、
並樹の落葉熱き日に燒けて乾きて、時ならで
痛み衰へ、たゆらかに梢離れて散り敷きぬ。

落葉を見れば、片焦(かたこ)げて※(「金+肅」、第3水準1-93-39)(さ)び赤らめるその面(おもて)、
端(はし)に殘れる緑にも蟲づき病める瘡(きず)の痕(あと)、
黒斑(くろふ)歪(ひず)みて慘(いた)ましく鮮明(あざやか)にこそ捺(お)されたれ。

また折々は風の呼息(いき)、吹くとしもなく辻卷(つじま)きて、
燒け爛(ただ)れたる路の砂、惱(なやみ)の骸(から)の葉とともに、
燃ゆる死滅の灰を揚ぐ、噫(ああ)、わりなげの悲苦(ひく)の遊戲(ゆげ)。

一群(ひとむら)毎に埃がち憩(いこ)ふに堪へぬ惡草(あくさう)は
渇(かわき)をとめぬ鹽海(しほうみ)の水にも似たり。ひとむきに
心焦(い)られて上(のぼ)りゆく路はなだらに盡きもせず。

夢の萎(しな)への逸樂(いつらく)は、今、貴人(あてびと)の車にぞ
搖られながらに眠(ねぶ)りゆく、その車なる紋章は
倦(うん)じ眩(くる)めくわが眼(め)にも由緒(よし)ありげなる謎の花。

身も魂も頽(くづ)をれぬ、いでこのままに常闇(とこやみ)の
餌食(ゑじき)とならばなかなかに心安かるこの日かな、
惱盡きせぬなだら坂、路こそあらめ涯(はて)もなし。


人は今地に俯してためらひゆけり、
疎(うと)ましや、頸垂(うなだ)るる影を、軟風(なよかぜ)
掻撫(かいな)づるひと吹(ふき)に、桑の葉おもふ
蠶(かひこ)かと、人は皆頭(かうべ)もたげぬ。

何處(いづこ)より風は落つ、身も戰(をのの)かれ、
我しらず面(おも)かへし空を仰げば、
常に飢ゑ、※(「厭/(餮-殄)」、第4水準2-92-73)(あ)きがたき心の惱み、
物の慾、重たげにひきまとひぬる。

地は荒れて、見よ、ここに「饑饉(ききん)」の足穗(たりほ)、
うつぶせる「人」を誰(た)が利鎌(とがま)の富と
世の秋に刈り入るる、噫(ああ)、さもあれや、
畏(おそ)るるはそれならで天(あめ)のおとづれ。

たまさかに仰ぎ見る空の光の
樂(がく)の海、浮ぶ日の影のまばゆさ、
戰(をのの)ける身はかくて信(しん)なき瞳
射ぬかれて、更にまた憧(あくが)れまどふ。

何處(いづこ)へか吹きわたり去(い)にける風ぞ、
人は皆いぶせくも面(おもて)を伏せて、
盲(めし)ひたる魚(うを)かとぞ喘(あへ)げる中を
安からぬわが思(おもひ)、思を食(は)みぬ。

失ひし翼をば何處(いづく)に得べき、
あくがるる甲斐もなきこの世のさだめ、
わが靈(たま)は痛ましき夢になぐさむ、
わが靈は、あな、朽つる肉(ししむら)の香(か)に。


現(うつつ)こそ白(しら)けたれ、香油(にほひあぶら)の
艶も失(う)せ、物なべて呆(ほほ)けて立てば、
夢映すわが心、鏡に似てし
性(さが)さへも、痴(うつ)けたる空虚(うつろ)に病みぬ。

在るがまま、便(たづ)きなき、在るを忍びて、
文(あや)もなし、曲もなし、唯あらはなり、
臥房(ふしど)なき人の生(よ)や裸形(らぎやう)の「痛み」、
さあれ身に惱みなし、涙も涸(か)れて。

追想(おもひで)よ、ここにして追想ならじ、
燈火(ともしび)の滅(き)えにたる過去の火盞(ほざら)と
煤(すす)びたり、そのかみの物はかなさを、
悦びを、などかまた照らし出づべき。

眼(ま)のあたり佗しげの徑(こみち)の壞(くづ)れ、
悲みの雨(あま)そそぎ洗ひさらして、
土の膚(はだ)すさめるを、まひろき空は、
さりげなき無情(つれな)さに晴れ渡りぬる。

狼尾草(ちからしば)ここかしこ、光射かへす。
貝の殼、陶(すゑ)ものの小瓶(をがめ)の碎け――
あるは藍、あるは丹(に)に描ける花の
幾片(いくひら)は、朽ちもせで、路のほとりに。

靈(たま)燻(く)ゆる海の色、宴(うたげ)のゑまひ、
皆ここに空(あだ)の名や、噫、望なし、
匂ひなし、この現(うつつ)われを囚(とら)へて、
日は檻(をり)の外よりぞ酷(むご)くも臨む。


人の世はいつしか
たそがれぬ、花さき
香(か)に滿ちし世も、今、
たそがれぬ靜かに。

滅(き)えがてに、見はてぬ
夢の影、裾ひく
薄靄の眼のうち
あなうつろなるさま。

人の世の燈火(ともしび)、
ほのぐらき樹(こ)の間を、
わびしらに嘆くか、
燈火の美鳥(うまどり)。

母の鳥――天(あめ)なる
日のゆくへ慕ひて
泣きいさち嘆かふ
聲のうらがなしさ。

燈火のうま鳥、
うらぶれの細音(ほそね)に
かずかずの念(おもひ)の
珠(たま)をこそ聞け、今。

闇(やみ)墜(お)ちぬ、にほひも
はた色もひとつの
音に添ひぬ、燈火
遠ながき笛の音(ね)……


向日葵(ひぐるま)の蘂(ずゐ)の粉の黄金(こがね)にまみれ、
 あな、夕まぐれ、
朽ちはつる草びらや、
草びらは唯わびしらに。

この夕、雲明(あか)き空には夏の
 あな、榮(はえ)もあれ、
薄ぐらき物かげを
草びらは終りの寢所(ふしど)。

誓願(せいぐわん)は向日葵(ひぐるま)に――菩提(ぼだい)の東、
 あな、涅槃(ねはん)の西、
宿縁(しゆくえん)は草びらに、
草びらは靜かに默(もだ)す。

向日葵は蘂の粉の黄金の雨の
 あな、涙もて
朽ちはてて壞(くづ)れゆく
草びらの胸を掩ひぬ。


椶櫚(しゆろ)の葉音に暮れてゆく夏の夕暮、
 たゆまるる椶櫚のはたはた、
裂葉(さけば)よ、あはれ莖長く葉末は折れて垂(た)れ顫(ふる)へ、
天(あめ)に捧げし掌(たなごころ)、――絶入(ぜつじゆ)の悶(もだ)え。

さもこそあらめ、淨念(じやうねん)の信士(しんし)その人、
 孤獨なる祈誓(きせい)に喘(あへ)ぎ、
胸に籠めたる幻(まぼろし)を雲に痛みて、地のほめき――
そをだに香(かう)の燻(く)ゆるかと頼めるけはひ。

偉(おほい)なるかな空(そら)の宵、天(あめ)の廣葉は
 圓(まど)かにて、呼息(いき)ざし深く、
物皆かげに搖めきて暗うなる間を明星(みやうじやう)や、
見よ、永劫(とことは)の嚴(いづ)の苑(その)、光のにほひ。

ここにては、噫、晝の濤(なみ)、夜(よる)の潮(うしほ)と
 捲きかへるこころの鹹(から)さ、
信(しん)の涙か、憧憬(あくがれ)の孤寂の闇の椶櫚(しゆろ)の花
幹を傳ひてほろほろと根にぞこぼるる。


紺瑠璃(こんるり)の
潮滿ちに、渚(なぎさ)の
縁(ふち)さへも
ひびわれむばかりや。

風は和(な)ぎ、
浪は伏す深海(ふかうみ)、
天津日(あまつひ)は
輝きぬ、まどかに。

いづこをか
もとめゆく、この時、
船の帆よ、
徐(おもむろ)に、彼方(かなた)へ。

幸(さち)か、船、
帆章(ほじるし)は判(わか)たね、――
生もはた
死の如し、この時。

あまりにも
足らひたり、海原(うなばら)、
靜けさは
嵐にも似たりや。

天津日(あまつひ)は
うるほひて、日の暈(かさ)、
暈の環(わ)を
虹(にじ)もこそ彩(あや)なせ。

紺瑠璃(こんるり)の
潮(しほ)熟(う)みて浸しぬ、
素胎(すばら)には
あらぬ海、なじかは……

素胎には
あらぬ海、不祥(ふじやう)の
兒(こ)や生(あ)るる、――
虹の色かつ滅(き)ゆ。

幸か船、
帆じるしは判(わか)たね、
いづこをか
もとめゆく、この時。


光のとばりぎぬ
ゆららに風わたる。
まひろく、はた青き
皐月(さつき)の空のもと。

いのちの一雫(ひとしづく)
めぐみぬ、わが胸の
階(きざはし)、かぎろひを
きざめるそのほとり。

めぐみぬ、花さきぬ、
耀(かが)よふ玉の苑(その)、
かすかに花くんじ、
かすかにくづれゆく。

※(「日/咎」、第3水準1-85-32)(ひかげ)はゆるやかに
うつりて、階(きざはし)を
垂れ曳く丈(たけ)の髮、
※(「日/咎」、第3水準1-85-32)(ひかげ)ぞ夢みぬる。

さもあれ戀の、嗚呼(ああ)、
みなしご――わが魂(たま)は
いのちの花かげに
痛みて聲もなし。


薄ぐもる夏の日なかは
愛欲の念(おもひ)にうるみ
底もゆるをみなの眼(め)ざし、
むかひゐてこころぞ惱む。

何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
執(しふ)ふかきちからは、やをら、
重き世をまろがし移す。

窓の外(と)につづく草土手、
きりぎりす氣まぐれに鳴き、
それも今、はたと聲絶え、
薄ぐもる日は蒸し淀む。

ややありて茅(かや)が根を疾(と)く
青蜥蜴(あをとかげ)走りすがへば、
ほろほろに乾ける土は
ひとしきり崖をすべりぬ。

なまぐさきにほひは、池の
上(うは)ぬるむ面(おも)よりわたり、
山梔(くちなし)の花は墜(お)ちたり、――
朽ちてゆく「時」のなきがら。

何事の起るともなく、
何ものかひそめるけはひ、
眼(ま)のあたり融けてこそゆけ
夏の雲、――空は汗ばむ。


柔らかき苔に嘆かふ
石だたみ、今眞ひるどき、
たもとほる清らの秋や、
しめやげる精舍(しやうじや)のさかひ。

並び立つ樅(もみ)の高樹(たかぎ)は、
智識めく影のふかみに
鈍(ね)びくゆる紫ごろも、
合掌(がつしやう)の姿をまねぶ。

しめやげる精舍のさかひ、――
石だたみ音もかすかに
飜る落葉は、夢に
すすり泣く愁(うれひ)のしづく。

かぎりなき秋のにほひや、
白蝋(びやくらふ)のほそき焔(ほのほ)と
わがこころ、今し、靡(なび)かひ、
ふと花の色にゆらめく。

花の色――芙蓉(ふよう)の萎(しな)へ、
衰への眉目(まみ)の沈默(もだし)を。
寂(さび)の露しみらに薫(くん)ず、
かにかくに薄きまぼろし。

しめやげる精舍に秋は
しのび入り滅(き)え入るけはひ、
ほの暗きかげに燦(きら)めく
金色(こんじき)のみ龕(づし)の光。


傳へ聞く彼(か)の切支丹(キリシタン)、古(いにしへ)の惱(なやみ)もかくや――
影深き胸の黄昏(たそがれ)、密室(みつしつ)の戸は鎖(さ)しもせめ、
戰(をのの)ける想(おもひ)の奧に「我」ありて伏して沈めば、
魂(たましひ)は光うすれて塵と灰「心」を塞(ふさ)ぐ。

懼(おそろ)しき「疑(うたがひ)」は、噫(ああ)、自(みづから)の身にこそ宿れ、
他(あだ)し人責めも來なくに空しかる影の戲(たは)わざ、
こは何ぞ、「畏怖(ゐふ)」の黨(ともがら)群(む)れ寄せて我を圍むか。
脅(おびやか)す假(かり)裝(よそほ)ひに松明(たいまつ)の焔(ほのほ)つづきぬ。

聖(サンタ)麻利亞(マリヤ)、かくも弱(よわ)かる罪人(つみびと)に信(しん)の潮(うしほ)の
甦(よみがへ)り、かつめぐり來て、「肉(ししむら)」の渚(なぎさ)にあふれ、
俯伏(うつぶせ)に干潟(ひがた)をわぶる貝の葉の空虚(うつろ)の我も
敷浪(しきなみ)の法喜(ほふき)傳へて御惠(みめぐみ)に何日かは遇(あ)はむ。

さもあれや、わが「性欲(せいよく)」の里正(むらをさ)は窺(うかが)ひ寄りて、
禁制(きんぜい)の外法(げほふ)の者と執(しふ)ねくも罵(ののし)り逼(せま)り、
ひた強(し)ひに蹈繪(ふみゑ)の型を蹈(ふ)めよとぞ、あな淺ましや、
我ならで叫びぬ、『神よ此身をば磔(き)にも架(か)けね』と。

硫黄(いわう)沸(わ)く煙(けぶり)に咽び、われとわが座より轉(まろ)びて、
火の山の地獄の谷をさながらの苦惱に疲れ、
死(う)せて又生くと思ひぬ、――夢なりき、夜(よる)の神壇、
蝋の火を點(とも)して念ず、假名文(かなぶみ)の御經(みきやう)の祕密。

待たるるは高き洩るる啓示(みさとし)の聲の耀(かがや)き、――
信(しん)のみぞ其(その)證人(あかしびと)、罪深き内心ながら
われは待つ、天主の姫が讃頌(さんしよう)の聲朗かに、
事果(はて)て、『汝(なれ)を恕(ゆる)す』と宣(のたま)はむその一言(ひとこと)を。


陰濕(いんしつ)の「嘆(なげき)」の窓をしも、かく
うち塞(ふさ)ぎ眞白にひたと塗り籠(こ)め、
そが上に垂れぬる氈(かも)の紋織(あやおり)、――
朱(あけ)碧(みどり)まじらひ匂ふ眩(まば)ゆさ。

これを見る見惚(みほ)けに心惑(まど)ひて、
誰を、噫(ああ)、請(しやう)ずる一室(ひとま)なるらむ、
われとわが願(ねがひ)を、望を、さては
客人(まらうど)を思ひも出でず、この宵。

唯(ただ)念(ねん)ず、しづかにはた圓(まど)やかに
白蝋(びやくらふ)を黄金(こがね)の臺に點(とも)して、
その焔(ほのほ)いく重の輪をしめぐらし
燃えすわる夜すがら、われは寢(い)ねじと。

徒然(つれづれ)の慰(なぐ)さに愛の一曲(ひとふし)
奏(かな)でむとためらふ思ひのひまを、
忍び寄る影あり、誰(た)そや、――畏怖(おそれ)に
わが脈の漏刻(ろうこく)くだちゆくなり。

長き夜を盲(めしひ)の「嘆(なげき)」かすかに
今もなほ花文(けもん)の氈(かも)をゆすりて、
呼息(いき)づかひ喘(あへ)げば盛りし燭(しよく)の
火影(ほかげ)さへ、益(やく)なや、しめり靡(なび)きぬ。

癡(し)れにたる夢なり、こころづくしの
この一室(ひとま)、あだなる「悔(くい)」の蝙蝠(かはほり)
氣疎(けうと)げにはためく羽音(はおと)をりをり
音なふや、噫(ああ)などおびゆる魂(たま)ぞ。


やはらかき寂(さ)びに輝く
壁の面(おも)、わが追憶(おもひで)の
靈(たま)の宮、榮(はえ)に飽きたる
箔(はく)おきも褪(あ)せてはここに
金粉(きんぷん)の塵(ちり)に音なき
滅(めつ)の香(か)や、執(しふ)のにほひや、
幾代々(いくよよ)は影とうすれて
去(い)にし日の吐息かすけく、
すずろかに燻(く)ゆる命の
夢のみぞ永劫(とは)に往(ゆ)き來(か)ひ、
ささやきぬ、はた嘆かひぬ。
あやしうも光に沈む
わが胸のこの壁の面(おも)、
惱ましく鈍(ね)びては見ゆれ、
倦(うん)じたる影の深みを
幻は浮びぞ迷ふ、――
つややかに、今、緑青(ろくしやう)の
牧(まき)の氈(かも)、また紺瑠璃(こんるり)の
彩(あや)も濃き花の甘寢(うまい)よ、
更にわが思ひのたくみ、
われとわが宿世(すぐせ)をしのぶ
醉(ゑひ)ごこち、痴(し)れのまどひか、
眼(ま)のあたり牲(にへ)の仔羊(こひつじ)、
朱(あけ)の斑(ふ)の痛(いたみ)と、はたや
愛欲の甘き疲れの
紫の汚染(しみ)とまじらふ
業(ごふ)のかげ、輪廻(りんね)の千歳(ちとせ)、
束の間に過(す)がひて消ゆれ、
幾たびか憧(あく)がれかはる
肉村(ししむら)の懴悔(ざんげ)の夢に
朽ち入るは梵音(ぼんおん)どよむ
西天(さいてん)の涅槃(ねはん)の教――
埋(うづも)れしわが追憶(おもひで)や。
わづらへる胸のうつろを
煩惱(ぼんなう)の色こそ通へ、
物なべて化現(けげん)のしるし、
默(もく)の華、寂(じやく)の妙香(めうかう)、
さながらに痕もとどめぬ
空相(くうさう)の摩尼(まに)のまぼろし。


底の底、夢のふかみを
あざれたる泥(ひぢ)の香(か)孕(はら)み、
わが思(おもひ)ふとこそ浮べ。

浮※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)(うきなわ)のおもひは夢の
大淀(おほよど)のおもてにむすび、
ゆららかにゑがく渦の輪。

滯(とどこほ)る銹(さび)の緑に
濃き夢はとろろぎわたり、
呼息(いき)づまるあたりのけはひ。

涯もなく、限も知らぬ
しづけさや、――聲さへ朽ちぬ、
あなや、この物うきおそれ。

浮※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)(うきなわ)はめぐりめぐりぬ、
大淀のおもてに鈍(ね)びて
たゆまるる渦の輪のかげ。

物うげの夢の深みに
魂の失(う)せゆくひまを、
浮※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)(うきなわ)のおもひは破(や)れぬ。

朽ちにたる聲張りあげて
わがおもひ叫ぶとすれど、
空し、ただあざれしにほひ。

涯(はて)もなきこの靜けさや、
めくるめくおそはれごこち、
涯もなき夢のとろろぎ。


なべてのうへに灰いろの
靄こそ默(もだ)せ、日の終(をはり)、
その灰いろに彩(あや)といふ
彩の喘(あへ)ぎを聞くごとし。

冷たく重き冬の靄、
あな、わびしらや、戀も世も
宴(うたげ)も人もひと色に、
信も迷も身も靈(たま)も。

死の林かとあらはなる
木立(こだち)の枝のふしぶしは
痛みぬ、風に――悔(くい)の音、
執着(しふぢやく)の靄灰色に。

過ぎ去りし日の過ぎもかね、
忘れがてなるわが思(おもひ)、
朧のかげのゆきかひに
をののかれぬる冬の靄。


迷ひぬ、ふかき「にるばな」に、
たわやの髮は身を捲きぬ、
たゆげの夜(よる)を煩惱(ぼんなう)は
狎(な)れてむつみぬ、「にるばな」に。

壁にゑがける執(しふ)の花――
閨(ねや)の一室(ひとま)の濃きにほひ、
奇(く)しき花びら、花しべに、
火影(ほかげ)も、嫉(ねた)し、たはれたる。

夢の私語(ささやき)、たわやげる
瑪瑙(めなう)の甘寢(うまい)、「にるばな」よ、
艶も貴(あて)なる敷皮に
嫋(なよ)びしなゆるあえかさや。

愛欲の蔓(つる)まつはれる
窓の夜あけを梵音(ぼんおん)に
祕密の鸚鵡(あうむ)警(いまし)めぬ、――
ああ「にるばな」よ、曉(あけ)の星。

鏡は曇る、薫香(くんかう)に
まじる一室(ひとま)の呼息(いき)ごもり、
鏡は晴れぬ、影と影、
覺めし素膚(すはだ)にわれ迷ふ。


日は嘆きわぶ、人知れず、
日は荒れはてし花園に、――
花の幻、陽炎(かぎろひ)や、
あをじろみたる昨(きそ)のかげ。

日は直泣(ひたな)きぬ、花園に、――
種子(たね)のみだれの穎割葉(かひわれば)、
またいとほしむ、何草(なにぐさ)の
かたみともなき穎割葉。

廢れ荒(すさ)みしただなかに
生(お)ひたつ歌のうすみどり、
ああ、穎割葉(かひわれば)、百(もも)の種子
ひとつにまじる香(か)の雫。

斑葉(いさは)の蔓に罌粟(けし)の花、
醉(ゑひ)のしびれの盞(さかづき)を
われから賞(め)でむ忍冬(すひかづら)――
種子のみだれを、日は嘆く。


沙(いさご)は燬(や)けぬ、蹠(あなうら)のやや痛きかな、
渚(なぎさ)べの慣れし巖(いは)かげに身を避(よ)けて、
磯草の斑(ふ)に敷皮の黄金(こがね)をおもひ、
いざここに限りなき世の夢を見む。

藍(あゐ)や海原(うなばら)、白銀(しろがね)や風のかがやき、――
眼路(めぢ)の涯絶えて翳(かげ)らふものもなく、
ひろき潮に浮び來て帆ぞ照りわたる
遠(をち)の船、さながら幸(さち)の盞(さかづき)と。

なべての人も我もまた絶えず愁へて
渚べを美(うま)し醉(ゑひ)ならぬ癡(し)れ惑ひ、
どよもし返す浪の音、海の胸なる
言(こと)の葉(は)に暗き思ひを溺(おぼ)らしぬ。

今日や夢みむ、幽玄(いうげん)の象(すがた)をしばし、
心(うら)やすし、愁ひは私(ひそか)に這ひ出でて、
海知らぬ國、荒山(あらやま)の彼方(かなた)の森に、
人住まぬ眞洞(まほら)覓(もと)めて行きぬらむ。

さもあらばあれ如何(いかが)せむ、心しらへの
益(やく)なさを嘲(あざ)み顏なる薫習(くんじふ)や、
劫初(ごふしよ)の朝の森の香(か)はなほも殘りて
染(し)みぬらし、わが素膚(すはだ)なる肉(ししむら)に。

更にたどれば神の苑(その)、噫(ああ)そこにしも
晶玉(しやうぎよく)は活きていみじく歌ひけめ、
木(こ)の葉囁(ささや)き苔薫(くん)じ、われも和毛(にこげ)の
おん惠み、深き日影に臥(こや)しけめ。

なべては壞(くづ)れ亂されき、人と生れて、
爭ひて、海の邊(ほとり)に下り來ぬ、
なべては破(や)れし榮(はえ)の屑、(顧みなせそ)
人は皆ここに劃(かぎ)られ、あくがれぬ。

大和田(おほわだ)の原、天の原、二重(ふたへ)の帷(とばり)
徒(いたづ)らにこの彩(あや)もなき世をつつみ、
風の光の白銀(しろがね)に、潮の藍に、
永劫(えいごふ)は經緯(たてぬき)にこそ織られたれ。――

幽玄(いうげん)の夢さもあらめ、待つに甲斐なき
現(うつ)し世に救ひの船は通ひ來ず、
(帆は照せども)、身は疲れ、崩れ崩るる
浪頭(なみがしら)、蠱(まじ)の羽とぞ飜る。

虚(うつろ)の靈(たま)は涯知らぬ淵に浮びて、
身はあはれ響動(どよも)す海の渚べに、――
またも此時わが愁、森を出でたる
獸(けもの)かと跫音(あしおと)忍びかへり來ぬ。


ひき潮(じほ)ゆるやかに、
見よ、ひきゆくけはひ、
堀江に船もなし、
船人(ふなびと)、船歌も。

濁れる鈍(にび)の水脈(みを)
くろずむひき潮(じほ)に、
堀江のわびしらや、
そこれる水脈(みを)のかげ。

さびしき河岸(かし)の上
うごめく海蛆(ふなむし)の
あな、身もはかなげに
怖(お)ぢつつ夢みぬる。

慕はし、海の香(か)の、――
風こそ通へ、今、
曇りてなよらかに
こもりぬ、海の香(か)は。

濁れる堀江川
くろずむ水脈(みを)のはて、
入海たひらかに
かがやく遠渚(とほなぎさ)。

かなたよ、海の姫、
鴎か舞ひもせむ、
身はただ海蛆(ふなむし)の
怖(お)ぢつつ醉(ゑ)ひしれぬ。

ひき潮(じほ)いやそこり
黒泥(くろひぢ)の水脈(みを)の底、
堀江に船も來ず、
ましてや水手(かこ)の歌。


大鋸(おが)をひくひびきはゆるく
ひとすぢに呟やくがごと、
しかはあれ、またねぶたげに。

いや蒸しに夏のゆふべは、
風の呼息(いき)暑さの淀を
練りかへすたゆらの浪や。

河岸(かし)にたつ材小屋(きごや)のうちら、
大鋸(おが)をひく鈍きひびきは
疲れぬる惱みの齒がみ。

うら、おもて、材小屋(きごや)の戸口、――
生(なま)あをき水の香(か)と、はた
あからめる埃のにほひ。

幅びろの大鋸(おが)はうごきぬ、
鈍き音、――あやし獸(けもの)の
なきがらを沙(いさご)に摩(す)るか。

はらはらと血のしたたりの
おがの屑あたりに散れば、
材(き)の香(か)こそ深くもかをれ。

大鋸(おが)はまたゆるく動きぬ、
夕雲の照りかへしにぞ
小屋ぬちはしばし燃えたる。

大鋸(おが)ひきや、こむら、ひかがみ、
肩の肉(しし)、腕(かひな)の筋と、
まへうしろ、のび、ふくだみて、

素膚(すはだ)みな汗に浸(ひた)れる
このをりよ、材(き)の香(か)のかげに
われは聽く、蝮(はみ)のにほひを。

夜(よる)の闇這ひ寄るがまま、
大鋸(おが)ひきは大鋸をたたきて、
たはけたる歌の濁(だみ)ごゑ。


夜(よ)も日もわかず一室(いつしつ)は、げに畏(おそろ)しき電働機(モオトル)の
聲の唸りの噴泉(ふんせん)よ、越歴幾(エレキ)の森の木深(こぶ)けさや、
うちに靈獸潜(ひそ)みゐて青き炎(ほのほ)を牙(き)に齒(か)めば、
ここに「不思議」の色身(しきしん)は夢幻の衣(きぬ)を擲(なげう)ちぬ。

かの底知れぬ海淵(かいえん)も、この現實の祕密には
深きを比べ難からむ、彼は眠(ねぶ)りて寢(ね)おびれて、
唯惡相の魚(うを)にのみ暗き心を悸(をのの)かし、
これは調和の核心(かくしん)に萬法(ばんぱふ)の根を誘ふなる。

舊きは廢(すた)れ街(まち)衢(ちまた)、また新しく榮ゆべき
花の都の片成(かたな)りに成りも果てざる土の塊(くれ)、
塵に塗(まみ)るる草原の、その眞中(ただなか)に畏(おそろ)しき
大電働機(だいモオトル)の響こそ日も夜もわかね、絶間なく。

船より揚げし花崗石(くわかうせき)河岸(かし)の沙(いさご)に堆(うづたか)し、
いづれ大厦(たいか)の礎(いしずゑ)や、彼方(かなた)を見れば斷え續く
煉瓦(れんぐわ)の穹窿(アアチ)。人はこの紛雜(ふんざつ)の裡(うち)に埋れて
(願はあれど名はあらず)、力と技(わざ)に勵みたり。

嗚呼(ああ)、想界(さうかい)に新(あらた)なる生(いのち)を享(う)くる人もまた
胸に轟く心王(しんわう)の烈しき聲にむちうたれ、
築き上ぐべき柱には奇(く)しき望の實相を
深く刻みて、譽(ほまれ)なき汗に額をうるほさむ。

さあれ車の鐵の輪(りん)、軸に黄金(こがね)のさし油
注げば空を疾(と)く截(き)りて大音震ふ電働機(モオトル)や、
その勢の渦卷の奧所(おくが)に聽けよ靜寂を、――
活ける響の瑠璃(るり)の石、これや「眞(まこと)」の金剛座(こんがうざ)。

奇(く)しくもあるかな、蝋石(らふせき)の壁に這ひゆく導線(だうせん)は
越歴幾(エレキ)の脈の幾螺旋(いくらせん)、新(あらた)なる代に新なる
生命(いのち)傳ふる原動の、その力こそ淨妙華(じやうめうげ)、
法音(ほふおん)開く光明の香(にほひ)ぞ人に逼(せま)り來る。


靜かに眠(ねぶ)りて、寢魂(ねるたま)の夜(よる)の宮にも事あらで、
いと爽(さは)らかに青みたる晨(あした)に寤(めざ)め、見かへれば、
傴僂(くぐせ)に似たる「昨(きそ)」の日は過ぎゆく「時」の杖に縋(すが)り、
何方(いづち)去(い)にけむ、思ひ屈(く)して惱みし我も心(うら)解けぬ。

零(こぼ)れし種子(たね)の奇(く)しきかな、我生(わがよ)荒(すさ)める※(「石+角」、第3水準1-89-6)(そね)にだに
惠み齎(もた)らす「信樂(しんげう)」の朝の一つや、何物も
これには代へじ、「慈悲」の御手(みて)は祕むれど、銀の衡(はかりざを)、
金(きん)の秤目(はかりめ)、その極(はて)の星にかかれる身の錘(おもり)。

實(げ)に靜まれる日の朝け、曾て覺えぬ悦(よろこび)に
痩屈(やさか)み冷えしわが胸は、雪消(ゆきげ)に濕り、冬過ぎて、
地(つち)の照斑(てりふ)と蒲公英(たな)の花、芽ぐむ外(と)の面(も)のつつましき
春さながらの若萌(わかもえ)にきざす祈誓(きせい)ぞほのかなる。

何とはなしに自(おのづか)ら耳を澄せば遠方(をちかた)に
浪どよみ風の戰(そよ)めける音をし尋(と)むる心地して、
憧(あく)がれわたる窓近く小鳥轉じてまぎれむと
惧(おそ)るる隙(ひま)に聞きわきぬ、過去遠々(をんをん)の代(よ)をここに。

かくて浮ぶるわが「宿世(すぐせ)」、瞳徹(とほ)れる手弱女(たをやめ)の
頸(うなじ)をめぐる珠飾(たまかざり)、譬へばそれが、鳴響き、
瑠璃(るり)はささやく紅玉(こうぎよく)に、(さあれ苦の緒(を)の一聯(ひとつらね))、
緑に將(はた)や紫に、愛の、欣求(ごんぐ)の、信の顆(つぶ)。

げにこの朝の不思議さを翌(あす)の夕にうち惑ひ、
わが身をさへに疑はば、惡風さらに劫(ごふ)の火を
誘ひて行手塞(ふさ)ぎなば、如何(いかが)はすべき、弛(たゆ)まるる
腕(かひな)は渇く唇に淨水(じやうすゐ)掬(むす)ぶ力なくば。

あるは曲れる「癡(ち)」の角にいと鈍(おぞ)ましき「慾」の牛、
牧場に足らふ安穩(あんのん)の命に倦みて、すずろかに
埓(らち)のくづれを踰(こ)えゆかば、星も照らさぬ夜(よる)の道、
後世(ごせ)の善所(ぜんしよ)を誰かまた鞭うち揮ひ指ししめす。

あるは木強(きすぐ)の本性(ほんじやう)に潜む蠻夷(えみし)の幾群の
集(つど)ふやとばかり、われとわが拓(ひら)かぬ森の下蔭に
思ひ惑(まど)ふや、襲ひ來る彼の殘逆(ざんげき)の矛槍(ほこやり)を
血ぬらぬ前に淨めなむ心しらへのありや、否(いな)。

悲願の尊者、諸菩薩(しよぼさつ)よ、ただ三界(さんがい)に流浪(るらう)する
魂(たま)を憐み御心にかけさせたまへ、ゆくりなく
煩惱(ぼんなう)盡きし朝に遇ひて、今日を捨身(しやしん)の首途(かどいで)や、
遍路の旅に覺王(かくわう)の利生(りしやう)をわれに垂れたまへ。


汗あゆる日も夕(ゆふべ)なり、
空には深き榮映(さかばえ)の
褪(あ)せゆくさまのはかなさは
沙(すな)に塗(まみ)るる彩(あや)の波、――
色うち沈む「西」の湫(くて)や、
黄(あめ)なる牛か、雲群れぬ、
角にかけたる金環(きんくわん)
倦(うん)じくづるる音(ね)のたゆげ。

ここには森の木の樹立(こだち)、
暗き緑に紫の
たそがれの塵(ちり)降(ふ)りかかり、
塵は遽(には)かに生(しやう)を得て、
こは九萬疋(くまびき)の闇の羽、
微かにふめき、蔭に蒸し、
葉うらを繞(めぐ)り、枝々を
流れてぞゆく「夜(よる)」の巣に。

夏の夕暮、いぶせさや、
不淨のほめき、濕熱(しつねつ)に
釀(かも)す瘟疫(うんえき)、瘧病(ぎやくへい)の、
噫(ああ)、こは森か、こぶかげに
將(は)た音もなきさまながら、
闇にこもれる幹と枝、
尖葉(とがりは)、廣葉、しほたれ葉、
噫、こは森か、「惡」の祕所(ひそ)。

火照(ほでり)の天(あめ)の最後(いやはて)の
光咀(のろ)ひて、斑猫(はんめう)は
世をば惑(まど)はす妖法(えうほふ)の
尼(あま)にたぐへるそのけはひ、
靜かに浮び消え去りぬ、
彼方(かなた)、道なき通(みち)の奧、
生(しやう)あるものの胤(たね)を食(は)む
蛇(くちなは)纒(まと)ふ「肉」の廳(ちやう)。

黄泉路(よみぢ)とばかり、「惡」の祕所(ひそ)、
蔓草絡(から)むただなかに、
なべては腐(あざ)れ朽ちゆけど、
樹の幹を沸(わ)く脂(やに)の膸
薫陸(くんろく)とこそ、この時よ、
滴り凝(こ)りて、穢(けが)れたる
身よりさながら淨念(じやうねん)の
泌(し)み出づるごと薫るなれ。

物皆さあれ文(あや)もなく
暮れなむとする夜(よる)の門(かど)、
黒白(こくびやく)の斑(ふ)の翅(つばさ)うち
はためきめぐる蛾(ひとりむし)、
見る眼も迫(せ)かれ、安からぬ
思ひもともにはためきぬ、
かくて不定(ふぢやう)の世もここに
闇の境にはためきぬ。


皐月(さつき)を溝(みぞ)の穢(けが)れ水
かぐろみ蒸して沸(わ)きそふや、
小舍(こや)、廢屋(あばらや)のかたかげに
草どくだみは(花白き
單瓣(ひとへ)ぞ四片(よひら))、朝ゆふべ、
朽木(くちき)を出でて日に障(さや)る
羽蟻(はあり)の骸(から)の墓どころ、
暗きにほひにしたしみぬ。

いかなる罪の凶會日(くゑにち)に
結びそめたる種ならむ、
花どくだみや、統譜(うぢぶみ)の
系(すぢ)をたださば、こは刹利(せつり)、
須陀羅(しゆだら)にあらぬさまかたち、――
花の四片(ひら)は白蓮華(びやくれんげ)、
葉はまろらかに、さはあれど
色のおもてぞ濁りたる。

穢(けが)れて臭(くさ)き醜草(しこぐさ)の、
その類葉(るゐえふ)のひとつには
誰(た)が教へけむ、去りあへぬ
怨嫉(をんしつ)の鬼根に纒(まと)ひ、
生(お)ひかはる芽を咀(のろ)ふにか、
これや曼陀羅(まだら)に織り入れて、
淨土(じやうど)をしめす實相(じつさう)の
花ともなさむ本來(もと)の性。

噫(ああ)、眇目(めうもく)の陰陽師(おむみやうじ)、
古りし「烏(からす)」にまかせなむ、
過去にうけにしどくだみの
占(うら)に知らるる業(ごふ)の象(かた)。
正眼(まさめ)に見れば、道を得て、
ひとり罪負ふ法類(ほふるゐ)や
花には蘂(ずゐ)ぞ輝ける、
闇きを照らす火の匂ひ。

寶鐸(はうちやく)のこゑ曇りたる
皐月(さつき)にこもり、刻々の
「死」は物かげに降り濺(そそ)ぎ、
膿(うな)わく溝の穢(けが)れ水、
朽木を出でて日に障(さや)る
羽蟻は骸(から)を、どくだみの
(單瓣(ひとへ)四片(よひら)の白蓮華(びやくれんげ))、
花に足らへる奧津城(おくつき)に。



よろこびぬ、倦(う)みぬ、
爭ひぬ、厭きぬ。

生命(いのち)の根白く
死の實(み)こそにほへ。

眠(ねぶり)なり、つえぬ、
墮(お)ちぬまを吸ひぬ。


ここよりは路(みち)もなし、
やすし、はた路(みち)の岐(わかれ)も。

蒼白き啜泣(すすりな)き、
聲罅(ひび)くゑまひの狹霧(さぎり)。

魂(たま)と魂あひ寄るや、
寂寞(じやくまく)の、あはれ、晶玉(しやうぎよく)。

死はなべて價(あたひ)のきはみ、
得難しや、されど終(つひ)には。


人々よ、奧津城(おくつき)の冷たき碣(いし)を、
われを、いざ、蹈(ふ)みて立て。烏許(をこ)の輩(ともがら)、
盲(めし)ひたり、躓(つまづ)かめ、將來(ゆくすゑ)遠く
つづきたる階(きざはし)の、われも一段(ひときだ)。


肉は、靈は、
二つのちから、

生は、死はよ、
眞砥(まと)の堅石(かたいし)、

研(みが)きいづれ、
摩尼(まに)の金剛(こんがう)。

あざれし肉
「神」の牲(いけにへ)。

虚(むな)しき靈(れい)
「蝮(まむし)」の智(さとり)。

肉の肉を
われは今おぼゆ。

覺めよ、「人」は
靈(れい)の靈。


ゆをびぬる日南(ひなた)のかをり、
かかる日を冬もこそゆけ、
柔らげる物かげの雪、
枝ゆらぐ垣のいちじゆく。

かかる日を、噫(ああ)、かかる日を
待ちわびぬ、わびしきわが世、
寂寞(じやくまく)の胸の日南(ひなた)を
ゆをびぬる思ひのかをり。

幽(かす)かにも水沼(みぬま)の遠(をち)を
水禽(みづとり)の羽音(はおと)の調(しらべ)。

ひときほひ、嵐はまたも
青空の淵にすさべば
その面(おも)は氷(ひ)の泡だちて
銀(しろがね)の色に燦(きら)めく。

冬はいま終(はて)のいぶきか、
常盤木(ときはぎ)は深くをめきぬ、
いちじゆくの枝はたゆらに
音無(おとなし)の夢のさゆらぎ。

かくて後、時の靜けさ、
かかる日を冬もこそゆけ、
春の酵母(もと)――雪のしたみに
かぐはしの思ひは沸(わ)きぬ。

しかすがに水沼(みぬま)のあなた、
水禽(みづとり)の羽音(はおと)のわかれ。


遠方(をちかた)の樹立(こだち)に、あはれ、
皐月雨(さつきあめ)煙(けぶ)れる奧に、薄き日は
射すともなしに漲(みなぎ)りて
緑に浮び霑(うるほ)へる黄金(こがね)のいぶき。

わが道は雨の中なり、
汗ばめる額を吹きて軟風(なよかぜ)は
蒸しぬ、――心の惱ましさ、
雨に濡れたる礫(こいし)みち、色蒼白く。

熟々(つくづく)と彼方(かなた)を見れば
金蓮(こんれん)の光を刻む精舍(しやうじや)かと、
夢も明るき森つづき、――
さあれ、ここは長坂の下りぞ暗き。

わが道は溝(みぞ)に沿ひたり、
その溝を水は濁りぬ、をりをりは
泥に塗(まみ)れし素足(すあし)して
賤(いや)しきものの過(す)がひゆく醉(ゑ)ひしれざまや。

ここにこそ幽鬱(いぶせき)はあれ、
かたへなる蔭に一樹(ひとき)の橡若葉(とちわかば)、
廣葉(ひろは)はひとり曇りなく、
雨も緑に、さと濺(そそ)ぎ、たたと滴(したた)る。


雲は今たゆらにわたる、
ああ皐月(さつき)、――雲の麝香(じやかう)よ、
麥の香(か)もあたりに薫(くん)ず、
麥の香の波折(なをり)のたゆた。

日は醉(ゑ)ひぬ、緑は蒸しぬ、
ゆをびかに野はうるみたり、
揚雲雀(あげひばり)――阿剌吉(アラキ)のみ魂(たま)、
軟風(なよかぜ)や輕(かろ)き舞ぎぬ。

見よ、瑞枝(みづえ)、若葉のゆらぎ、
ゆらめける梢のひまを
青空や孔雀(くじやく)の尾羽(をばね)、――
數(かず)の珠、瑠璃(るり)のつらなみ。

皐月野(さつきの)の胸のときめき――
節ゆるきにほひの歌ぞ
日に蒸して、緑に醉(ゑ)ひて、
たよたよと傳ひゆきぬる。


ささやきて去(い)にける影や、
盞(さかづき)にしたみし酒は
(飮みさしぬ)、あはれ惱まし、
澁(しぶ)りたる愁(うれひ)に濁る。

ささやきて去(い)にける影や、
おとづれも今はた絶えぬ、
ほど過ぎて風もあらぬに
ひえびえと膚(はだへ)粟(あは)だつ。

うらがれの園にしとれる
石づくゑ、琢(みが)ける面(おも)の
薄鈍(うすにば)み曇るわびしさ、――
「歡樂(よろこび)」は待てどかへらず。

雲は、見よ、空のわづらひ、
吹き棄つる命のかたみ――
「悲(かなしみ)」の螺(かひ)かとばかり
晝の月、痕(あと)こそ痛め。

かくてまた薄らぎ弱る
日のひそみ、風のおとろへ、
黄に默(もだ)す公孫樹(いてふ)の、はたや
灰ばめる楊(やなぎ)の落葉。

一叢(ひとむら)の薔薇(さうび)は、かしこ、
凋(しぼ)みゆく花の褪色(あせいろ)、
くづをるる埋れこころぞ
土の香(か)の寂(さび)れは咽ぶ。

空だのめ、何をかは待つ、――
いつしかに日和(ひより)かはりて
雨もよひ、やや蒸しぬれば、
秋は今ふとき呼息(いき)しぬ。

わりなくも聲になやめる
盞(さかづき)の玻璃(はり)の嘆きと
うつろへる薔薇(さうび)の歌と、
かかる日を名殘(なごり)のしらべ。



華やかに夕日は、かしこ、
矛杉(ほこすぎ)を、檜(ひ)のつらなみを、
華やかに映しいでたる。
(見よ、空の遠(をち)、
夕暮かけて雲すきぬ。)

なからより上を木の幹、
叢葉(むらは)こずゑ、ふとあからかに、
なからより樹(こ)のもと暗く。
(今、空のうへ
冬をなやらふ風のおと。)

夢なりや、木々のいただき、
仰ふぐ眼(め)に瞳ぞ歌ふ、
夢なりや、夢のかがやき。
(雲と風とは
春を迎ふる夕あらび。)


わが脚は冷たき地(つち)に
うゑられぬ、をぐらき惱み、
わが脚は重し、たゆたし。――
冷たき地(つち)は
遁(のが)れもえせぬ「死」の獄(ひとや)。

かぐよへるめぐみのかげに
冥(みやう)をぬく「おもひ」の上枝(ほつえ)、
かぐよへる天(あめ)のみすがたや。――
めぐみのかげは
闇の絃(いと)彈(ひ)く序(じよ)のしらべ。

歡喜(よろこび)のまぢかしや、わが
望の苑(その)、光の流(ながれ)、
歡喜の朝(あした)をまため。――
まぢかしや、それ
夜は荒(すさ)ぶとも、喘(あへ)ぐとも。


うつつなる春に遇ひなば
甲(かん)の黄や、乙の紫、
うつつなる夢にわが身も、――
あはれ身はまた
魂(たま)の常磐(ときは)にしたしまむ。

翌(あす)となり、今日のうれひを
琴(きん)のすみれ、箜篌(くご)のもくれん、
翌となりて興じいでなば、――
さらばこころは
いかが燻(くゆ)らむ、追憶(おもひで)に。

闇おちぬ、今はた空し、
世や、われや、ただひとつらに、
闇おちぬ、闇のくるめき、――
かくて望の
緒をこそまどへ、絶えにきと。


やまうどは微かに呻(うめ)く、わなわなと
胸にはむすぶ雙(さう)の手や、
をみなよ、その手を……
やまうどは寢がへるけはひ。

やまうどの枕を暗く寂しげに
燈火(ともしび)くもる夜(よる)の室(むろ)、
をみなよ、照らしぬ……
やまうどは汗す、額に。

やまうどは何をかもとむ、呼息(いき)づかひ
いと苦しげに呟やける、
をみなよ、聞け、問へ……
やまうどの唇褪(あ)せぬ。

やまうどの眼(まなこ)は轉(まろ)び沈み入り、
さしめぐらしき惱ましさ、
をみなよ、靜かに……
やまうどに夜(よる)の氣(け)熟(う)みぬ。

やまうどは落居(おちゐ)ぬ眠(ねぶ)り、蟀谷(こめかみ)の
脈(すぢ)びよめきて、また弛(ゆる)ぶ、
をみなよ、あな、あな……
やまうどの面(おもて)ほほゑむ。

やまうどをこの束の間に、(その人の
妻たる三年(みとせ))、いかに見る、
をみなよ、畏れな……
やまうどの夢は罅(ひび)きぬ。

やまうどの枕をかへよ、舊(ふ)りぬるも
なほ新たなる布ありや、
をみなよ、いづくに……
やまうどに燈火(ともしび)滅(き)えぬ。


『火はいづこぞ』と女(め)の童(わらは)、――
『見よ、伽藍(がらん)ぞ』と子の母は、――
父は『いぶかし、この夜(よ)に』と。
(鐘は鳴り出づ、梵音(ぼんおん)に、――
       紅蓮(ぐれん)のひびき。)

『伽藍のやねに火ぞあそぶ、
ああ鳩の火か、焔(ほのほ)か』と、
つくづく見入る女(め)の童(わらは)。
(鐘は叫びぬ、梵音に、――
       無明(むみやう)のあらし。)

『火は火を呼びぬ、今、垂木(たるき)、
今また棟木(むなぎ)、――末世(まつせ)の火、
見よ』と父いふ、『皆火なり。』
(鐘はとどろく、梵音に、――
       苦熱(くねつ)のいたみ。)

『火はいかにして莊嚴(しやうごん)の
伽藍(がらん)を燒く』と子の母は、――
父は『いぶかし誰(た)が業(わざ)』と。
(鐘は嘆きぬ、梵音に、――
       癡毒(ちどく)のといき。)

『焔(ほのほ)は流れ、火は湧きぬ、
ああ鳩の巣』と女(め)の童(わらは)、――
父は『燒くるか、人の巣』と。
(鐘はふるへぬ、梵音に――
       壞劫(ゑごふ)のなやみ。)

『焔の獅子座(ししざ)火に宣(の)らす
如來(によらい)の金口(こんく)われ聞く』と、
走りすがひて叫ぶ人。
(鐘はわななく、梵音に、――
       虚妄(こまう)のもだえ。)

『火は内よりぞ、佛燈は、
末法(まつぽふ)の世か、佛殿を
燒く』と、罵(ののし)り謗(そし)る人。
(鐘はすさみぬ、梵音に、――
       ※(「田+比」、第3水準1-86-44)嵐(びらん)のいぶき。)

『鐘樓(しゆろう)に火こそ移りたれ、
今か、今か』と、狂ふ人、――
『鐘の音(ね)燃ゆ』と女の童。
(鐘は絶え入る。梵音に、――
       無間(むげん)のおそれ。)

『母よ、明日よりいづこにて
あそばむ』と、また女の童、――
母は『猛火(みやうくわ)も沈みぬ』と。
(鐘は殘りぬ、梵音に、――
       欲流(よくる)のしめり。)

『父よ、わが鳩燒け失せぬ、
火こそ嫉(ねた)め』と女の童、――
父は『遁れぬ、後追へ』と。
(鐘はにほひぬ、梵音に、――
       出離(しゆつり)のもだし。)


いと小(ち)さき窓
晝も夜(よ)も絶えずひらきて、
劃(かぎ)られし水(みづ)の面(も)の
たゆたひをのみ
倦(うん)じたるこころにしめす。

淀める沼か、
大河か、はたや入江か、
水(みづ)の面(も)の一片(ひとひら)を、
何は知らねど、
絶間なくながめ入りぬる。

蒼白く照る
波の文(あや)、文は撓(たわ)みて
流れ去り、また疊(たた)む
數のすがたは
一々に祕密の意(こころ)。

しかはあなれど
何事もわれは解(げ)し得ず、
晝は見て、夜想ふ、
その限りなさ、
いつまでか斯くてあるべき。

わが魂(たましひ)を
解き放(はな)て、見るは崇高(けだか)き
天(あま)ならず、地(つち)ならず、
ただたゆたへる
水(みづ)の面(おも)、昨日も今日も。

世をば照らさむ
不思議はも耀き出でねと
待ちければ、こはいかに、
わが魂か、
白鵠(びやくこふ)は水に映りぬ。

哀しき鳥よ、
牲(いけにへ)よ、知らずや、波は、
今、溶(と)けし焔(ほのほ)なり、
白き翅(つばさ)も
たちまちに燒け失(う)せなんず。

聞け、高らかに
聲顫(ふる)へ、『父、子、み靈(たま)に
み榮のあれよ』とぞ
讃(ほ)めし聖詠(せいえい)、
臨終(いまは)なる鳥の惱みに。

わが身はかかる
ありさまに眼をしとづれば、
まだ響く、『みさかえ』と、――
窓の外(と)を、そと、
見やる時、こは天(あめ)あらめ。

夕(ゆふべ)の空か
水の面(おも)、こは天(あめ)ならめ、
浮べたる榮光に
星は耀く、
しかすがにうら寂しさよ。

われと嘲(あざ)みて
何ものかわれに叛(そむ)きぬ、
暗き室(むろ)、小(ち)さき窓、
倦(う)みて夢みし
信の夢、――それも空(あだ)なり。

(妻をさきだてし人のもとに)

「おもひで」よ、淨(きよ)き油を汝(な)が手なる
火盞(ほざら)に注ぎ捧げもち、淨き焔の
あがる時、噫(ああ)、亡き人の面影を
夫(せ)の君のため、母を呼ぶ愛(めぐ)し兒(ご)のため、
ありし世のにほひをひきて照らし出で、
かへらぬ魂(たま)をいとどしく悼(いた)める窓の
小暗(をぐら)さに慰め人と添へかしな、
慈眼(じげん)の主(ぬし)はこれをこそ稱(たた)へもすらめ。
「おもひで」よ、なほ隈(くま)もなく、汝(な)が胸の
こころの奧所(おくが)ひらくべき黄金(こがね)の鍵を、
悲みにとこしへ朽ちぬしるしありと、
音も爽(さや)かにかがやかに捧げまつりね。


眞晝時とぞなりにける、あるかなきかの
軟風(なよかぜ)もいぶき絶えぬる日盛(ひざかり)や、
野のかたを見やればひとつ鐘のかげ、
うねりつづける生垣の圍ひの隙(ひま)を
軒低き鄙(ひな)の家(や)白(しろ)くかつ照りつ、
壁を背に盲(めしひ)の漢子(をのこ)凭(よ)りかかり、
その面(おもて)をば振りかへし日にぞあてたる。

停(とどま)り足掻(あが)く旅の馬、土蹴る音は
緩やかに堅し、輝く光こそ
歌ふらめ、歌あひのしじま長きかな、
眞晝は脚を休めつつ、ひとつところに、
かにかくに過(すが)ひ去ぬべきさまもなく、
濃き空の色はかなたにうち澱(よど)み、
暑さはたゆき夢載(の)せて重げに蒸しぬ。
ロセチ白耳義旅中の吟


深き眞晝を弗拉曼(ブラマン)の鄙(ひな)の路のべ、
いつきたる小(ちさ)き龕(ほくら)の傍(かた)へ過ぎ
窺(うかが)へば懸(か)け聯(つら)ねたる畫の中に、
聖母は御子の寢すがたを擁(いだ)きたまへり
羊を飼へる少女(をとめ)らは羊さし措(お)き、
晴れし日の謝恩(しやおん)やここにひざまづく、
はたや日の夕もここにひざまづく、
悲しき宿世(すぐせ)泣きなむも、はたまたここに。

夜も更けしをり、同じ路、同じ龕(ほくら)の
かたへ過ぎ、見ればみ燈(あかし)ほのめきて
如法(によほふ)の闇の寂しさを耀(かがや)き映す、
かくも命の温(ぬく)み冷え、疑ひ胸に
燻(くゆ)る時、「信」のひかりをひたぶるに
頼め、その影、あるは滅(き)え、あるは照らさで。
ロセチ白耳義旅中の吟



泥沙坡(ナイシャプル)とよ、巴比崙(バビロン)よ、花の都に住みぬとも、
よしやまた酌(く)む杯(さかづき)は甘(うま)しとて、苦(にが)しとて、
絶間あらせず、命の酒うちしたみ、
命の葉もぞ散りゆかむ、一葉(ひとは)一葉に。

朝毎に百千(ももち)の薔薇は咲きもせめ、
げにや、さもあれ、昨日(きのふ)の薔薇の影いづこ、
初夏月(はつなつづき)は薔薇をこそ咲かせもすらめ、ヤムシイド、
カイコバアドの尊(みこと)らのみ命をすら惜しまじを。

逝(ゆ)くものは逝かしめよ、カイコバアドの大尊(おほみこと)、
カイコスル彦(ひこ)、何はあれ、
丈夫(ますらを)ツアルもルスツムも誇らば誇れ、
ハチム王宴(うたげ)ひらけよ――そも何ぞ。

畑(はた)につづける牧草(まきぐさ)の野を、いざ共に
その野こえ行手(ゆくて)沙原(すなはら)、そこにしも、
王は、穢多(ゑた)はの差別(けぢめ)なし、――
金の座に安居(あんご)したまへマアムウド。

歌の一卷(ひとまき)樹(こ)のもとに、
美酒(うまき)の壺(もたひ)、糧(かて)の山、さては汝(みまし)が
いつも歌ひてあらばとよその沙原(すなはら)に、
そや、沙原もまたの天國。


賢(さか)し教に智慧(ちゑ)の種子(たね)播(ま)きそめしより
われとわが手もておふしぬ、さていかに、
收穫(とりいれ)どきの足穗(たりほ)はと問はばかくのみ――
『水の如(ごと)われは來ぬ、風の如われぞ逝(ゆ)く。』
オマアカイアム


さ蠅(ばへ)よ、あはれ、
わがこころなき手もて、今、
汝(いまし)が夏の戲(たはぶ)れを
うるさきものに打拂ふ。

あらぬか、われや
汝に似たるさ蠅の身、
あらぬか、汝、さらばまた
われにも似たる人のさま。

われも舞ひ、飮み、
かつは歌へども、終(つひ)の日や、
差別(けぢめ)をおかぬ闇の手の
うち拂ふらむ、わが翼。

思ひわかつぞ
げにも命なる、力なる、
思ひなきこそ文目(あやめ)なき
死にはあるなれ、かくもあらば、

さらばわが身は
世にも幸(さち)あるさ蠅かな、
生くといひ、將(は)た死ぬといふ、
その孰(いづ)れともあらばあれ。
――ブレエク


『怪魚(けぎよ)をば見き』と、奧の浦、
奧の舟人(ふなびと)、――『怪魚をか』と、
武邊(ぶへん)の君はほほゑみぬ。

『怪魚をばかつて霧がくれ
見き』と、寂しうものうげに
舵(かぢ)の柄(え)を執(と)る老(おい)の水手(かこ)。

武邊の君はほほゑみぬ、
水手またいふ、『その面(おもて)
美女の眉目(まみ)濃く薫りぬ』と。

水手はまたいふ、『人魚とは
げにそれならめ、まさめにて
見しはひとたび、また遇はず。』

船はゆらぎて、奧の浦、
霧はまよひて、光なき
入日惱める秋の海。

『げにかかりき』と、老(おい)の水手(かこ)、
『その日もかくは蒼白く
海は物さび呼息(いき)づきぬ。

『舷(ふなばた)ふるへわななきて、
波のうねうね霜じみの
色に鈍(にば)みき、そのをりに――』

武邊(ぶへん)の君はほほゑみぬ、
水手(かこ)の翁(おきな)は舵(かぢ)とりて、
また呟ける、『そのをりに――』

武邊の君は眼を放ち
海を見やれば、老が手に
馴れたる舵の軋(きし)む音。

船はこの時脚重く、
波間に沈み朽ち入りて
ゆくかのさまにたじろぎぬ。

水手の翁もほほゑみぬ、
凶(まが)の時なり、奧の浦、
ああ人も人、船も船。

昔の夢ぞほほゑめる。――
『そのをりなりき、たちまちに
波は燃えぬ』と、老の水手。

つぎてまたいふ、『海にほひ、
波は華さき、まどかにも
夕日の臺(うてな)[#ルビの「うてな」は底本では「うなて」]かがやきぬ。

『波は相寄りまた歌ふ、
焔(ほのほ)の絹につつみたる
珠のささやく歌の聲。

『そのをりなりき、眼(ま)のあたり
人魚(にんぎよ)うかびぬ、波は燃え、
波は華さき、波うたふ。

『黄金(こがね)の鱗(うろこ)藍(あゐ)ぞめの
潮(しほ)にひたりて、その面(おもて)
人魚は美女の眉目(まみ)薫る。』

昔の夢ぞかへりたる、――
凶(まが)の時なり、奧の浦、
ああ時も時、海も海。

『瞳子(ひとみ)は瑠璃(るり)』と、老の水手、
『胸乳(むなぢ)眞白に、濡髮を
かきあぐる手のしなやかさ。――

『武邊の殿よ、かかりき』と、
言へば諾(うなづ)き、『見しはそも――』
殿はほほゑみ、『何處(いづこ)ぞ』と。

『殿よ、ここぞ』と、老の水手
眼をみひらけば、霧の墓、
ただ灰色の海の面(おも)。

昔の夢はあざわらふ、――
『何處』と問へば『ここ』と指す
手こそわななけ老の水手。

船は今しも帆を垂れぬ、
人囚(とら)はれぬ、霧の海、
ただ灰色の帷(とばり)のみ。

『げにかかりき』と、老(おい)の水手(かこ)、
『船も狹霧(さぎり)も海原(うなばら)も、
胸のとどろき、今日もまた――』

またいふ、『あなや、渦まきて、
霧は狹霧を呑み去りぬ、
殿よ、沒日(いりひ)は波を焚(た)く。』

武邊の君は身じろがず、
帆は、――老の水手『見じ』とただ――
帆は紅(くれなゐ)に染りたり。

『あな見じ』とこそ老の水手、――
人魚うかびぬ、たちまちに
武邊の君が眼(ま)のあたり。

二つに波はわかれ散り、
人魚うかびぬ、身にこむる
薫も深し波がくれ。

人魚の聲は雲雀(ひばり)ぶえ、――
波は戲(たはぶ)れ歌ひ寄る
黒髮ながき魚(うを)の肩。

人魚の笑(ゑみ)はえしれざる
海の青淵(あをぶち)、その淵の
蠱(まじ)の眞珠(またま)の透影(すいかげ)か。

人魚は深くほほゑみぬ、――
戀の深淵(ふかぶち)人をひき、
人を滅(ほろぼ)すほほゑまひ。

武邊の君は怪魚(けぎよ)を、きと
睨(にら)まへたちぬ、笑(ゑみ)の勝、――
入日は紅く帆を染めぬ。

武邊の君は船の舳(へ)に、
血は氷りたり、――海の面(も)は
波ことごとく燃ゆる波。

武邊の君は半弓(はんきゆう)に
矢をば番(つが)ひつ、放つ矢に
手ごたへありき、怪魚の聲。

ああ海の面、波は皆
をののき氷り、船の舳に
武邊の君が血は燃えぬ。

痛手に細る聲の冴え、
人魚は沈む束の間も
猶ほほゑみぬ、――戀の魚。

むくいは強し、眼に見えぬ
影の返し矢、われならで、
武邊の君は『あ』と叫ぶ。

人魚ぞ沈むその面に
武邊の君は亡妻(なきつま)の
ほほゑみをこそ眼(ま)のあたり。

亡妻の笑(ゑみ)、怪魚(けぎよ)の眼と
怪魚の唇、――悔(くい)もはた
今はおよばじ波の下。

昔の夢はひらめきて
闇に消え去り、日も沈み、
波は荒れたち狂ひたつ。

暴風(あらし)のしまき、夜の海、――
水手(かこ)の翁はさびしげに
『船には泊(は)つる港あり。』

泊つる港に船は泊つ、
さあれすさまじ夢のあと、
人のこころの巣やいづこ。

武邊の君はその日より
こころ漂ひ二日經て、
またたどり來ぬ奧の浦。

領主の館(たち)の太刀試合(たちじあひ)、
また夜の宴(うたげ)、名のほまれ、
武邊の君は棄て去りぬ。

二日を過ぎしその夕、
武邊の君はそそりたつ
巖(いはほ)のうへにただひとり。

巖の下(もと)に荒波は
渦まきどよみ、ながめ入る
おもひくるめく瑠璃(るり)の夢。

帆かげも見えず、この夕、
霧はあつまり、光なき
入日たゆたふ奧の浦。

武邊の君に幻の
象(すがた)うかびぬ、亡妻の
面(おも)わのゑまひ、――怪魚(けぎよ)の聲。

『幻の界(よ)ぞ眞(まこと)なる』――
武邊の君はかく聞きぬ、
痛手にほそる聲の冴え。

ああ、くるめきぬ、眼もあはれ、
心もあはれ、青淵に
まきかへりたる渦の波。

武邊の君は身を棄てて
淵に躍らす束の間を、
『父よ』と風に呼ぶ聲す。

武邊の君の身はあはれ
ゑまひの渦に、幻の
波のくるめき、夢の泡。

『父よ』と呼びぬ、奧の浦、
水手(かこ)の翁はその聲を、
眠(ねぶ)らで聞きぬ夜もすがら。

水手の翁は曉に
奧の浦べを『父』と呼ぶ
姫のすがたにをののきぬ。

『姫よ、怪魚(けぎよ)かと魂消(たまぎ)えぬ、
は、は』と寂しう老の水手、
『姫よ、さいつ日わが船に――』

『父は人魚のあやかしに――』、
姫は嘆きぬ、『父はその
面わのゑみに誘(ひ)かれき』と。

『姫よ、武邊の君が矢に
人魚は沈み、夜の海、
あらしの船』と老の水手。

姫は嘆きぬ、『名のほまれ、
領主の館(たち)の太刀試合、
父は辭(いな)みてあくがれき。』

『姫よ、甲斐なき人の世』と
老は呟く、姫はまた
『父は怪魚(けぎよ)棲(す)む海の底。』

ああ幾十度(いくそたび)、『父』と呼ぶ
姫が聲(こわ)ねに力なく、
海はどよもす荒磯(あらいそ)べ。

姫は『母よ』と、聲ほそう、
『母よ』と呼べば、時も時、
日はさしいづる奧の浦。

黄金(こがね)の鱗(うろこ)波がくれ、
高波白くたち騷ぎ、
姫を渚に慕ひ寄る。

三たび人魚を眼(ま)のあたり、
水手の翁は『三度ぞ』と、
姫をまもりてたじろげば、

渚かがやく引波(ひきなみ)の
跡に人魚は身を伏せて、
悲み惱む聲の冴え。

姫は人魚をそと見やる、
人魚は父の亡骸(なきがら)を
雙(さう)の腕(かひな)にかき擁(いだ)き、

眞白き胸の血のしづく、
武邊の君が射むけたる
矢鏃(やじり)のあとの血の痛手。

人魚はやをらかなしげに
面(おもて)をあげぬ、悲しめど
猶ほほゑめる戀の魚。

人魚は遂に絶え入りぬ、
姫はすずろに亡父(なきちち)の
むくろに縋り泣き沈む。

渚(なぎさ)どよもす高波は
ふたたび寄せ來(く)、老の水手、
『あなや』と叫ぶ隙(ひま)もなく、

武邊の君が亡骸(なきがら)も、
姫も、人魚も、幻の
波にくるめく海の底。

水手の翁はその日より
海には出でず、『まさめにて
三度(みたび)人魚を見き』とのみ。
(明治四十一年一月刊)





底本:「日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨 集」講談社
   1968(昭和43)年5月19日初版発行
   1969(昭和44)年10月1日第2刷
底本の親本:「有明集」易風社
   1908(明治41)年1月
入力:広橋はやみ
校正:荒木恵一
2014年7月16日作成
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